第9話 こうして、『ヤン』へと繋がる
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目を覚ましたとき、私は泣いていた。
あの夜にも、再会した日にも、必死で堪えた涙だったのに。もう一回は、耐えられなかったみたいだ。
……最近、不安で仕方ない。
もしかしたら、お兄ちゃんの常識を壊すような女が、出てきてしまうんじゃないかって。
世間に対する、視野が広がったからかな。
そういうふうに、心配する日が増えたのだ。
……どうしよう。
独占欲や嫉妬心を、自分でも抑えきれなくなって、嘘をつけなくなってしまったら。
考えるだけで、また私は怯えてしまうんじゃないかって。
この幸せが、怖くなってしまう。
もちろん、だからお兄ちゃんは私を助けてくれたんだけど。
今は、妹って立場が、恨めしくて仕方ない。
私って、本当にわがままだ。
「……ばか」
「随分な挨拶だな」
「ぴゃあ!?」
気が付くと、お兄ちゃんはソファに座ってテレビを見ていた。私の肩には、タオルケットが掛かっている。
時刻は、午前1時。少し、長く眠ってしまったみたいだ。
「怖い夢でも見たのか?」
「別に泣いてない」
「そうか。まぁ、なんだ。温かいミルクセーキを作ってやる。砂糖は何杯がいい?」
「……二杯」
言って、お兄ちゃんは小さな鍋にミルクを注ぎ、卵黄を加えて弱火でコトコトと温め始めた。
逮捕される前、お兄ちゃんが作ってくれたのを覚えてる。
まったく、子供扱いして。
「アマネは、なんて言ってた?」
鍋を木のスプーンで回しながら、呟くように訊くお兄ちゃん。
意外だ。
そんなことを、聞きたがるなんて。
「叶わないけど、だからってすぐに諦められない。だって」
「そうか。風化するまでに、時間が掛からない事を願ってる」
「あんた、女の子みんなにそんな酷いことしてるの?」
「告白されたのは、初めてだって。それに、アマネは俺には勿体ない」
……つまり、お兄ちゃんは女に『酷いこと』をしている。
しかし、それは女遊びではなく、その逆。女遊びを、拒むことだったのだ。
だから、お兄ちゃんは嘘をついていない。やったのは、アマネとリンナの誤解を訂正しなかった事だけ。
「なら、最初から関わらないであげればいいじゃん。好きにさせて放置なんて、普通にあり得ない」
「そこのところは、どうにも。女の子は、嘘をつくのが上手いだろ」
心臓が、一瞬だけ撥ねた。
「だから、いつ、どこで。どうして、好きになってくれるのかが分からない。気付いた時には、いつも遅いんだ」
「好かれてるって、知ってるんじゃん」
「なんだか、前の日のよりもかわいくなるんだよ。それが好意の賜物だと気が付いたのは、高二の時だった」
……この先は、絶対に聞いちゃいけないって分かってる。
「なら!」
でも、もう無理だった。
だって、私はお兄ちゃんに、泣いてるところを見せちゃったんだもん。
「付き合ってあげればいいじゃん! なんで、そんなに断り続けるのよ!?」
机を叩いて、立ち上がった。
涙が、止まらない。これ、なんの涙なんだろう。
「……父さんに、聞いたのか?」
「違う、お母さんもお父さんも関係ない。私が、偶然聞いただけ」
「まったく。ミコは、本当によく偶然を引き寄せるな」
「誤魔化さないで!」
叫ぶと、お兄ちゃんは悲しく微笑んだ。
間は、一瞬だった。
「毎晩、夢を見るんだ」
「ゆ、夢?」
「そう、夢。俺が犯した、罪の夢」
しかし、聞いてしまった後悔は、きっと一生付き纏うのだろう。
やってする後悔の方が、苦しいなんて分かりきってるのに。
どうして、私は。
「感触がな、手から離れないんだ」
「なに、の……?」
「多分、殺意だ」
その表情は、何にも例えられないくらい、真剣で怯えたようなモノだった。
私の背筋は、凍りついて伸び切っている。
「こんな手じゃ、何かを手にする資格なんて無い。だから、アマネの好意は断った」
「なら、一人で生きていけばいいじゃん! 誰かを楽しませたり、役に立ったり、喜ばせたりして! そんなの、全部放って孤独に生きればいいでしょ!?」
「だが、贖罪はしなければいけない。俺は、飯を食わせてくれた社会に、尽くして生きなければいけない。もちろん、その社会に属する人にも」
「誰も頼んでない!」
「誰も頼めないだけだ。人は、出来れば苦労をしたくないし、面倒事に巻き込まれたくないと思っている。ならば、その役目には俺が収まるべきだ」
「また、自分を犠牲にして……」
「それに」
――カチ。
コンロの火が、止まった。
「俺は、嘘をつけない。事実を知ったあとでフラレたら、そんなのは、もう絶対に耐えられないだろ?」
……自分の愚かさに、言葉が見つからない。
お兄ちゃんは、自分の罪を償うために生きている。
だから、誰かのモノになるべきではない。
そして、一生は隠し通せないのだから、嘘をつく状況に身を置くべきではない。
バカな私では思い至らなかっただけで、全部知っていたハズのことだった。
……それに、ようやく気が付くだなんて。
「じゃ、じゃあ、事実を知っても嫌いにならない相手だったら」
ずっと壊れそうだった、私の理性に。
「そんな人なら、俺が先に好きになるだろうし。好かれないように、気を付けるよ」
今、ヒビが入ったのが分かった。
「誰かを、好きになるの?」
「そういう未来だって、あるかもしれない」
「私以外の女を、好きになるの?」
「こら」
額を、ツンと小突かれた。
いつの間にか、お兄ちゃんは目の前で微笑んでいる。
「落ち着きなよ、ミコ。お前のその感情は、勘違いだ」
「勘違いじゃない」
今のは、いつもの否定するクセじゃない。
初めて口を出た、私の――。
「あまり、兄ちゃんを困らせないでくれ。それは、ダメなんだよ」
「……え?」
「兄ちゃん、ちょっと怒ってるよ。理由、分かるだろ?」
……あぁ。
お兄ちゃんって、こんなに優しく怒るんだ。
「分かんない。大体、兄貴だなんて呼ばなくていいって言ったのはそっちでしょ?」
「……浅慮な発言だったと、今になって思うよ。でも、ダメだ」
誰も見たことのない、お兄ちゃんの怒った姿。
私だけが、知ってる。
私だけが。
私だけ。
「ごめん、なさい」
……もう、限界だ。
「それでいい」
だって、謝罪なんて、嘘から一番遠い言葉だもの。