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――どうしてこんなことに……。
俺は両手を太ももの上に置き、視線をコーヒーゼリードリンクに固定したまま動けずにいた。
「ずいぶん探したのよぉ。お兄さんがどこの支店の人か、ちゃんと聞いてなかったから」
俺の目の前に座った婆さんは、上機嫌に語り続けている。
その婆さんとはすなわち、俺が先程騙くらかした相手だ。
足元に置いているビジネスバッグを覗き見た。その中に、この婆さんのカードと通帳と暗証番号がある。
――まさか、これを取り返しに来たのか?
俺は内心で焦りまくっていた。ボスからは暗証番号やカードを盗む方法までは教わったが、「騙した相手がわざわざケーキ屋まで追いかけてきた場合の対処法」なんて聞いてない。
どういう立ち振る舞いをすれば、銀行員っぽく婆さんを追い返せるのか。まるでわからない。
――ど、どうしよう……。
「銀行の人はやっぱり、こういうお洒落なお店もよく知ってるのねえ」
銀行員イコールお洒落というのがどういう基準なのかはわからない。だが、婆さんの中で俺がいまだに「銀行の人」であることは間違いなさそうだった。だとすればなんでわざわざ、ここまで俺を追いかけてきたのだろう。
ちら、と婆さんに視線をやる。
白色九割、黒色一割の、お世辞にも綺麗とは言い難い髪。やたらと薄くてぺらっぺらな紫のブラウスは、主張の激しい包装紙みたいだ。顔は皴だらけ、そのうえシミがかなり目立っているが、それらを化粧で隠そうとしている様子もない。
典型的な、どこにでもいる婆さんだ。ケーキ屋よりもまんじゅう屋のほうが似合うだろう。
「それ、何を飲んでるの?」
細い目を更に細くして、婆さんが言う。俺は「あひっ」と変な声を漏らした。
「え、あ……コーヒーゼリーの……」
「コーヒーゼリー? ゼリーを食べてるの?」
「え? いや、……『いや』じゃないなゼリー入ってるから当たってるんだけど、えっとあのー」
「美味しそうねえ。わたしも同じの、頂こうかしら」
「えっ」
「すみませーん」
俺が止める暇もなく、婆さんが右手を上げる。少女が、にこやかにこちらへとやってきた。
「お待たせいたしました」
「これと同じの、わたしも頂けます?」
「かしこまりました」
――あ、ちょ、まずい。
「ま、待って待って!」
厨房に戻ろうとする少女を思わず呼び止める。少女と婆さんが同時にこちらを向いた。
「あの、……あー」
婆さんが聞いたら、気を悪くするかもしれない。
俺は立ち上がり、少女の耳元でこそこそと喋った。
「この人のドリンク、ゼリーを細かく砕いてもらっていい? ほら、……喉に詰まらせたらヤバいから」
聞き取れなかったらしい婆さんが首を傾げる。
少女は嬉しそうにこくりと一度頷いた。
*
「――……えー。そ、それで」
俺はごほんと咳ばらいをして、婆さんに向き合った。
「何か、お……私に御用でしょうか?」
なんとかそれっぽい言葉を絞り出したが、すでに手汗がやばい。紙おしぼりで手を拭きたいところだが、生クリームがちょっぴりついたミントがそこにのっかったままだ。
俺は机の下で、スラックスに手汗をこすりつけた。
俺が頼んだドリンクはすっかり結露して、テーブルの上に小さな水たまりを作っている。まるで、コーヒーゼリーまでもがこの空気を読んで緊張しているかのようだ。
一方、婆さんはリラックスした様子で話し始めた。
「そうそう。お兄さんに確認したくってねえ」
「かくにん、ですか」
「ええ。ほら、お兄さんの銀行……A銀行! あそこの、ほら……しすてむ? がダメになったって言ってたでしょう?」
「は、はい……」
「それでさっき、カードと通帳をお兄さんに預かってもらったじゃない?」
――やめてくれ……! そのことをあんまりこの場で話さないでくれ……!
俺はさっと店内を見回した。幸い、少女やほかのスタッフの姿はそこにない。誰にも話を聞かれていない……と、信じたい。
「そ、そうですが……。その件で、何か……?」
まさか「詐欺にご注意」みたいなメールが、このタイミングで婆さんのもとに送られてきたとか?
あるいはニュースで詐欺特集を見ちゃったとか?
とにかく嫌な予感しかしない。警察沙汰になる未来すら想像できる。
しかし、次に放たれた婆さんの言葉は、俺の予想の斜め上を通り過ぎた。
「わたしねえ、B銀行にもお金を入れてるのよ」
そう言って、婆さんは無造作に通帳とキャッシュカードを机に載せた。ついでに印鑑も。
――いやいや待って待って、これはいくらなんでも見栄えっていうか色々よくない、
「お待たせいたしました、ぷるるんコーヒーゼリーのドリンクで、……」
――ああああ、最悪なタイミングで飲みもの来ちゃったああああああああ!
少女はテーブルに置かれた通帳セットと、婆さんの顔、それから俺の顔を順番に確認した。そうして、あからさまに「え?」って顔をした。
そりゃそうだ。俺だってこの場面に遭遇したら「え?」って思うわ。婆さんが、ケーキ屋で、赤の他人に通帳セットを見せてることなんてそうそうないだろうよ。
まずい。このままだと、ケーキ屋の人間に通報される可能性すら出てきたぞ。
「あらあ、美味しそうなゼリー。ここに置いてくださる?」
少女が硬直した理由を「飲み物を置く場所に悩んでいる」と勘違いしたらしい婆さんが、自分の手前をぽんぽんと叩いた。少女は引きつった笑みを浮かべたまま、ドリンクを婆さんの前に置く。俺が注文した通り、ゼリーはかなり細かくなっていた。
「……ごゆっくり、どう、ぞ……?」
少女が「え?」の表情を張り付けたままで言う。俺の正体を疑っている、そんな雰囲気だ。
――これは本当にまずい。一刻も早くこの場から逃げ去りたい。
そんな俺の想いは、もちろん婆さんには届かない。少女が俺たちのそばから離れるその前に、婆さんは「それでねえ」とテーブルの上の通帳を指さした。
「このB銀行もね、しすてむ? がダメになってないかと心配になっちゃって……。そしたらあれよね? また銀行の人がうちに来て、暗証番号を」
――あああああああ! 余計なこと話すんじゃねええええええええ!
「ご、ごっほぉおん!」
俺はどでかい咳をした。しかしそれが逆効果となってしまい、少女が怪しい目をこちらに向けてきた。
――見るな見るな! お前はあっちに行けって!
俺は「冷たいうちにどうぞ」と婆さんにドリンクをすすめた。そうすることで婆さんの口を塞ぐ寸法である。
婆さんは俺の思惑にも気付かず、「ああそうね」とストローでゼリーを吸い始めた。俺も喉がカラカラになっていたので、お冷をがぶ飲みする。しかし一気に飲み干すと、またあの少女が「お冷のおかわりを」などと言い出しかねないので、半分飲んだところでやめた。
「……えっと、それで」
少女が完璧にテーブルから離れたことを確認してから、俺は声を出した。
「B銀行の通帳が、どうされました?」
「――ん、そうそう」
婆さんはちゅぱっと音を立ててストローから口を離すと、B銀行の通帳をすっと俺に差し出してきた。
「おたくで、これも調べてもらえないかしら?」
「……は」
理解が、追いつかなかった。
「だからねぇ」と婆さんが心配そうに続ける。
「B銀行の口座も変なことになってないか、おたくで確認してほしいのよ。銀行の、しすてむ? ってぜんぶ同じなんでしょう?」
「え」
「A銀行さんでおかしくなってるなら、B銀行もダメになってると思うのよぉ。ここは前にも一回、情報漏洩がどうのこうのってニュースになってたから。でも、B銀行ってここらへんに支店がないでしょう? だから店頭で確認できなくて、不安になっちゃって」
「ほ」
「それでねぇ、おたくの銀行の分と一緒に、こっちも調べてほしいの。暗証番号はね、A銀行さんのと同じだから」
「あ」
「お願い、できるかしら」
「いっ」
――いやいやいや、正気かよこの婆さん。
俺は右手で口元を抑えた。そうでもしないとニヤけまくっているのを婆さんに見られてしまいそうだった。
カモがネギを背負ってきたとはまさにこのことだ。カモが銀行口座をふたつも持ってきやがった。まさかこんな展開になるなんて、ボスですら想像できなかっただろう。
これはチャンスだ。がっぽり稼ぐチャンス。ボスも大喜び、間違いなし。
「……なるほど。事情はよくわかりました」
俺はなるべく低い声で、笑いださないよう注意しながら言った。
「確かにB銀行さんは、当店と同じシステムなんです。ですから、B銀行さんでエラーが発生しているかどうかも、当店で同時にお調べすることができます。そうですね……。本来、B銀行さんのことはB銀行さんが調査すべきところなんですが、そういったご事情がおありでしたら、当店でそちらの通帳もお預かりしましょうか?」
びっくりするくらいに適当なことを言った。この婆さん以外の人間には通じないかもしれないデタラメだ。
しかし、婆さんはぱあっと表情を明るくした。
「お願いするわぁ。よかった、A銀行さんが親切な方で」
「へへ、とんでもないっす」
いけね。あまりにもとんとん拍子に話が進むから笑っちまった。
俺は「失礼します」と声をかけてから、テーブルの上にあるB銀行の通帳類をこちらに手繰り寄せた。ハンコまで要るかどうかはわからないが、もしかしたらボスにとってはお宝かもしれないので、一緒に持って帰ることにする。
――……いくら入ってんだろ、この口座。
気になりだすと止まらない。なにせ、婆さんがわざわざ俺を追いかけてまで預けてきた金だ。もしかしたらとんでもない額が入っているのかもしれない。
「……すみません。すでにエラーが発生している可能性もありますので、通帳の中を確認してみてもよろしいでしょうか」
自分でも何を言っているか分からなかったが、婆さんが「どうぞ」と言ったのは分かった。
俺はそっと通帳を開く。
もしかしたら五千万とか入ってるんじゃ……。
「…………」
残高、二百五十三万円。
……ビミョーだ。ビミョーすぎる。
「それねぇ」
さめた表情をしている俺に向かって、婆さんが身を乗り出してきた。
「息子のお金なの」
「えっ」
俺は思わず、通帳の名義を確認した。
『カガ トメコ』
いやこれ、A銀行の名義と一緒だから、婆さんの名前なんじゃ……。
俺が変な顔をしたからだろう。婆さんが「ああ、違うの」と訂正した。
「息子のためにね、毎月一万円ずつ、入れてる口座なのよ」
「……はあ」
俺は小首を傾げた。
毎月一万入れて、現在二百五十万ちょっと。ということは、二十年以上こつこつ積み上げた金ということだ。引き出したり、どこかに振り込んだりした形跡は一切ない。
二十年以上、息子と会う機会がないのか? だったらどうして振り込んでやらないのだろう。俺が息子の立場だったら、絶対に「振り込んでくれ」って頼むけどなあ。
そう思っていると、婆さんがどことなく寂しそうな顔をした。
そして、言った。
「息子はねぇ、もういないの。死んじゃったのよ、二十年以上前に」
「え……」
「詐欺師に騙されて、無一文になってね。……それで、死を選んだの」