深い眠りと王子様
――金に目が眩んだ男によって、人魚は見世物小屋へと売られてしまったのです。
中低音の優しい声が、東屋に響いている。
中庭には様々な花が咲き乱れている。
ネモフィラ、クレマチス、ラベンダー、薔薇。
青と白の花が多いのは、王妃様が好きな花なのだという。
「どうして、ひどいことをするのですか?」
「どうして。……そうだな、男は金が欲しかったのかもしれない」
「お金は人魚よりも大切なのですか?」
「愛より金を求めるものがいないわけじゃない」
ステファン様は私よりもずっと大人。
何でも知っている。
私は感心しながら、うん、と、頷いた。
「人魚はくるひもくるひも、狭い水槽の中で見世物になりました。自由はありません。どこにも逃げることができません」
ステファン様の膝の上には、絵と文字の書かれた、絵本がおかれている。
それは、子供向けの本だ。
私は静かに、ステファン様の声を聞いていた。
お城に来るときだけは、綺麗なドレスを着せてもらえる。
お城からレスト神官家に帰るまでの短い時間、私は牢獄から外に出ることができる。
人魚は、それができない。
ひとりぼっちで、閉じ込められるのは、とても辛いだろう。
「海に帰りたいと、人魚は思いました。素敵な恋や、あたたかい愛情、煌びやかな、人の世界。そんなものはもういらない。暗く深い海の底に、自由なあの場所に、かえりたい」
「……恋や、愛情は、いらないのですか?」
「自分を愛してくれていると思っていた男に裏切られて、絶望してしまったのだろう」
「絶望……」
「魚と人間、二つがあわさった体の人魚を見て、ある者はおそれ、ある者は馬鹿にし、ある者は化け物だと言って水槽に石を投げました」
人魚というのは、美しいものなのではないかしら。
美しいのに、形が違うから――人間ではないから、罵られる。
それはとても、かなしい。
「人魚は、水槽の水がだんだん黒く濁っていくことに気づきました。まるで、人魚の心のように。やがて、嵐が起こりました。嵐でおきた大水が街を飲み込んで、街は滅びてしまいました」
「滅んでしまったのですか? 人魚は、どうなったのですか……?」
「この話は、ここで終わり。人魚がどうなったのかは書いていないが、きっと、嵐で起こった大水と共に、海にかえることができたのだろう」
「そうですか……良かった。でも……それでは、街の人々が……」
じわじわと、涙が滲む。
人魚もかわいそうだけれど、街にも沢山の人がいたはずだ。
人魚を笑いに来なかった人だって、沢山。
それなのに、街は、滅んでしまった。
「リディア、君は、泣き虫になったな」
「それは、悲しいお話です」
「そうだな。悲しい話を選んできた。だが、腹が立たないか? 全ては人魚を裏切った、男のせいだろう」
「腹が立つ……」
ステファン様はぱたんと本を閉じると、東屋の長椅子の上に置いた。
私の目尻を指先で拭って、小さな子供にするみたいに、髪を撫でてくれる。
「男は人魚に愛を囁き、自分の手元に置いた。だが、金に目が眩んで、人魚を売った」
「……でも、お金に困っていたのかもしれません」
「金に困っていたら、愛する者を売って良いのか?」
「何か、事情があったのかも……」
「それで、人魚が苦しんだとしても?」
「……人魚も、可哀想です。でも、街を滅ぼしたのは、やりすぎな気もします……ステファン様、難しいです、私、誰に怒ったら良いのか……」
困り果ててステファン様を見上げると、ステファン様は軽く首を傾げた。
「この話の場合は、人魚を裏切った男や、見世物屋の主人、それから人魚を嘲笑った者たちに怒るのが、正しいのだと思うが……困らせてしまったのなら、すまない。今度は別の、楽しい話を読もうか」
「はい……! 楽しいお話は、好きです」
私はほっとしながら、ステファン様に微笑んだ。
ステファン様は私に、かなしいや、はらだたしいや、嬉しいや、楽しいを、教えてくれようとしている。
新しい本の頁を、ステファン様の指が捲る音を聞きながら、私は人魚について考えていた。
きっと、悲しかったのだろう。
ひとりぼっちは、かなしい。
閉じ込められるのは、苦しい。
裏切られてしまえば、憎しみも、あるかもしれない。
(誰かが、人魚を助けてあげたらよかったのに)
誰でも良い。優しい誰かが、人魚を水槽から連れ出して、広い海へとかえしてあげたら良かったのだ。
けれど、人魚にそんな人は現れなかった。
私が本の中に入って、人魚を連れ出して、一緒に逃げることができれば良いのに。
そうしたらきっと、悲しい結末には、ならなかっただろう。
「……ん」
長い夢を見ていたような気がした。
ファミーヌの記憶。
シルフィーナの記憶。
それから私の記憶。
「……リディア、良かった」
ここはどこだろう。
ふわふわして、温かい。
声に視線を巡らせると、ステファン様と目が合った。
掛け布団の下で、ぎゅっと手が握られている。
ここは私のお店の二階にある、私のベッド。
ステファン様はベッドの横に持ってきた椅子に座っている。
「ステファン様……私、どれぐらい、眠っていましたか……?」
「丸一日」
「みんなは……!」
私はかばっと起き上がる。
頭が少し痛い。体が重たい。こんなこと、今までなかったのに。
私ががばっと起きたせいで、私の上に乗っていたらしいエーリスちゃんが、ベッドの上にぽよんと落ちた。
体をふるふるさせながら「ぷりん……」と小さな声で呟く。寝言らしい。
枕元では、アルジュナお父さんが丸まって眠っている。
そして、二つある隣のベッドでは、フランソワが健やかな寝息をたてている。
「大丈夫だ、リディア。フランソワも俺と共に起きていたが、長い間魔物による支配を受けていたせいだろう、途中で倒れるように眠ってしまった」
「フランソワちゃん……」
ただ、眠っているだけなら、良かった。
「ファミーヌの消滅と共に、皆の支配がとけて、街の騒ぎはおさまったようだ。今は、シエルやルシアン、神殿の者たちが中心となって、傷の治療や建物の修復にあたっている」
「みんなは、怪我は……?」
「問題ないようだ。リディア、心配せず、ゆっくり眠っていて良い。元気になったら、共に行こうか。きっと、嬉しい知らせが待っている」
「嬉しいお知らせ……」
少しすると頭痛がおさまってくる。
私はもう大丈夫。たくさん寝たし、割と元気だ。
少し怠いけれど、ご飯を食べればもっと元気になる筈。
「リディア、無理はするな。急いで向かったとしても、きっとまだ、眠っている。……ファミーヌの消滅とともに、ティアンサ様や、フランソワの母、それから、ファミーヌに食われていたと思われる者たちが、戻ったようだ」
「お母様……!」
私はベッドから、転がるようにして立ちあがった。
慌てたせいで本当に転がりそうになった私を、ステファン様が抱きとめてくれる。
私はステファン様の体にぎゅっと抱きついた。
なんだか無性に、甘えたい気持ちだった。
ステファン様、お兄様みたいだ。甘えることができていた、ほんの短い間が、とても懐かしい。
「リディア……?」
「お母様のところに、いきたいです、ステファン様……シエル様たちや、お父様のことも、心配です」
「あ、あぁ、そうだな。……行こうか」
ステファン様が私の体を力強く抱きしめ返してくれる。
フランソワが眠っている筈のベッドから「浮気王子……お姉様に触れないで、不埒……」と、怒りに満ちた声が聞こえた。
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