浴室の不審者
私のお家の、泡いっぱいのバスタブの中に、神秘的な美青年が当然みたいな顔で浸かってくつろいでいる。
浴室の扉を開いて中を覗き込んだ私と視線が合うと、どういうわけかにっこりと微笑んだ。
「リディ────」
「ひっ、ぁ、あああああ……っ」
私は大きな悲鳴をあげて、勢いよく扉を閉じると、浴室から転がるようにして逃げ出した。
「タルトタタン!」
「かぼちゃぷりん!」
悲鳴を聞きつけたらしいファミーヌさんとエーリスちゃんが、すごい勢いで走ってくる。
私はエーリスちゃんを鷲掴んで胸元に押し込み、ファミーヌさんを肩の上に乗っけると、階段を駆け降りる。
リラックスタイム用のもこもこ羊ちゃんスリッパと、お風呂上がりのひらひらリボン付きの白いワンピースのまま外に出て、ご近所さんに助けを求めようと思ってきょろきょろした。
ちょうど店先で足を組んでアロマ煙草をふかしているマーガレットさんと目があった。
「あら、リディアちゃん。どうしたのそんな格好で。でも丁度よかった、今あたし、療養所から帰ってきたところで、一休みしたらあんたの顔を見に行こうと思ってたのよ」
「マーガレットさん、マーガレットさん! お家のお風呂に、全裸のイケメンが……!」
「全裸のイケメンですってぇぇええ!?」
マーガレットさんは目をみひらいて、気怠い感じで吸っていたアロマ煙草を簡易灰皿に押し付けて、火を消した。
「不審者です、不審者、マーガレットさん、不審者……!」
「誰なの、リディアちゃん、その全裸のイケメンは誰なの……!?」
「わからないから怖いんです……っ、私のお家のお風呂に入っているんです……」
「すぐに行きましょう!」
さっきまで気怠げだったマーガレットさんだけれど、急にきびきびと立ち上がってくれる。
すごく、頼りになる。
本当はシエル様の家まで助けを求めに行こうかと思っていたのだけれど、マーガレットさんが「ほら、行くわよリディアちゃん」と私の背中を押すので、私はマーガレットさんを連れてロベリアに戻った。
マーガレットさんを先頭に、私はエーリスちゃんとファミーヌさんを両手に抱えて、浴室へ向かう。
浴室の前に、腰にタオルを巻いたびしょびしょの男性が立っている。
胸板、腹筋、余計なお肉のなさそうな白い体。癖のある長い黒髪から、ぽたぽた雫が滴っている。
菫色の瞳はやや切長で、優しげに見えるのは少し垂れ目だからなのだろう。
「びしょびしょ……」
「本当だわ……本当に全裸のイケメンがいるわね……あんた、何者なの、リディアちゃんの家に忍び込むとか、シエルやらルシアンやらに知られたら大変なことになるわよ、良い度胸ね……!」
「い、いや、私は……」
「うう、せっかく特別な泡風呂の日なのに、不審者にお風呂場をびしょびしょにされた……」
「この香りは、あたしがプレゼントしたブリリアントローズね……! やっと入浴剤をお風呂に入れて女子力をあげる気になってくれたのね、リディアちゃん……! さては、恋!?」
「鯉?」
「恋ね、リディアちゃん。相手は誰なの、教えなさい……! 嬉しいわ、あんたを見守りはじめてから、喪女一直線のあんたをずっと心配してたのよ、あたし。命短し恋せよ乙女ってよく言うじゃない?」
「マーガレットさん、鯉よりも、今は、不審者です」
「そうだったわ。あんた、なんなの!? リディアちゃんが可愛いからってこっそりお風呂に入ってさっぱりしてくるとか、どういう趣味なの、それは!?」
「風呂に入れと言われたから、入っただけだ。リディア、落ち着け。私だ」
私だ、と言われても。
知らない人なのだけれど。
でも、そういえば、声に聞き覚えがある気がする。
「もしかして、お父さん?」
「レスト神官長なら今、たぶん、大神殿奥のレスト神官家で、ティアンサ様といちゃいちゃしてるわよ、多分」
「マーガレットさん、両親のそういう話はちょっと……でも、この声はお父さんです」
「かぼちゃぷりん!」
「タルトタタン……!」
エーリスちゃんとファミーヌさんが、私の手の中で男性を威嚇している。
男性は深いため息をつくと「私は君のお父さんだ、リディア。この姿のことを、忘れたのか」と言った。
そういえば、私はこの姿のアルジュナお父さんも、知っている気がする。
薄ぼんやりとだけれど、思い出したような、思い出さないような記憶が、脳裏をよぎる。
そう、あれは──私がまだ、すごく小さい頃。
レスト神官家の建物は私にはすごく大きくて、誰にも構ってもらえなかった私は、いつもお家の中をうろうろしたり、廊下の行き止まりの端の方で、座り込んだり、お庭の奥にある休憩用の長椅子で、ぼんやり空を見上げたりしていた。
この世界に私はひとりぼっちなのかもしれないと、その日もぼんやり空を見上げながら、考えていた。
私は本当はこの家の子じゃないのかもしれない。
それでもこの家に置いてもらえているから、ありがたいことだ。家の中にいれば、雨に濡れなくてすむ。
「……君の友人に、私はなろう」
「誰ですか?」
不意に、私の目の前に、背の高い男の人が現れた。
見たことのない人だ。けれどあまり、怖い感じはしない。
「リディア、私はアルジュナ。君の友人。私は君のそばにいる」
「……お友だちも欲しいですが、お父さんが欲しいです」
私のお父さんは、私のことを嫌っている。
だから、私は、お父さんが欲しい。家族が、欲しい。
本当はお母さんが良いけれど、男の人だから、お母さんにはなれない。多分。
「では、私は君のお父さんだ」
「もっとふわふわしていて、可愛い方が良いです……」
大きな男の人だと、ぎゅっとして眠れないから、小さくてふわふわの方が良い。
「そうか、これで良いか?」
男の人は少し考えるようにして黙り込むと、一瞬のうちに私の眼の前からいなくなった。
男の人の代わりに私の目の前にいたのは、白い小さな犬だった。
「犬だ」
「犬ではない、私は君のお父さんだ」
「お父さん」
そうして、アルジュナは犬になって、私のお父さんになったのだった。
その後すぐにいなくなってしまったのだけれど。
それは、ファミーヌに捕まってしまったからなのだけれど、その時の私はそんなことは知らなくて、白い犬は私の寂しさが作り上げた幻覚だったように思えて、私はアルジュナのことを記憶の底に押し込めてしまった。
「お父さん……」
「リディアちゃん、お父さんって何!? だめよ、そういうのは、許さないわよ、あたしは!」
「そういうの?」
「お前は、星詠みの神官マクベスだろう。落ち着け」
「なんなの、その名前であたしを呼ぶんじゃないわよ」
「マーガレットさん、ごめんなさい。すごく勘違いをしてしまいました、私……この人、私のお父さんです。犬の、アルジュナです。聖獣なんだそうです」
「さっぱりわからないわ……! でも聖獣? 聖女のそばに必ず現れるとかいう、聖獣? 全裸の不審者が?」
「さっきまで犬だったんです……」
私の説明に、マーガレットさんは頭を抱えた。
アルジュナお父さんは軽く頭を振ると、一瞬のうちに、犬に戻った。
犬に戻っても、びしょびしょのままだった。
犬の本能なのか、びしょびしょの体をぶるぶるふるわせたので、水滴がそれはもう飛び散って、私やマーガレットさん、エーリスちゃんやファミーヌさんをびしょびしょにした。
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