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「しっ……」
唐突なヘビー発言に、俺は絶句した。
この婆さんは今なんて言った。息子が死んだって言ったぞ。それも事故や病気じゃない。詐欺師に騙されて死を「選んだ」って言った。
それってつまり、自殺したってことだよな……?
無意識に指先が震えだす。シャツが背中にぺったりと張り付くくらい、汗をかいていた。
「詐欺師といってもね、もともとは息子のお友達だったのよ。ただ……そのお友達が、あるとき息子に儲け話を持ちかけたみたいで。それを信じた息子は、持っていたお金を全部預けたの。わたしのお金も、勝手にちょっと使ってね」
「…………それで」
「お金は二度と帰ってこなかったし、お友達の行方も分からなくなってしまった」
婆さんはそこまで言うと、ストローでぐるぐるとゼリーをかき混ぜた。
「それ以降、あの子ってば引きこもるようになっちゃって。わたしもその時は、息子の気持ちを分かってあげられなくて、怒っちゃったりしてねえ。……後悔してるわ、とても」
「…………」
「詐欺にあってから三年後、息子はこの世からいなくなってしまったの」
ストローを動かしていた婆さんの手が止まった。その瞬間に俺の心臓も止まったような気がした。
だって今のこの状況は、婆さんが語っている昔話と大して変わりないのだ。
俺は婆さんを騙そうとしていて、婆さんは多くの金を失おうとしている。
もしもこのまま、この婆さんと別れたら、どうなるんだ?
――……考えたことなかった。
詐欺にあって金を失った人間が、死ぬかもしれないなんて。
「……死んだ息子にお金を貯め続けるなんて、おかしいでしょう」
俺がよほど変な顔をしていたのか、婆さんは照れたように笑った。
「でもあの子が、最期まで気にしていたのがお金だったから。お花やお饅頭を供えるよりも、お金を貯めてあげたほうがいいような気がしちゃって。……お友達に騙し取られたお金は、二度と返ってこないから」
婆さんはそう言ってコーヒーゼリーを飲んだ。
そして、呟いた。
「人を騙して稼いだお金に、なんの価値があるのやら」
俺は、何も、言えなかった。
――金を稼いだやつがえらい。楽に儲けるに越したことはない。
今までそう考えてきたけれど、本当にそうだろうか。
もしかして俺は、とんでもない間違いを犯そうとしてるんじゃないか?
ちょっと考えればわかることだ。詐欺ってのは、ゲームで騙されるのとはわけが違う。騙されたとわかっても、「くそー!」の一言で終わる問題じゃない。
その人の大事なものを奪って、もしかしたらその人の人生そのものを台無しにするかもしれない行為。
俺は今、そういうことをしようとしているんだ。
……もしも明日、この婆さんが自殺したらどうする?
「馬鹿な奴だなー」って笑って終わらせんのか? 俺は。
それが勝ち組?
――そんな人間に成り下がってまで金を稼いで、俺は何をしたいんだっけ。
「……でもよかったわぁ。お兄さんがいい人で」
婆さんは安心しきったように笑った。それがかえって、俺の心にぐさりと刺さった。
やめてくれ。俺はそういう奴じゃない。
俺は、
「いい人間なんかじゃねーよ……」
思わず声に出してしまい、ハッとした。あわてて口を押えたってもう遅い。
――聞こえちまった、か……?
俺はゆっくりと婆さんの顔を見た。婆さんはしばらくきょとんとしていたが、やがて「うふふ」と嬉しそうに笑った。
「これ」
そう言って婆さんが指さしたのは、コーヒーゼリーのドリンクだ。
「わたしの分のゼリー、細かくしてって頼んでくれたでしょ?」
「え……」
「わたしねえ、年の割に耳はいいのよぉ」
婆さんはそう言うと、目を糸みたいに細くして笑った。
「だから、あなたは、優しいひとよ」
初めて言われた言葉に、視界がぼやけた。
ゼリーのことなんて深く考えてなかった。ただ、こんにゃくゼリーを喉に詰まらせた話を聞いたことがあったから、なんとなく不安になって、少女にそれを伝えただけだ。
けれど婆さんは、そんな俺を優しい人だという。
本当の俺を知らないくせに。
通帳やカードを騙し取ろうとしてる、最低な人間なのに。
「あの、お、俺、おれは……」
「なあに?」
その時、ビジネスバッグからぶー、ぶーと音が聞こえてきた。電話だ。
多分、ボスからだ。
「あ……すんません」
「いいのよ。出てちょうだい」
ビジネスバッグからスマホを出す。やはりボスからの電話だ。誰かに話を聞かれたらまずい。
「すぐに戻りますから」と声をかけて立ち上がる。ふとショーケースの方を見ると、少女の隣に冴えない男が立っていた。多分、この店の店長か何かだ。少女とともに不安そうな顔をしているので、二人とも、俺の正体に気付きかけているのかもしれない。
――時間がない。
そっと扉を開けると、もわりとした蒸し暑い空気に包まれた。俺はケーキ屋に背を向けたまま、通話ボタンを押す。
「も、もしもし」
『おめぇ高崎。いつまで油売ってんだ。さっさと帰ってこい』
ドスのきいた声は、さっき通話したときよりも機嫌が悪そうだった。それもそうだ。ボスの言った「三十分」はとうに過ぎている。
もとより待たされるのが嫌いなボスだ。下っ端が遅刻しているとなれば相当オカンムリだろう。
しかし、謝るよりも、聞きたいことがある。
「あの、ボス」
『ああ? ……つーかお前なんだその声。泣いてんのか?』
馬鹿にしたようなボスの声を無視して、俺は続けた。
「もしも騙した相手が自殺したらとか……考えたことあります?」
ケーキ屋を振り返る。ガラス越しに婆さんがこちらを見ていた。さっきと同じ穏やかな笑顔で、コーヒーゼリーのドリンクを飲んでいる。
――だから、あなたは、優しいひとよ。
『はあ?』
ボスは俺を――あるいは世間を馬鹿にした声のままで、言った。
『相手が死のうがどうでもいいだろ、んなモン』
プツンと音を立てて通話が終わった。その音と共に、俺の中の何かも切れた。
――……違う。
スマホを耳から離し、「ボス」と登録された文字を見る。
――俺は、違う。
スマホをバッグに入れ、急いで店の中に戻る。店長らしき冴えない男と、小学生だろう少女の視線が痛い。なるべく目を合わせないようにして、婆さんの座っている席へと走った。
「どうしたの、そんなに慌てて」
相変わらず色々と鈍そうな婆さんが、不思議そうに俺を見上げる。俺はビジネスバッグを開いた。
「あ、の!」
そうして、中から取り出した通帳とキャッシュカードを机に載せた。慌てていたせいで、思ったよりも大きな音を立ててしまった。
「今、当店のシステム管理会社から電話が入りまして。えっと……お、お客様の口座にはなんの問題も発生していなかったと、あの、そういう電話でした。あ、……そ、そっちのB銀行の方もです!」
「え? そうなの?」
「はい。ですからこちらの通帳とカードは返しますので!」
俺はテーブルの上の通帳とカードを、ずずっと婆さんの方に寄せた。婆さんは理解できていないのか、「そうなの?」を繰り返している。間違いありません、と俺は返した。
「こ、この度はご迷惑をおかけして、あの、すみませんでした」
俺が頭を下げると、婆さんは「やだあ、やめてちょうだい」とけらけら笑った。
「正直ねぇ、ちょっと楽しかったの。久しぶりに若い子とお話しできたから」
婆さんの口元に、ホイップクリームがついている。それを見て、俺もほんの少し笑うことができた。
『相手が死のうがどうでもいいだろ、んなモン』
ボスの言葉が脳裏をよぎる。
違う、と俺は否定する。
――俺は、この人のこと、死なせたくない。
俺のことを優しいと言ってくれたこの人のことを、死なせたくないんだ。
「すみません。おれ……じゃなくて私は、そろそろ職場に戻らないといけなくて」
言いながら、財布から千円札を抜いた。正直、ケーキ屋のスタッフとはこれ以上顔を合わせたくなかった。俺の顔を覚えてほしくない。
婆さんが千円札を俺に返そうとしている。
それを無視して、俺は再び頭を下げた。
「あの、今日はなんていうか……ありがとうございました」
「え、ええ?」
「もうお会いすることはないかと思いますが、あの……お元気で!」
頭を上げ、婆さんに背を向ける。『職場に戻る』というのはもちろん嘘で、俺はもうボスのところに戻るつもりもなかった。というか、もう戻れないだろう。今戻ったら命が危ないかもしれない。
そこまで考え数歩進んでから、ふと思いつき、婆さんに向かって叫んだ。
「あの! 今後は誰に何言われても、暗証番号とか教えちゃだめですよ!」
ケーキ屋の男が、ぎょっとした顔を俺に向ける。
それを振り払うように、俺は店の外に飛び出した。
――どこか遠くに逃げよう。それから……誰も傷つけないような、普通のバイトを探してみるか。
ボスに貰ったスマホを投げ捨て、俺は駅に向かって走った。
*
いかがわしい男性が店を出て行ってから約二分後。
「…………甘いねえ。ここの飲み物も、あの坊やもさ」
そう呟いたのは、男性に騙されていたはずの老婆だった。
口元についたホイップクリームを親指でぬぐい、紙ナプキンにすりつける。それから、持参していたきんちゃくからタバコの箱を取り出し、慣れた手つきで一本咥えた。そしてライターで火をつけようとして、
「すみません。当店は全席禁煙なんで……」
一部始終をおどおどと観察していた店長――蜂須賀にそれを止められた。
老婆はじろりと蜂須賀を睨んだが、直後くっくっと肩を揺らして笑った。
「ああ、悪いね。つい癖で。……最近はどこもかしこも禁煙ばかりで嫌になっちまう」
老婆は咥えていたタバコを箱に戻し、蜂須賀にホットコーヒーを注文した。
老婆の豹変っぷりについていけない蜂須賀は、オロオロしたまま厨房へと戻っていく。それを見て、老婆はまたおかしそうに笑った。
「あのー……」
一人で笑い続けている老婆に、あこが話しかける。すると、老婆は「ああー」と思い出したようにあこを指さした。
「今日見た中では一番賢そうだし、頼りになりそうなお嬢ちゃんだ。ねえ?」
「え……いえ、そんな――」
「誰にも言わなくていいからね」
刺すような老婆の言葉に、あこは身を固くした。
「えっと、どういう意味……」
「そのままの意味さ。あの男のことは誰にも言わなくていい。どこにも『電話』しなくていいってこと」
ようやく意味を理解したあこは、「でも」と食い下がった。
「あの男の人って、多分……」
「ま、あの様子だと初めてのおつかいってとこだろうね。騙される奴は騙されるかもしれない。……でも」
老婆は通帳とキャッシュカードをあこに見せた。
「わたしはなーんにも盗まれてない。ここでちょっぴり世間話をしただけさ。――ま、お互い嘘だらけの会話だったけど」
「え……」
「だから、今日ここで聞いたことは全部、内緒にしといてねえ」
老婆はわざとらしくにっこりと笑った。
お待たせしました、と蜂須賀がホットコーヒーを持ってくる。老婆は「きたきた」と、ブラックのまま一口すすった。蜂須賀とあこは顔を見合わせる。
「……あの坊やはまだ、やり直せそうだったからね」
ほうっと一息ついて、老婆は言った。
「どっかのババアみたいに、くさい飯ばかり食う人生は送ってほしくないもんだ」
「クサイメシ?」
「おっと失礼。……お嬢ちゃんが知る必要のない言葉だよ」
老婆はそう言うと、カップをソーサーの上に置いた。
それからコーヒーゼリーのドリンクを一口飲み、「やっぱり甘いねえ」と顔をしかめた。