第12話 でも、私は人のまま愛されたい
「ど、ど、どうにでもなるよ。いくら、お、お兄ちゃんでも、武器さえあればどうにでも!」
「止めておけ、絶対に後悔するから」
ドクドクと血が流れている。人差し指と中指の間から縦に切り裂かれた傷は、手のひらまで真っ二つに伸びていた。
凄く、綺麗。
「止めない。私はお兄ちゃんを殺して、ずっと私のモノにする」
もう、頭が真っ白だ。殺して幸せになる以外に、何も考えられない。
好きで仕方ない。だから殺す。生きてるお兄ちゃんをどうにも出来ないのなら、殺して手に入れるしかない。
お兄ちゃん以外に何も要らないんだから、お兄ちゃんを手に入れれば私は死んでもいい。そう、一緒に死ねばいい。そうすれば、私はずっと幸せなの。
「だから、殺されてよ」
そして、私はカッターを構えて、体ごとお兄ちゃんに突っ込んだ。
……。
「な?」
お兄ちゃんは、血塗れの手でカッターを掴み、私の体を支えていた。
血が、ポタポタと床に垂れている。
その雫が濡らした、ヌルリと生温かい感触で、私はようやく正気に戻った。刃は、お腹を少し刺しただけで貫いてない。
それよりも、掴むお兄ちゃんの手が。
「あまり、気持ちのいいモンじゃないだろ」
「ち、違う。ご、ご、ごめんなさい。私、ただお兄ちゃんが欲しくて、その……」
カッターを手放した途端、強烈な恐怖と罪悪感が私を――。
「だから、やめとけって言ったのに」
恐怖と罪悪感が私を襲うよりも早く、お兄ちゃんは、血塗れの手で私を優しく包んでくれた。
「え……?」
「俺がミコを助けたのは、お袋が死んだ時みたいに何も出来ないで失って、一生後悔するのが嫌だったからだ」
動くことが、出来ない。決して、力は強くないのに。
「俺の献身なんて、利己的な理由なんだ。別に、ミコがそこまで気に病む必要はない」
「で、でも、それはお兄ちゃんの理由だし。というか、好きになっちゃったんだから、もう遅いじゃん」
「やめられないか」
「うん、無理だよ」
「そうか」
そして、お兄ちゃんは優しく微笑むと、眼鏡を外して机に置いてから、私を置いて部屋から出ていった。
本当は、手当をしてあげたかったけど、今更になって訪れた体の震えが止まらなくて。
お兄ちゃんが戻ってくるまで、一歩も動けなかった。
「ほら、血を洗わないと」
「……うん」
聞いたことないよ。自分を切った女の、自分の血を拭いてあげるなんて。
自分の手、包帯でグルグル巻きなのに。それじゃ、拭いたそばからついちゃうじゃん。
本当に、何を考えてるのか分からない。
「そう言えば、こうして兄ちゃんっぽい事してやるの、初めてかもな」
「これ、お兄ちゃんっぽい?」
「それっぽいだろ。一緒に遊んで、汚れた体を拭いてやるなんて」
……あぁ、バカらしい。
私の狂いっぷりなんて、全然大した事無かったんだ。
「そんなんだから、アマネにサイコパスなんて言われるんだよ」
「それは、少し傷つくな」
初めて、お兄ちゃんの困った顔を見た。意外と、小さいことでも気になるんだ。
「と、とにかく、病院に行かないと」
「そうだな、適当に傷の理由を考えよう」
そして、私はお兄ちゃんを連れて病院へ向かったのだった。
私も、診てもらった方がいいのかな。
× × ×
「それでは、ここからは自由行動です。あまり、遠くへは行かないように気を付けてくださいね」
「は~い!」
そして、小学生たちは元気いっぱいに振り返り、一斉に海へ向かって行った。
述べ、三校分の小学5年生。黄色い歓声の量も、ただ事ではない。
「ひとまず、俺たちも休憩だ。みんな、お疲れさま」
「お疲れさまでした」
現在は、生徒会は合同林間学校の手伝いで伊豆大島へ来ている。ヒデヨシさん率いる王慶学園と、サクラ率いるリーリエ女学園の生徒会も一緒だ。
「会長、俺ら少し席を外しますね」
「会長。私たちも、少しお散歩してきます」
「わかった、いってらっしゃい」
お兄ちゃんは、他校の生徒会役員からも会長と呼ばれていた。
連合傘下のパワーバランスで言えば、都立校である第一高校は一番下になるハズなのに、実質的な権力を握っているのはどう見たってお兄ちゃんだった。
まぁ、自然とそうなったようだし、権力を行使するワケでもないお兄ちゃんに力が集まるのは、ある意味当然のことだったのかもしれない。
私に偶然を引き寄せる力があるというのなら、お兄ちゃんには必然を引き寄せる力があるんだと思う。
誰しも、お兄ちゃんには甘えていいのだと、心の底で理解しているのだろう。
つまり、必然とは私たちの弱い心だ。それを、大きな星の引力のように強く引き寄せる。
だから、お兄ちゃんは誰からも頼られるのだ。
「コウ君はどうするの?」
「書類を片付けたら、子供たちを見守る」
「なら、私もそうします」
「ボクも、別にやる事ないし」
「いや、お前たちは休んでおけ。朝から働き通しで疲れただろ」
お前が言うなよ。
しかし、そう思ったからといって、誰も口には出来ない。ここで食い下がれば、お兄ちゃんに好意を悟られる可能性があるからだ。
「いいえ、会長。私も行きます」
……あれれ?
「大体、コウ君一人じゃどうにもならないでしょ。バカなんだから」
あれあれあれ?
「そうか」
というか、お兄ちゃんも「そうか」って。反応はそれだけなの?
いつもみたいに、適当な理由を付けて一人になろうとするんじゃないの?
「ミコ、お前もやるか?」
状況の意味不明さに混乱していると、私にも声が掛かった。
そりゃ、当然同行するけど。なんか、納得出来ない。つーか、今日は私と二人きりで仕事をするハズだったのに。
せっかく、王慶から何人もイケメンが来てくれてるのに、どうしてそっちに行かないのよ。
どうせ、お兄ちゃんは手に入らないんだから、手っ取り早く幸せになればいいのに。
……なんて。
そんな事、絶対に出来ないよね。
「そう言えば、会長はどこに泊っているんですか? 予約リストに、名前が無かったようですが」
「港付近のビジホ。お前たちと同じ旅館がよかったんだけど、予約が取れなくてな」
「ふぅん」
乙女の間に、形容しがたい不思議な空気が流れた。
「よし、それじゃあパトロールだ」
お兄ちゃんが気が付いていないという事は、これは女にしか気づけないピンク色の何かなのだろう。
しかし、危機感はない。だって、お兄ちゃんは押し倒されないし、ちゃんと気配に気付くもん。
「俺は、磯から川を上って再び浜へ戻って来る。サクラは浜の裏側、チヅルはキャンプ場までの道を、ミコは浜を往復してくれ」
……そう言う事ね。
というワケで、私は浜辺の大きな石に座って、ボーっと海を眺めていた。
途中、お兄ちゃんが何度かナンパされてるのを目撃したけど、特に何か出来るワケでもなかった。
頭にくるけど、どうせ相手とは何ともならないし。怒ったら、また私の弱さを晒すことになるし。つーか、きっと泣いちゃうし。
そんな事したって、全部ムダだから。だったら、妄想でもしてる方がマシだ。
……あぁ、抱き着きたい。
抱き着きたい抱き着きたい抱き着きたい抱き着きたい抱き着きたい。
スリスリしたいし、押し付けたいし、吐息の当たる位置でずっと眺めていたい。指先も足も絡めて、私の弱いところ全部で触れて、お兄ちゃんに優しくしてもらいたい。
もう二度と、他の女と話さないって安心させてほしい。どこにもいかないで、ずっと守っててほしい。罪なんてどうでもいいって、投げ出して傍に居てほしい。
それで、キスしてほしい。
しかも、たった一回をずっと長く。頭の中が真っ白になっても、唾液で唇がトロトロになっても。ずっと、ずっとそうしてほしい。
ゆっくり、優しく。愛されてるって思える、そういうキスをしてほしい。
……。
「バカみたい」
顔を伏せて、静かに目を瞑った。やっぱり、目を背ける事しか出来なかったから。
今でも、お兄ちゃんを切った時の感触が手に残ってる。汗の雫も、生暖かい飛沫が頬を伝う錯覚になる。
あのまま狂わせてくれれば、この罪悪感も無かったのだろうか。しかし、そうでなければ、人としてお兄ちゃんに愛される権利をも手放す事になるんだと思うし、難しい問題だ。
きっと、理性を失えば、犬みたいに尻尾を振ってお腹を見せれば、ペット扱いくらいはしてくれるんだろうけど。
やっぱり、私はお兄ちゃんの『恋人』になりたい。
狂ってしまっては、それは叶わないって、実際に自分が一線を超えてみてようやく分かった。
理性を無くせば、人は獣になる。
でも、考えれば考える程、お兄ちゃんを手に入れられる気がしなくて。
もう、ため息しか出ない。私、どうすればいいんだろ。