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「お待たせいたしました。チーズケーキと、ホットコーヒーです」
「ありがと」
彼は少女からもらった伝票と、机の端に置いてあった私の伝票を、さっとひとつに纏めた。一緒に払ってくれるつもりなのだろう。私はそんなつもり、まったくないのに。
「あいているカップ、おさげしますね」
少女は、私のそばにあった空のカップをトレイに載せた。
私は少女を見た。視線に気づいた彼女が、控えめににこりと微笑む。私が来店したときに見せてくれた笑顔より、幾分か影があるような気がした。もしかしたら彼がいるから、気を遣ってくれているのかもしれない。
――彼女には今、私と彼がどういう関係に見えているのだろう。
食べかけのケーキに視線を落とす。
ベイクドチーズケーキとスフレチーズケーキで悩んでいたあの時間が、とても幸せで、そして遠い過去のように感じられた。
「ここ、コーヒーも美味しいんだよね」
いつもと変わらない笑顔で彼が言う。笑った時にできる目じりの皴が、数年前よりも濃くなっていることに今更気付いた。
それもそうだ。彼はもう三十五歳で、私だって三十歳になったのだから。
――結局今日も言えないのだろうか。
私は彼から視線を外した。
別れよう、という意識は最初からあった。関係を持ったその日からずっと。
なにせ相手は既婚者だ。可愛らしい娘さんもいる。本来、私が彼の隣にいてもいい理由などひとつもない。
けれど、彼に甘えてしまいたい自分もいた。
今まで誰にも貰ったことがない時間を、彼はくれる。それがひどく居心地いいのも確かだ。
せめてもう一回だけ。今日で終わり。これで最後にすればいい。
――いつか彼が私のもとに来てくれるかも。もしかしたら何か変わるかも。
この言葉を何度、自分に言い聞かせただろう。
そうしてずるずると三年間、この関係は続いた。その間、彼の家庭が崩壊することはなかったけれど、私と彼が「不倫」以上の関係に発展することももちろんなかった。
――いっそのこと、もう二度と彼と会えなくなってしまえばいいのに。
数時間前、文具店を巡っていた時にそんなことを考えていた。
別れたいと切り出せないのなら、二度と会えなくなるような環境になればいい。そうすればきっと諦めもつく。知らない間に別れられる。
そう思っていたのに、偶然入ったケーキ屋で出くわすのだから質が悪い。
「羽田さん、この後予定あるの?」
ケーキを切り崩しながら彼が言った。私はどきりとする。
先程の発言からして、彼が夜までフリーなのは分かりきっている。そして、私を誘ってきていることも。
「…………」
私が選べる択は、いくらでもあった。
予定があると嘘をついて、今日は距離を置いてみる。
予定がないと素直に言って、彼についていく。
いっそこの場で、別れたいと切り出してしまう。
「……私、は」
ああ、でも、いつもそうだ。
彼と直接話したら、その目を見たら。
いつも、どうしても、駄目になってしまう。
「この後は、……特に予定は、」
「失礼いたします」
澄んだ声が、私の淀んだ声をかき消した。
顔を上げると、三つ編みの少女がそこにいた。手に、小さなメモ帳を持っている。
彼女は北山さんを、――北山さんだけを見ていた。
「すみません。先程バースデーケーキのご予約を頂いた時、ろうそくについてお伺いするのをすっかり忘れておりまして」
彼女はそこで言葉を区切ると、ちらりと私を一瞥した。
けれどもすぐに北山さんに視線を戻して、
「ケーキのろうそくは、何本ご入用でしょうか?」
私は息をのんだ。
――この子は気づいている。
彼女の挙動から、そう感じ取れた。
私は、北山さんの家族でもなんでもない。娘さんの誕生日を祝える人間でもない。ろうそくの本数を訊かれる立場でもない。
私は単なる部外者で、彼の家族にとっては邪魔者以外の何物でもない。
――そして一生、その立場でしかいられないことに。
この子は絶対、気付いているんだ。
「……ああ、四本欲しいな。あと、数字の四の形になっているろうそくもひとつ。有料でもいいから」
「かしこまりました。すみません、お話の途中で割り込んでしまって」
「いいよいいよ。あこちゃんならいつでも大歓迎」
彼は白い歯を見せて笑った。いつもは魅力的に見えるその顔が、今は妙に薄っぺらく、不気味なものに思えた。
「――それで、今日この後空いてる?」
少女がテーブルから離れた後、北山さんが若干声を潜めて訊いてきた。
私は頷く。
答えはもう、決まっていた。
「……北山さん」
「うん?」
「もう、やめましょう」
「え?」
彼が目を見開く。
私はテーブルの下でこぶしを握り、言った。
「こうやって二人きりで会ったりするの……やめたいんです」
――ねえ、北山さん。
私、あなたの言う通り、一人でやっていけるって虚勢を張って、強がってただけなんです。
本当は寂しがり屋で、誰かに甘えたくて仕方なくて。
だから北山さんがそれに気づいてくれたのが嬉しかったんです。
……けれど結局、私とあなたは、ただの不倫相手という関係のままで。
「いつか一緒になろうね」なんて常套句すら、言われたことがない。
――それってつまり、北山さんも「大丈夫だ」って思ってるんですよね?
私のこと。
一人で生きていける奴だって。放っておいても問題ないって。
そう思ったから選んでくれたんでしょう?
適度に遊べる、ただの不倫相手として。
「私、本当は、クリスマスやバレンタインを一人で過ごすのがずっと苦手でした。予定のない休日は怖いし、友達から結婚報告が来れば落ち込むし。けれど、それをあなたに伝えることもしなかった。……結局北山さんに見せていた姿も、『無理をして演出していた私』なんです」
――……本当は、ずっと前から気付いていた。
彼が私を選んでくれる日なんて永遠に訪れないし、私は今の関係で満足できる人間でもない。このままズルズルと爛れた時間を過ごしたところで、傷が広がっていくだけだ。
けれど私は、そんな問題からずっと目を逸らし続けていた。
「いつか」、「もしかすれば」。
そんな言葉でごまかしながら。
『ケーキのろうそくは何本ご入用でしょうか?』
私は笑った。
あんな言葉に、現実を突きつけられるとは思ってもみなかったから。
けれどよかった。ようやく目が覚めた。
ようやく、これを言える。
「私と別れてください……北山さん」
決意は固まっていたのに、どうしても声が震えてしまった。毅然とした態度を取りたかったのに、それすらうまくいかない。
私は北山さんから視線を外し、食べかけのチーズケーキばかりを睨みつけた。
自分の心臓の音がやけに大きく聞こえる。
――北山さんに私の言葉は届いただろうか。もしかして、時間が止まっているのではないか。
そう懸念してしまうくらい、長い時が過ぎたように感じられた。
けれど、
「……そっか」
ようやく聞こえてきた彼の声は、驚くくらいあっさりとしていた。
顔を上げる。少しだけ肩を落とした彼の姿が見えた。
「君がそこまで思い詰めてたことに気付いてあげられなくてごめんね。わかった」
終わりにしよう。
私が三年もの間言えなかったそれを、彼はいとも簡単に口にした。ように見えた。
「――……っ」
私は両手で口を塞いだ。そうでもしないと悲鳴をあげてしまいそうだった。
――期待なんて一切していなかったのに。
別れないでほしいと彼が私に泣きつく姿も、家族とは最近うまくいってないなんて白々しい嘘をついて関係を繋ぎとめようとすることも、絶対にないとわかっていた。
私が「別れたい」と切り出せば、この関係は終わる。
それを覚悟して口にしたはずなのに、自分でも信じられないくらいショックを受けていた。
「ふたりきりで会うのは終わりだけど――」
彼はフォークを皿の上に置くと、机の上の伝票を取った。私の分も一緒に。
「職場ではこれからも仕事仲間として、支えあっていけると嬉しいな」
一口分のケーキを残して彼は立ち上がる。
――最後の一言は、私から言いたかった。
けれど私は口を塞いだままで、だから代わりに彼が言った。
「今までありがとう。じゃあね」
それは私が口にするより遥かに軽く、そしてあっけないものに聞こえた。
*
「――……ごめんなさいね。変な話、聞かせて」
北山さんが会計を済ませて帰った後、レジにいた少女に私は声をかけた。声をかけずにはいられなかった。
何もかもを聞いていただろう少女が、気遣わしげな表情をこちらに向けてくる。私は口角をあげた。
「夢、壊しちゃったかな」
「え?」
「本当は格好よくなんかないの。……私」
私は手元を見た。彼が注文してくれた二杯目のコーヒーは、まだなみなみとカップに残っている。
私は、格好いい人間なんかではなかった。
妻子ある男と関係を持って、「寂しかった」なんて被害者面をして、挙句の果てには悲劇のヒロインぶるような奴だ。
彼と別れた理由だって結局は自分のためだし、今日はこれから自己憐憫にどっぷり浸かって、可哀そうな自分のためにおいおい泣くのだろう。多分酒の力も借りるし、明日の朝は相当ブサイクな顔をしているはずだ。
私は、格好いい人間にはなれなかった。
それどころか、最低な人間だ。
「……反面教師にでもなれればいいけど」
食べかけだったケーキを口に放り込み、すっかりぬるくなってしまったコーヒーを一気に飲み干す。これ以上、この店で少女相手に弱音を吐き続けるわけにもいかない。
どこかでアルコールを調達して、家に帰って。反省会はそれからだ。
そう思っていたら、少女が私の近くにやってきた。
「あの、これ……」
「え?」
彼女はそっと、小さな白い箱をテーブルの上に置いた。ケーキをふたつ入れるのがやっとじゃないかと思えるくらいに小さな箱だ。
「チーズスフレがふたつ入っています。保冷剤も入れておきました」
「え? あ……」
思い出した。帰りに買おうかと考えていた、小さなチーズケーキだ。
「本当はこれ、私の今日のおやつだったんですけど、お姉さんにあげます。試食ってことで」
「え、でもそんな」
「――私だったら、あんな風にちゃんと言いだせなかったと思います。……好きな人が相手なら、尚更」
私は顔を上げた。
少女は、私の目をきちんと見ていた。
「だから、自分の言葉できちんと想いを伝えて、あの男の人と別れることができたお姉さんはやっぱりかっこいいと思います。……悪いことは、していたのかもしれませんけれど」
「…………」
「それと、あの……盗み聞きしてたみたいで本当に申し訳ないんですけど」
「……なに?」
「クリスマスとかバレンタインとか、そういう行事の時は絶対にうちのお店は開いています。だからもしも一人で寂しくなった時は、うちにケーキを食べに来てください。待ってますから」
私は笑った。
机の上にぽたりと水滴が落ちる。
「……あこちゃん、だっけ」
「はい」
「さっきも思ったけど、営業トーク、上手よね」
「今のは営業トークじゃないんですけど……よく言われます」
少女が苦笑する。
私は両手で顔を覆った。
今日、三年間ぐだぐだと続いていた私の恋が終わった。
何ひとつ実ることのない不毛な恋。
それどころか、すべてを失ったっておかしくなかった。
けれど私は今日、小さくてふわふわとした幸せをふたつ、白い箱に入れて持って帰る。
**
「……おやつ、本当にあの人にあげてよかったのか?」
蜂須賀が尋ねると、あこは大きく頷いた。
「どうしてもあのお姉さんにあげたかったの。だから今日はおやつ抜きでいい」
蜂須賀は首を傾げる。出会ったばかりの女性に、あこがここまで懐くことがあっただろうか。
「なんであんな初対面の人に……って思ってるでしょ、てんちょー」
呆れたようなあこの物言いに、蜂須賀はぎょっとした。前々から思っていたが、あこは観察眼も推察力も鋭すぎる。あるいは自分が鈍すぎるのか。
あこはカップをふたつ、トレイにのせた。
「確かにあの女の人には初めて会ったよ。でも、男の人は結構よく来てくれてるでしょ」
「男の人って……バースデーケーキの予約をしてくれた人のことか?」
蜂須賀の言葉にあこは頷いた。
「この一年で、イートインも何度かしてくれてるよ」
「そうだったのか。俺、普段は厨房にいるし、人の顔を覚えるのが苦手で――」
「毎回違う女の人をつれてくるんだよね、あの人。……うちの店って大通りから外れてるし、不倫相手連れてくるのに丁度いいのかも」
蜂須賀はぎょっとした。あこの話は衝撃的だったが、あこの口から「不倫」という言葉が出てきたことにも心底ぞっとした。
自分が小学四年生だった頃、「不倫」などという言葉を知っていただろうか。もう覚えていない。
「まあとにかく、あの男の人が『そんな感じ』って知ってたからさ。今回もまた違う女の人かー、不倫かーと思って見てたのね」
「お、おう……」
「でも途中であのお姉さんがはっきりと『別れてほしい』って言いだしてさ。……なんか私、嬉しかったんだよね。だから心の中ですんごく応援しちゃった。顔には出さないよう頑張ったつもりだけど」
「へ、へえ……」
「あのお姉さんには幸せになってほしいな。また来てくれるかなー」
あこが屈託ない笑みを見せる。
蜂須賀はバースデーケーキの予約表を、何とも言えない気持ちで見つめた。