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「……それにしても驚いたな。羽田さんの家、ここから遠いでしょ?」
トイレから出てきた彼は私に考えさせる時間も与えず、正面の席にすとんと座った。
私が拒否するはずがない。そういう態度だった。
事実、私は拒否できなかった。
「……文具店を巡っていて」
言いながら、私は彼の服装をチェックした。
白色のインナーにライトブルーのシャツ。下は確かオフホワイトのパンツだった。仕事着よりかはラフだけれど、カジュアルとも言えない恰好だ。髪も遊ばせすぎず、適度に毛先をはねさせている。
休日でもきちんとしている、かっこいいパパ。そういった印象を与える姿だった。
北山さんは「文具店?」と斜め上に視線をやった後、「ああ」と合点したように頷いた。
「近くにロフティがあるね。……ほんとに仕事熱心だな。羽田さんは」
「北山さんはどうしてここに?」
私が尋ねると、北山さんは少しだけ笑った。彼が、困ったときに見せる笑顔だ。
「俺、子供のころ、二年くらいこの辺に住んでたことがあってね。その時、このケーキ屋を知ってさ。それ以降、何か行事があるたびにここでケーキを買うのが恒例になってるんだ」
「そうだったんですか。それで、娘さんのバースデーケーキもここで?」
「うん。――まあ、俺が通い始めた頃はおじいちゃん店主が切り盛りしていて、今はそのお孫さんが継いでいる店だから、昔とは色々違うんだけどね。それでも、美味しいのには変わりないから」
「なるほど」
「――ロフティで、何か発見はあった?」
北山さんがさっと話題をそらした。私はそれに気づいた。
彼は、不倫相手に、家庭の話をするべきではないと思っている。
二人きりでいるときは絶対にその手の話を出してこないし、今のように「会話の流れでどうしても」話さなければいけないときは、必要最低限のことだけ言って、さっさと話題を変えてしまう。いつものことだった。
『不倫相手の家庭事情なんて、聞きたくないに違いない』
彼はそう考えているようだし、少なくとも私からすればその考えは正しかった。
聞きたくないし、ましてや見たくもなかった。
自分がなりそこねた――掴みそこねた未来の姿なんて。
「羽田さん?」
北山さんに呼ばれてハッとする。気づけば黙り込んでいた。
「あ、ああ。ロフティは……残念ながら、あまり目新しい商品はありませんでした」
文具屋でもずっとあなたのことを考えていました、などと答えれば空気が重くなるので、適当に返事をした。彼は「そっか」と軽く頷く。
「羽田さんは頑張りすぎるところがあるからさ、あまり根を詰めすぎないようにね」
――相変わらず、私が欲しい言葉をくれるんですね。
言いたかった。縋りたかった。甘えたかった。本当は。
けれど今日、私がずっと考えていたことは、それとはまるで真逆だった。
言わなければならない。いい加減、切り出さなければ。
「――……あの、」
「ところでさっきから気になってたんだけど」
そこまで言うと、彼はわざとらしく私のチーズケーキに目をやった。
「おいしそうだね、それ。ベイクドチーズケーキ?」
「え? ……あ、はい」
「俺も食べようかな」
彼はちらりと私に視線を送った。
「今日は夜まで予定もないしさ」
ぎょっとした。
けれど彼は私の表情も確認せずに、机の上にあるベルを素早く鳴らしてしまった。
店の奥から、ぱたぱたと軽い足音が聞こえてくる。
「お待たせしましたー」
テーブルにやってきたのは、私の注文を取ってくれた少女だった。
彼はこれまたわざとらしく目を見開く。
「おー、あこちゃん。久しぶり」
「お久しぶりです、北山さん」
「なんだか見るたびに大きくなってる気がするな。今いくつだっけ?」
「九歳です。あ、今年十歳になります」
少女がハキハキと答える。「本当にしっかりしてるね」と北山さんはとびきりの笑顔で言ってから、私のチーズケーキを指さした。
「俺もこれと同じケーキ貰えるかな? あとー……」
彼は私のカップの中身を確認した。
「ホットコーヒー、ふたつお願い」
「かしこまりました」
「ミルクと砂糖は要らないから。……羽田さんも要らないよね?」
私は静かに頷く。
――別れたい。
この一言を切り出せないまま。
これがかっこいい大人の末路か。そう思いながら。
*
一人でなんでもできる子。放っておいても問題ない子。頼りになる子。
子供のころから、大人には軒並みそう評価され続けてきた。
二歳下の妹は私とは真逆の性格で、常に誰かを頼らないと生きていけないようなタイプだった。一人で外出することも、役所に手続きに行くこともろくにできない。いつも誰かの袖を引っ張って、「ついてきて」と言う。そしてそれを、他人に不快だとは思わせない。良い言い方をすれば、妹は甘え上手だった。
結果として親が私に干渉する時間は減り、妹が可愛がられる時間が増えた。
当時の私はそれをなんとも思っていなかったし、なんなら「一人でなんでもできる自分」に酔いしれている部分もあった。ブラックコーヒーを飲める大人がかっこいいだなんて偏見と同じくらいに、一匹狼の自分はかっこいいと思い込んでいたのだ。
今思えば私は、子供のころから、人に甘えることに慣れていなかった。
これがいけなかったのだと思う。
――人間は免疫がないと、簡単に熱があがってしまう。
他人に甘えたことのない人間は、頼れる対象ができた途端に依存し始める。
恋愛経験のまったくない人間は、誰かと付き合い始めた途端にのぼせ上って周りが見えなくなってしまう。
彼はおそらく、この心理に気付いていた。
私みたいな女は篭絡しやすいと知っていて、声をかけてきたのではないか。
今となっては、そう思う。
「――おつかれさま、羽田さん。これ、よかったら食べて」
一人で残業している私に、北山さんがコンビニ袋を渡してきてのは三年前だった。
睨みつけていた資料から顔をあげる。北山さんが隣のデスクに腰かけ、ニコニコとこちらを見ていた。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
「え……。北山主任、お帰りになられたのでは……」
「これを買いに出てただけだよ。コーヒーはブラックでよかったよね?」
彼は、コンビニのマークが描かれたカップを私に手渡してきた。
――私がいつもブラックコーヒーを飲んでいるのを知っているんだ。
そう考えると心の奥が少し、くすぐったくなった。
「あとはねー、サンドイッチとパスタとサラダ……あ、ドレッシングは何がいいか分からなかったから適当に選んじゃった」
北山さんは袋の中からあれこれと出し始める。その動きは、未来からやって来た猫型ロボットが、お助けグッズを出すときのそれと酷似していた。
「あと、シュークリームとチーズケーキもあるから」
「そんなにたくさん……ありがとうございます」
「え? ああ。俺が食べる分も入ってるから。羽田さん全部食べないでね」
その言葉に、私は目を丸くした。
「主任。ありがたいですけどもう遅いですし、ご家族が」
「家には遅くなるって連絡入れてるから平気だよ。それに『もう遅い』時間に、女の子一人だけ残業させてるほうがどうかしてるでしょ。……ほら俺にも資料貸して。羽田さんはサンドイッチでも食べてて」
北山さんは私の手から資料を取り上げると、代わりにサンドイッチの包みをくれた。
私はサンドイッチの封も切れず、北山さんの横顔を眺める。
それまで、北山さんと二人きりになったことはなかった。同じオフィスにいる人、という認識でしかなかったし、彼もそうだろうと思っていた。
ぺらり、と彼の指が資料をめくる。
薬指のプラチナが鈍く光る。
「……あの、やっぱり私がやっておくんで」
「それってしんどくない?」
資料に目を落としたまま、静かに北山さんが言った。私はその言葉の意味が分からず、凝り固まる。
「一人で全部できる、誰にも頼らない、ずっと頑張る。……そういうのが君の性に合っていて、むしろそうしないと気持ち悪いっていうのなら、この資料を返して僕は帰るよ。けれどもし、今言ったことが『多少無理をして演出している君』なのだとしたら――」
北山さんは資料から視線を上げて、私の顔をきちんと見た。
「たまには誰かに頼ったって、いいんじゃないかな?」
私は、二の句を継げなかった。
それまで、自分が無理をしていると感じたことはなかった。一人でやろうとするのも、誰にも頼らず生きていこうとするのも、自分はそういう性分の人間なのだと信じ切っていた。
けれど北山さんにそれを指摘された時、私の心の奥底で固まっていた何かが溶けた。
早い話が図星だったのだ。
私が「強い自分」を演じていることも、そうするために多少無理をしていることも、人に頼るのが苦手なことも。
私自身が気づけていなかったそれに、彼はきちんと気付いていた。そして、甘えてもいい環境を作ってくれたのだ。
「…………」
私は何も言えなかった。
資料を返してくださいとも言えなかったし、一緒にやってほしいとも言い出せなかった。
自分を理解してくれる人が現れたからといって、すぐに甘えられる人間ではなかったのだ。
もちろん彼はそれに気づいていて、だから何も言わなかった。
彼は無言で資料に目を通し、私は貰ったサンドイッチを食べる。
その時間はとても優しくて、そして――私たちの不毛な関係の始まりだった。