はじめましてのジラール公爵家
クリスレインお兄様は詳しい事情は話さずに、ロクサス様に私を預けると「じゃあ、リディア。またね」と言って、ひらひら手を振ってにこやかにどこかに帰っていった。
私たちのいる場所からは見えないところで待機しているレイル様たちと合流するのだろう。
兵士の方々が「失礼しました、リディア様!」ととても恐縮しながら門を開けてくれる。
ベシャっと転んでいたロクサス様は何事もなかったように衣服や眼鏡を整えると、私に手を差し出した。
「……リディア、こちらに。足元が滑るから、気をつけろ」
「はい……ロクサス様が転ばないようにしっかり捕まえておかないと」
「俺も年中転んでいるわけではない。先ほどのあれは忘れろ」
「ロクサス様、痛かったですよね? 怪我はしていませんか?」
「問題ない」
私はロクサス様と手を繋いで、ジラール公爵家に向かった。
ロクサス様が転ばないように気をつけなければという使命感がすごい。
いつも高級そうなお洋服を着ているロクサス様だけれど、ジラール家に戻ったからだろうか、深い茶色のコートとトラウザースで、中に着ている金糸で模様の描かれた華やかなベストを引き締めている。
首には赤いスカーフが巻かれていて、その上で銀細工の飾りが輝いている。
「……リディア、そ、その、こ、婚約者というのは、一体……」
公爵家への長いアプローチを歩きながら、ロクサス様がなんだかとっても困った様子で言う。
レイル様はロクサス様に説明していないみたいだ。
レイル様ならロクサス様のお部屋に忍び込んでお話しをしていそう──と思うのだけれど。
「あの……ロクサス様が、ジラール公爵家に帰って……あんまりしたくない結婚を、しなくちゃいけなくなっているってレイル様が言って……それで、その、……助けにきました……!」
うまく説明できないけれど、間違ってはいないわよね。
ロクサス様を見つめながら一生懸命説明すると、ロクサス様は眉間に深い皺を寄せて私から音がするぐらい激しく視線を逸らした。
もしかして、怒っているのかしら。迷惑だったかもしれない。
「……ご、ごめんなさい。……婚約者のふりをして欲しいって、レイル様に言われて……でも、私じゃ力不足ですよね」
私はロクサス様のお友達のつもりでいるのだけれど、それはあくまでお友達だ。
婚約者のふりをするのならロクサス様の好みのタイプの女性が良かったのかもしれない。
たとえば、胸が大きい美女とか。
私は胸が大きいけれど、美女かと言われるとそうでもない。
ティアンサお母様によく似ている私の顔立ちは、美女というには少し幼いような気がする。
たとえばファミーヌさん(成長後)みたいな、妖艶な美女だったら良かったのかもしれない。
妖艶な美女の知り合いはいないけれど、一番妖艶な美女に近い存在はマーガレットさんだ。
「……マーガレットさんに頼めば良かったかもしれません」
「何故そうなる!?」
ロクサス様が突然大きな声を出したので、私はびくりと体を震わせた。
「だ、だって、ロクサス様、迷惑そうに見えたので……」
「そんなことはない……! リディアが、俺のこ、ここ、婚約者になってくれるというのなら、俺もそのように、振舞わせてもらう。……生半可な演技では、父上は騙せないからな」
「は、はい……」
生半可な演技ではない婚約者というのは、どういう感じかしら。
私は恋愛経験皆無な頭の中から、知識を振り絞る。
そう──あれは、ステファン様と仲良しだった十三歳の頃。
ステファン様に連れていってもらった観劇で、貴族の婚約者同士が愛を語り合うというシーンがあったような気がする。
ステファン様はそのシーンになると、「リディアにはまだ早い」と言いながら、私の目を塞いでいた。
目を塞いでいたけれど耳は聞こえていたので、台詞はなんとなく覚えている。
「……ロクサス様」
「なんだ」
「……ええと……お慕いしております……?」
「…………あ、ああ、……お、俺も、俺も……俺も、……そ、その、……お前が、好きだ、リディア……!」
「ロクサス様、もう少し落ち着いて……演技だとばれてしまいます……」
私よりもずっとロクサス様の方が動揺しているのではないかしら。
とても心配なのよ。レイル様とクリスレインお兄様が考えた杜撰な作戦よりもずっと心配。
「あ、あぁ……そうだな。……落ち着け、俺。どうせ兄上たちが、何かしようとしているのだろう……」
「はい……その、何かしようとしています……」
レイル様が「ロクサスには詳しいことは秘密だよ。ロクサスはすぐ顔に出るからね」と言っていたのを思い出す。
確かにロクサス様はすぐ顔や態度に、隠していることが出てしまうみたいだ。
ロクサス様は以前、レイル様を助けるためにフランソワちゃんの婚約者を、嫌々していたらしい。
嫌々婚約者でいたことに気づかれないように、演技をしてフランソワちゃんが好きだっていうふりをしていたらしいのだけれど。
これでは、すぐに嘘がばれてしまったのではないかしら。
今度フランソワちゃんに聞いてみたいわね。
けれどあの時のフランソワちゃんはファミーヌさんに操られていたので、あんまり話したくないかもしれないから、気になるけれど触れない方が良いかもしれない。
「……まぁ、そうだろうな。……それなら、俺は、……兄上が来るまでは、リディアを婚約者として扱って良い、ということだな……」
「ロクサス様?」
「いや、なんでもない。こちらの話だ」
「私、……力不足かもしれないですけれど、頑張りますね。ロクサス様が自由になれるように。……ロクサス様、結婚したくないんですよね。ステファン様が好きだということは内緒で……」
「何故そうなる!?」
また大きな声で怒られたので、私はびくりと体を震わせた。
「だ、だって、レイル様が……ジラール公爵は、ゼーレ様のことが好きだったって。それで、ロクサス様は……」
「殿下のことは別に嫌いではないが、殿下が好きだから結婚したくないというのは勘違いだ。それに俺の父もゼーレ様のことは敬愛しているが、リディアの言う好きとは違う」
「違うのですね……」
「あぁ。違う。俺が好きなのは……」
「ロクサス様には好きな女性がいるのですね。名前、言わなくて良いですよ。私、内緒にしておきますから」
私は口元に指をあてると、微笑んだ。
大丈夫だ。そういうことなら、やっぱりロクサス様は自由にして差し上げたほうが良い。頑張ろう。
好きな女性の名前を知ったら言いたくなってしまうかもしれないから、ここは聞いておかない方が良いわね。
「お前は……」
「……あ、あの、どうして怒るんですか……?」
ロクサス様が苛々している。
玄関までのアプローチを歩く間に、ロクサス様に数回怒られた私は、こんな調子で婚約者のふりなんて前途多難かもしれないと、心配になってしまった。
ジラール家の玄関に入ると、ロクサス様はぴたりと足を止めた。
「まずい……」
「不味い? 何か美味しくないものを食べたのですか?」
不思議に思って尋ねると、ロクサス様は扉を隠すようにして扉の前に両手を広げて立って、私に向き直った。
すごく不審者みたいな動きだった。
扉に張り付く、ロクサス様の好物の蛸みたいだ。
「リディア、待っていろ、ここで待っていてくれ、頼む……!」
「は、はい、良いですけれど……」
何事かと思って見守っていると、ロクサス様が先にジラール家の中に入って、何かをごとんごとんと動かす音が聞こえた。
「……あら、……女の子を外で待たせるなんて、いけないわね。中にお入りなさいな」
優しい声が聞こえて、薄く開いていた扉が開いた。
そして私が見たのは、蛸にまとわりつかれた女性の描かれた不思議な大きな絵を抱えているロクサス様と、私の前に立って優しく微笑んでいる綺麗な女性の姿だった。
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