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――できた、できた、できた!
七月の日差しに焼かれたアスファルトの上を、俺は全力で走っていた。心臓がばくばくと音を立てているのは、疾走しているのに加え、高揚しているからでもあった。
今日は、初仕事の日だった。
俺はごくりと唾を飲み込んだ。普段は「ボス」から怒られっぱなしの俺だが、今日の仕事は会心の出来だった。ボスだって褒めてくれるに違いない。
肩にかけているビジネスバッグをちらりと覗く。
そこには俺が、見知らぬ婆さんから預かった通帳とキャッシュカードが入っている。
預かったとは言ったが、無論返すつもりはない。思い出しただけで、喉から「ぐふっ」と変な笑いが漏れた。
「平成から令和になるときに銀行のシステムにエラーが発生した」だの、「口座のデータ修復のためにキャッシュカードが必要」だの、「カードの暗証番号を言えるかどうかで本人確認をしている」だの。
俺がさっき婆さんに説明したことは、百パーセント嘘っぱちだ。
ぜんぶぜんぶ、ボスが考えた詐欺だった。
可哀そうな婆さんは、かっちりとしたスーツ姿で現れた俺のことを銀行員だと思い込み、システムエラーを信じ込み、俺にカードと通帳を預けてきた。さらには暗証番号も教えてくれた。本当に、驚くくらいにすべてがうまくいった。
『データ復旧の確認が取れ次第、通帳とカードは書留にてご返送いたしますので』
この一言を笑わず言うのに、全神経を集中させたほどだ。
「――……むふっ」
思い返すだけで口角があがってくる。
あの婆さん、今頃騙されたことに気付いて「くそー!」なんて地団太踏んでるかもしれないな。へへっ、馬鹿なやつ。
自慢じゃないが、俺は昔っから不器用だった。
勉強はできないし、運動音痴だし、協調性も皆無。そんな俺にとって学校は地獄でしかなく、授業はほとんどサボったし、挙句の果てには地元のやばい先輩たちとつるむようになった。
親からは勘当され、他人からはクズだのゴミだの散々言われ。
その結果が今の俺。
――学歴だのなんだのと社会は言うが、結局のところ、金を儲けたモン勝ちだ。
これはボスのセリフだ。俺もその通りだと思う。
俺は、人様に胸を張れるような人生を送ってない。まともに勉強してねーし、正社員として働いたこともねーし、つーかバイトも最長三か月しか続かなかったし。知らねー奴と喧嘩して拘置所に入ったこともある。
でも今の俺はどうだ。
職がある。同世代のまじめな奴らと比べたら、はるかに高い賃金をもらえる立場にいる。詐欺はだめだとかそんなの関係ない。金だ、金を稼げるやつが勝ち。
つまり俺は、勝ち組ってわけだ。
「――……っと?」
ほくほくとした気分で走っていたらスマホが鳴った。事務所からだった。
ボスに褒めてもらいたい気持ちをこらえて電話に出る。
「はいもしもし!」
『おう高崎。「回収」はうまくできたか』
「はいボス!」
『その呼び方やめろ。ガキの遊びじゃあるめーし』
聞き取りにくい声で、ボスはそう言った。
ボスはいつも「その呼び方はやめろ」って言ってくるけど、俺はやっぱりボスって呼んだほうがしっくりくるんだよなあ。
そんなことを考えニヤニヤしていると、ボスの低い声が聞こえてきた。
『高崎。お前、事務所に戻ってくる前に時間潰してこい』
「へ?」
『ちょっとトラブルがあってな。今お前が帰ってくるとややこしくなる』
「な、なんすか。何があったんですか?」
『おめーに話しても、なんも分かんねーし変わんねーだろ』
ボスはくっくっと笑った。機嫌は悪くないらしい。
――よかった、警察が来たとかそういう話じゃなさそうだ。
『とにかく外で時間潰してこい。そうだな……三十分したら戻ってこいや。あと、「回収」したもんは死守しろよ。間違っても「忘れてきた」とか「落としてきた」とか言うんじゃねーぞ』
「はいボス!」
『だからそれ、やめろっつってんだろ』
ブツッと唐突に通話が終わった。
俺はスマホから耳を離し、ボスの言葉を思い返す。思ったより褒められなかったが、いつもみたく怒られることもなかった。
つまり今日の自分は、ちゃんと仕事ができたのだ。
「――ひゃっふう!」
その場で軽くジャンプして、弾むように走りだした。
今日は俺の初仕事の日、そしてそれがうまくいった日だ。
自分で自分を褒めてやりたい。つーか祝いたい。ここはとびきりの酒を出して乾杯したいところだが、あんまり酒は飲めないし、どっちかといえば甘いものの方が好きだし、……って、お?
俺は立ち止まり、白を基調としたおしゃれな立て看板に目を凝らした。
「ぱ、ぱてぃ……ぱてぃっせりえ……べえ、あんど、べえ?」
なんだこれ、なんて読むんだ?
俺は立て看板から顔を上げ、店内の様子を見た。ガラスの向こうに見えるのは、どこからどう見てもただのケーキ屋だ。
――だったらどうして「ケーキ屋」って書かないんだ? 「ぱてぃっせりえ」ってなんじゃそりゃ。
クッキーみたいな甘い香りが「ぱてぃっせりえ」から漂ってきている。ここまでくると、焼肉とかカレー並みの匂いテロだ。俺の腹が、くう、と控えめに鳴った。
時刻は午後十五時半。ボスからは時間を潰してこいと言われたけれど、飯を食うにはまだ早いし、それより今日は俺の門出の日だ。
祝い事といえばやっぱケーキだよな。
「……ここでなんか食ってくか!」
俺は意気揚々と、「Patisserie Bee&Bee」の扉を開いた。
*
――……たっか!
ショーケースを覗いて最初に思ったのはこれだった。
普段はスーパーで安売りしているシュークリームかプリンを食べる人間、すなわち俺が、「ぱてぃっせりえ」などという高そうな店に入ってしまったのが間違いだったのか。やばい、どれもこれもお高く見える。
一番安いケーキでも四百円弱はしてるし、シュークリームでも二百円はして、……げっ、プリンって三つセットで百円とかじゃないのか。
――こわっ、「ぱてぃっせりえ」、こわっ!
俺はショーケースから視線をあげた。
五十代半ばくらいのおばさんが、レジの近くで何かを書いている。ショーケースを見ている俺にはまるで無関心だ。ぶっちゃけあんまりケーキ屋にきたことがないから知らないが、ハンバーガーショップみたく、店員が客に張り付くタイプの接客ではないらしい。
かと思ったら、
「何かお困りですか?」
おばさん店員がさっと視線を合わせてきた。俺はショーケースに視線を戻す。
「なんも困ってません」
「失礼いたしました」
おばさんがくしゃりと笑ったのが目の端に見えた。
俺の視線を感じた瞬間に声をかけてくるとは、すさまじい集中力だ。このおばさんは多分、井戸端会議の時にバランスよく人に話しかけるタイプに違いない。実際どうなのかは知らんけど。
つーかどうしよう。意気込んで店に入ったはいいが、思ったよりいいお値段だし、俺の財布は現在そこまで潤ってないし、かといって何も買わずに外に出るのは忍びない。
そもそも仕事を頑張った自分へのご褒美としてケーキ屋に来たというのに、「値段が高いからやめました」なんてダサすぎないか。ご褒美だからこそ、高いケーキを食ったっていいんじゃないか。
などとあれこれ考えていたら、ショーケースの奥――おそらく厨房――から、一人の少女がぱたぱたと慌てた様子で出てきた。短い三つ編みが、肩の上でぴょんぴょんと揺れている。
「安田さん、遅れてごめんなさい! 帰りのホームルームが長引いちゃって」
「ああ、あこちゃん。おかえりなさい。そんな急がないで大丈夫よ。今ちょうどね、ポップを書き終えたところなの」
安田と呼ばれたおばさんはそう言いながら、手書きのポップをひらひらと子供に見せた。そしてちらりと、俺に視線を移した。
少女は俺の存在に気付いていなかったらしく、目が合った途端に姿勢を正した。
「いらっしゃいませ! 失礼しました!」
何を失礼されたのかよくわからなかったが、とりあえず軽く頭を下げた。
少女は手際よく紅色のエプロンをつけると、同色のベレー帽をかぶった。それだけで、急にケーキ屋のスタッフっぽさが出る。俺がちょっとお高いスーツを着たら、エリート行員っぽく見えるのと同じ現象か。
安田というおばさんは「それじゃあお先に失礼するわね、あとはよろしく」と少女に言い残し、厨房へと消えていった。中からぼそぼそと低い声が聞こえるので、厨房には男性スタッフがいるらしい。
――と、それどころじゃなかった。何を食うか、いい加減決めないと。
俺はみたび、ショーケースと睨めっこを始めた。
ケーキと言えばやっぱりいちごのやつかな。でも今は夏だし、もうちょい涼しげなやつでもいいかも――。
するとその時、少女がショーケースの引き戸を開けた。ケース端に陳列されていたコーヒーゼリーたちが、音もなくすーっと奥にひっぱられていく。
――なんだなんだ?
俺は少女とショーケースを交互に見た。
少女はショーケースに残っていたコーヒーゼリー用のポップを取り除くと、新しいポップをそこに置いた。さっき、安田とかいうおばさんが作っていたやつだ。
『コーヒーゼリー 350円』
かわいらしいイラストつきのポップには、読みやすい字でこう書かれている。
『ゼリー入りのドリンクもできます。詳しくはスタッフまで!』
――なんだそれ、お洒落だな。
コーヒーゼリーをショーケースに戻し終えた少女に、俺は話しかけた。
「あのー、いい?」
「はい!」
「この、ゼリー入りドリンクってどんなの?」
「あ、はい!」
少女はキラキラした笑顔で、レジ横に立てられていたドリンクメニューを持ってきた。
「これなんですけど」
少女が指さしたのは、夏季限定と書かれた飲み物だった。
――コーヒーゼリーに牛乳を注いで、その上にホイップクリームをモリモリとしぼったヤツ。
そんな見た目だったし、少女の説明もほぼほぼそんな感じだった。
「クラッシュしたコーヒーゼリーに、たっぷりの牛乳と生クリームを注いで、カフェオレ風に仕上げております。生クリームや牛乳、上に載っているホイップクリームは、お好みで量を調整できますよ」
「ふーん」
なんだこのガキ、二十一歳の俺より敬語ができてる気がする。
一ミリの悪意も感じられない少女の笑顔から目を逸らし、メニュー表を見る。コーヒーゼリー・ドリンクの値段は四百円。ケーキを食べる予定だったが、これでもいい気がしてきた。なんか、ケーキじゃなくてコーヒー頼んだ方が大人って感じがするし。
「んじゃ、これちょうだい」
「ありがとうございます。こちらでお召し上がりですか?」
「ん」
「生クリームやホイップの量は、変更なしでよろしいですか?」
「ん」
「かしこまりました。では、お好きなお席へどうぞ」
お好きな席と言っても、選べるほどの席数もない。
店の端に位置する席に座ると、少女がお冷を持ってきた。
「少々お待ちください、ごゆっくりどうぞ」
少女が立ち去るのを確認してから、俺はビジネスバッグの中を確認する。
ババアからだまし取った通帳とカード、暗証番号はちゃんとそこに入っている。
――給料出たら、ゼリードリンクにケーキもつけてやろーっと。
そんなことを考えながら、窓の外を見てぼーっと過ごした。
*
数分後、それは運ばれてきた。
「お待たせいたしました。ぷるるんコーヒーゼリーのドリンクです」
少女はホイップクリームが崩れないよう気を付けながら、ドリンクをテーブルに載せた。
――……ふーん。
目の前に置かれたそれは、写真で見たものとほとんど同じだった。
違うところがあるとすれば、ガラスのコップが冷えているせいで曇っていて、中のゼリーが見えにくい点。それと、ホイップクリームの上に葉っぱが載っかっている点くらいだろう。
葉っぱといってももちろん、やばいハッパじゃない。これはえーと、ミントだったか。
「こちらのストローでお飲みください」
そう言って渡されたのは、想像よりも太いストローだった。
なるほど、ゼリーを吸うためにはストローも太くないとだめなのか。
「何かございましたら、そちらのベルでお呼びください。ごゆっくりどうぞ」
少女はぺこりとおじぎをすると、厨房の方へ帰っていった。……今更だが、あのガキ何歳なんだ? 店の手伝いでもしてんのか?
不思議に思いながらも、俺はドリンクにストローをさした。
ホイップクリームに載ってる葉っぱは紙おしぼりの上に置く。
そしてストローで一口めを吸――。
「…………」
いや待て? これってどうやって飲むんだ? 一番上に載ってるホイップクリームも、ストローで吸うもんなのか? じゃなくてスプーンで掬うのか? でもいつ? どのタイミングでホイップクリームに手を出すわけ?
……いやもう、深く考えるのは辞めよう。とりあえず一口飲んでみて……ホイップクリームの処遇はそれからだ。
俺はストローに口をつけると、ずぞーっと一口分吸ってみた。俺がゼリーを吸った分だけ、ホイップクリームが下にさがっていく。
「……ん!」
プルプルのゼリーと、コクのある牛乳みたいなのが、口の中で混ざり合った。コーヒーゼリーの香ばしさと苦さ。それが甘くてまろやかな牛乳にピッタリとマッチしている。
「……んまっ」
思わず小声で感想を言ってしまった。いやでも、それくらい美味い。俺が子供の頃に食ってたコーヒーゼリーとはまったく違う食べ物だ。これならあの値段でも納得できるな。
再度ストローに口をつけ、コーヒーゼリーを吸ってみる。またしてもホイップクリームが下に下がっていくのを見て、俺は気づいてしまった。
――このままだとゼリーばっかりなくなって、最後はホイップクリームだけになってしまうのでは?
俺は数秒迷ってから、スプーンに手を伸ばした。
ソフトクリームみたいな形にしぼられたホイップクリーム、その先端を掬い取って口に入れてみる。
……ふつーに美味いホイップクリームだ。実はコーヒー味のホイップだとか、そういうわけじゃない。
そんじゃあ次は……。
俺はホイップクリームを口に含んでから、ストローでコーヒーゼリーを吸った。
「――!!」
う、美味い……! さっきよりもコーヒーの苦さがなくなって、マイルドになったぞ……!
俺は感動した。
このドリンクは、コーヒーゼリーを先に楽しんでもいいし、パフェみたいにホイップだけ掬って食べるもいいし、ぜんぶあわせてやってもいい。ひとつの商品でみっつの楽しみ方ができるわけだ。
個人的には、ホイップクリームとコーヒーゼリーを一緒に味わうのが一番好きだった。次からはその食べ方っつーか飲み方で攻めるか。
そう思い、スプーンでホイップクリームを掬った時。
「ああー、いたいた。お兄さん、ほらそこの……銀行のお兄さん!」
「へ?」
二度と聞くはずのなかった声が、店内に響き渡った。