ほかほか茹で蟹ととろとろチーズのミートパイ
冬の空は、暗くなるのが早い。
夕焼けが街を蜜柑色に照らしたと思ったら、すぐに薄暗くなり、薄暗くなったなと思ったら、気づいたらとっぷり日が落ちてしまう。
「よし……!」
私はシエル様に貰ったまん丸羊のショールを羽織ると、ミートパイの入った箱と、冷凍蟹を二杯、水気を切るために大きめの布巾にくるんで袋に入れた物を持って、ロベリアの扉を出た。
明るい室内に、お父さんとエーリスちゃん、ファミーヌさんが綺麗に一列に並んで見送ってくれる。
「ちょっと行ってきます。もう遅いので、皆、ちゃんとお父さんの言うことを聞いて、ベッドであったかくして眠るのですよ」
「かぼちゃぷりん!」
「タルトタタン……」
使命感に燃える瞳でエーリスちゃんが体をぽよぽよさせて、ファミーヌさんが神妙な面持ちで頷いた。
「子供たちのことはお父さんに任せなさい。気をつけて行ってきなさい、リディア。外はもう薄暗い」
「シエル様の家まではすぐそこなので大丈夫ですよ、走って行ってきます」
「雪が積もっているのだから、転ばないように」
「はい!」
私は皆に見送られて、シエル様の家へと向かった。
靴底がさくさくと雪を踏む。吐く息が白くけぶる。頬や指先、剥き出しの皮膚に冷気が刺さるように痛んだ。
澄んだ空気の中で見上げた空は、どんよりと分厚い雪雲が立ちこめている。
私がここで暮らしはじめたとき、マーガレットさんに「夜は外にでちゃだめよ。暗くなったら戸締まりして、家の中にいるのよ。この街はそれほど安全な場所じゃないんだからね」と、何度も言われた。
私は怖いことは嫌いだから、言われたとおり暗くなるときちんと鍵を閉めて、お家の中で過ごしていた。
夜、出歩くなんて、はじめてかもしれない。
夜というには早い時間だけれど、魔石ランプで作られている街灯の明かりがぽつぽつと灯っている。
シエル様の家は、私の食堂から歩いて五分ぐらいの場所にある。
つまり、走ったら三分ぐらい。
いそいそと早足で歩く私の鼻先に、ぽつりと冷たいものがあたる。
「雪……」
降りそうだなと思っていたけれど、降ってきた。
どうして、シエル様は帰ってしまったんだろう。
(でも私、分かる気がする)
お友達なんだから、遠慮することなんてないのに。
(でもやっぱり、分かる気がする)
暖炉に火の灯る暖かいお部屋を、遠くから見つめる気持ちだ。
私は、暖められたお部屋には入ることができない。私にもお部屋はあったけれど、私は忘れられていたから、夏も冬も、ベッドの暖かさは同じだった。
掛布をかき集めて、ベッドの上で丸まっていた。けれどずっと眠っているわけにもいかないから、昼はできるだけ暖かいお洋服を着て、レスト神官家の中をふらふら歩いて。
暖炉に燃える炎を、魔石ストーブの温もりを、その前で楽しそうに笑い合う、人たちを。
良いなって思いながら、遠くから、見ていた。
羨ましさと、悲しさと、寂しさと。その部屋の中には、私は入れないという――拒絶感。
私の世界と、暖炉のある暖かい部屋には、見えない壁がある。
だから、中には入れない。
中に入ると――皆を、不快にさせてしまうから。
「……シエル様!」
暗い夜道には、もう人は誰もいない。
降り出した雪が、肩や頭に少しだけ積もった。
私はシエル様の家の前に辿り着くと、扉をばんばん叩いた。遠慮なんてしていられない。
だって私は、シエル様のお友達だから。
寂しいとき、一緒にいないなんて。――そんなのは、違う。
シエル様は寂しいって感じていないかもしれないけれど。私よりもずっと大人だからそんな感情は無いかもしれないけれど。でも。
でも――やっぱり、嫌。
「シエル様! シエル様、いるのは分かっていますよ、出てきてください! シエル様は完全に包囲されています、私に!」
ばんばん扉を叩きながら、私は大きな声でシエル様を呼んだ。
「リディアさん、……どうしました、外はもう暗いのに。何故、来たんです。危ないでしょう」
すぐに扉が内側から開かれる。
驚いたように目を見開いたシエル様が、咎めるように言った。
扉の奥はなんとなく薄暗い。暗い中でも、シエル様の髪の宝石は、煌めいて見える。
首の開いた黒い長袖に、細身の黒いズボン。
薄着だし、寒そうだし、私は、なんだかやっぱり怒っている。
「シエル様、ミートパイ冷えてました……!」
「ミートパイ……?」
「はい! ミートパイ、かちかちです。冷え冷えで、食べられません……冷凍ミートパイです……!」
「とりあえず、中に入って」
「シエル様、蟹も冷凍されています。冷凍蟹です。蟹ですよ、蟹」
「蟹ですか……」
私は背の高いシエル様を睨み付けるように見上げながら、ミートパイと蟹を押しつけた。
シエル様はいつも通り落ち着いていて、ミートパイの箱と、蟹の入った袋を受け取ってくれた。
「……リディアさん、雪が、頭に。寒かったでしょう」
「寒かったです。シエル様のお家も寒いです。氷魔石保管庫みたいに寒いです……!」
シエル様が家の中に入れてくれるので、私は遠慮無く中に入った。
「寒い、シエル様、寒い……どうしてあったかくしないんですか……? それに、暗いです、暗い……暗いし、前よりもごちゃごちゃしています。シエル様……!」
扉から中に入ると、すぐにリビングルームがある。
魔石ランプが一つだけついているお部屋には、革張りのソファが一つあって、なんだかよく分からない器具とか、材料のようなものとか、沢山の本が山積みになっている。
ダイニングと繋がっている広いリビングだけれど、ダイニングの方にもなんだか色々ごちゃごちゃ置いてあって、キッチンまで完全に物で浸食されていた。
「すみません、……これは……要らなかったから、返しに?」
「やっぱりシエル様ですよね、夕方、ご飯を届けに来てくれたんですよね。それでミートパイを置いて帰ったんですよね。ミートパイ冷凍事件です。せっかくのミートパイ……」
「このぐらいの気温なら、外に置いておいても大丈夫かと判断しました。……今日は要らなくても、明日の食事用にと思い、置いておいたのですが……迷惑でしたか」
「迷惑じゃないです、要らなくないです、どうしてそう思うんですか……? どうして入ってきてくれなかったんですか……」
お部屋は寒いし、暗いし、座るところもないし、ご飯を作るところもないし。
シエル様はいつもと同じで、せっかく持ってきてくれたミートパイを、要らないとか、言うし。
なんだかとても悲しくなってしまって、鼻の奥がつんとした。
我慢するために唇を噛んだけれど、ぽろぽろと涙が零れてしまう。
「うぅ……っ」
「……リディアさん。……すみません。二階に行きましょうか、ここよりも少しは、片付いていますから」
私は、片手にミートパイの箱と、蟹の袋を抱えたシエル様に手を引かれて、二階にあがった。
二階にも、小さ目のキッチンがある。そこにミートパイと蟹を置いて、シエル様はキッチン以外に何もない――本当になにもない、テーブルと椅子さえない部屋を見渡して、深く溜息をついた。
それから私を連れて、別の部屋に向かった。
そこは、簡素なベッドが一つと、水の入ったボトルと固形食料の袋が雑に入れられた箱が一つ、それからクローゼットが一つあるお部屋だった。
つまり、ほぼ何もない。
「シエル様、お部屋、寒い……うう、氷魔石保管庫にすんでいる、シエル様……リーヴィスさんにも言いつけますからね……! 私と、ご飯をちゃんと食べるって約束したのに……」
「……すみません。泣かないでください、リディアさん。あなたに泣かれると、今は、……どうして良いのか……」
シエル様は私をベッドに座らせると、目の前に膝をついた。
薄暗い部屋に、ふわふわと灯りが灯る。光玉が、ふわふわと浮いている。シエル様の魔法の灯りだろう。
このお部屋、魔石ランプさえない。
掛布も、薄いし。シエル様は雪の日を甘く見ている。
「……私、怒っています」
困惑の色を帯びたルビーのような瞳が、私の瞳を覗き込んでいる。
シエル様の瞳にうつった私は、瞳に涙をいっぱいためて、頬を赤く染めていて、眉をきゅっと寄せている。
「シエル様、帰ってしまって……シエル様、毎日来てくれるって、約束、してくれたのに。私、すっかりそれを、忘れていたみたいで……ご飯、届けてくれたのに。私の体調、見に来てくれたのに。……日曜日まで、ご飯を作らないって約束、してたのに。私、それを破ってしまって……」
私の体調の心配を、シエル様はとてもしてくれたのに。
私は約束を破ってご飯を作って、それで、シエル様が来てくれることを忘れて、皆でご飯を食べて。
もっと、注意深く、慎重に、気をつけていれば。シエル様が来てくれた気配にだって、気づけたかもしれないのに。
お友達が沢山できたことに浮かれて。
私、最低だわ。
「……それは、あなたが反省すべきことではありません。……僕の方こそ、申し訳ありませんでした。殿下や、姫君と過ごすあなたの時間を邪魔したくないと考えました。……それでも、自分が訪れたというような痕跡を、残す行動をとってしまった。そのせいで、あなたに余計な気をつかわせてしまって」
「シエル様!」
私は、私に視線を合わせてくれているシエル様の両手をぎゅっと握った。
やっぱり冷たい。雪の中を歩いてきた私よりもずっと、冷たい。
「ちゃんと、本音、話してください。シエル様はいつも、沢山気をつかって、色んな事を、気にして。すごく、我慢してますよね、色々なこと」
「そんなことは、ありません」
「そんなこと、あるんです……! ちゃんと言ってください。シエル様、約束を破った私を、怒って下さい。それから、……それから、寂しかったって、言ってください。私なら、寂しいです。私がシエル様なら、きっと、すごく寂しいです……」
「僕は……」
シエル様は目を伏せた。それから、眉間に深く皺を寄せる。
苦しそう。シエル様のこんな顔は――はじめて見たかもしれない。
「僕はずっと、自分には、感情が無いのだと思っていました。……自分のことも、全て、他人事のように。自分と世界の間には、薄い膜が張っているように、感じていた。……それは、きっと心臓が鉱石でできているから。流れる血も冷たいのだろう。そう、思っていた」
どことなく困惑したように、シエル様は訥々と言葉を紡ぐ。
「けれど――あなたに出会ってから、あなたの手の温かさを、あなたの作る料理の優しさを、知ってしまってから。……自分が、自分ではなくなる、ような感じがして。頭では、理解しているんです。なにが正解なのか。けれど、……胸の奥にある何かが、いつも、軋んでいる」
「それは……嫌な、ことですか? シエル様にとって」
「違います。嫌ではありません。……自分を情けなく、思います。僕が訪れた証拠のような物を、あなたの家に残して。そして、あなたがここに来てくれたことを、喜んでしまっている。……構って欲しいと駄々をこねる、幼い子供のように」
「それって駄目なことですか? 構って欲しいって思うの、普通じゃないですか? 私も構って欲しいです。私の食堂にシエル様が来てくださるの、嬉しいです。私を心配してくれて、すごく、嬉しいです。それと、同じです」
「……リディアさん。……ですが」
「シエル様は、私がここにきて嬉しいんですよね?」
「……はい」
「良かった。邪魔って思われたら、どうしようって思いました。迷惑って思われたら、どうしようって。私も、シエル様と同じです。……でも、シエル様と会えなくなったりしたら、嫌だから。だから、ここに来ました。勇気を、出したんです。怒ると、少し勇気が出るから」
繋いだ手が、じんわりと温かくなる。
私の手も冷たくて、シエル様の手も冷たいけれど。繋いでいると、ちゃんと、暖かい。
「……シエル様、ちゃんと感情、あったんですよ、ずっと。……悲しいことが沢山あると、心が疲れてしまうでしょう? 何にも、感じなくなるみたいに」
シエル様は――ひとりぼっちだったのだろう。
私と同じで。
辺境伯家で、ずっと一人。寒いことにも、ご飯がないことにも、嘲られることにも、それから、痛いことにも、慣れてしまって。
慣れてしまって――心が、疲れてしまって。
「……シエル様が楽しいと思ったり、怒ったり悲しくなったり、……ご飯が美味しいと思ったり、……自分を、大切にしてくれると、私は嬉しいです」
「……自分を大切にすることは、とても、難しいように思えます」
「それなら私が、シエル様を大切にします。……ご飯、食べましょう? 蟹を持ってきましたよ。ミートパイもあっためたら美味しく食べられますよ。シエル様の魔法があれば、すぐに食べられます。一緒に食べましょう? 私、走ってきたからお腹が空きました。蟹もミートパイも美味しいから、いくらでも食べられますよ」
「……リディアさん。……ありがとうございます」
シエル様はそう言って、繋いでいた私の手を引いた。
ぎゅっと、私の体を抱きしめる。
シエル様の方がずっと大きいのに、それは、小さな子供が救いを求めているような仕草に思えて。
私はシエル様の背中に腕を回すと、広い背中をそっと撫でた。
いつもお読み下さりありがとうございます。ブクマ・評価、感想共々、とても感謝しております!
長い長いお話にお付き合いくださってとても感謝しております!
二章はここで一先ず終わりです。
閑話を挟んで、三章をはじめたいと思います。よろしくお願いします!