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疲れたときには甘いものが欲しくなるとよく聞くけれど、例に漏れず私もそのタイプだ。
大型文具店を数か所見て回り、頭も脚も悲鳴をあげ始めていた。六月のむしむしとした湿気の中、わざわざ外に出てきたのが間違いだったと後悔してももう遅い。
そもそも今日は休日で、丸一日ベッドの上で寝転がっていても問題なかった。それなのに外出しようと決めたのは他でもない、この私だ。
予定のない休日が、嫌だった。
だから「仕事のため」なんて大義名分で、文具店を見て回った。文具メーカーの企画部という肩書は、目的もなく文具コーナーをウロウロしたい時に役立つ。自分は暇を持て余しているのではなく、仕事のために動いているのだと錯覚できる。
実際のところ、カラーバリエーションが豊富なジェルインクペンにも、芯の折れにくさを追求したシャーペンにも大して心は動かず、私の頭は常に別のことを――「彼」のことを考え続けていた。
そうして勝手に疲れているのだから、世話がない。
――どこかゆっくり座れる場所で休憩しよう。
近くにあるカフェをスマホで検索する。すると、ここから一番近い場所にあるのはカフェではなく、イートイン可能なケーキ屋だと表示された。
私はふらふらとそのケーキ屋へ向かう。
蝶が、甘い蜜を求めるみたいに。
*
「いらっしゃいませー」
向日葵みたいな笑顔で私を出迎えてくれたのは、小学生くらいの女の子だった。
ツインテールの三つ編みに、フリルのついた靴下。間違えてもアルバイトの高校生には見えないので、店の手伝いをしている子供だろう。彼女は焼き菓子のコーナーで、ラッピングされたクッキーを熱心に並べている。
私は少女に軽く会釈をして、ショーケースに視線を落とした。
いちごのショートケーキをはじめとしたおなじみのメニューから、期間限定の夏みかんのゼリー、ももとメロンのショートケーキなど、様々なスイーツが並んでいる。
その中でひときわ私の目を引いたのは、チーズケーキだった。
何の変哲もない、どこにでもあるベイクドチーズケーキ。それなのにこんなに気になってしまうということは、今の自分が最も欲しているものはこれらしい。
私は少女を呼んだ。
「お待たせしました」
「あの、イートインで、ベイ……」
そうして注文しようとしたところで、ベイクドチーズケーキのとなりに、スフレチーズケーキがあることに気付いた。
どっしりと構えているベイクドチーズケーキよりも小ぶりで、ふたくちくらいで食べられそうなサイズ。見るからに柔らかそうなそのケーキの名前は「ふんわりチーズスフレ」となっている。バラ売りはもちろん、五個入り、十個入りなどでも販売していて、手土産としても人気なのだとポップに書かれていた。
両方食べてみたい。けれど、ふたつはさすがに食べすぎだろうか。
「……何かお悩みですか?」
少女が首を傾げた。ツインの三つ編みが揺れる。
「ごめんなさい。チーズケーキが食べたいんだけれど、どっちにしようかと思って」
素直にそう言うと、少女はにこりと笑った。
「余計に悩ませちゃうかもしれないですけど、どっちも本当においしいですよ。ベイクドチーズケーキは密度が高くて、クリームチーズのおいしさをぎゅっと濃縮させた感じです。スフレの方は口に入れた瞬間しゅわしゅわーと溶けて無くなっちゃう軽さで、チーズケーキが苦手な方にもおすすめできます」
少女の口からすらすらと言葉が出てきた。普段から店の手伝いをしていて、この手の説明に慣れているのだろう。しかし、それを差し引いても賢い子だと思う。
「もしよろしければ」と少女は続けた。
「ベイクドチーズケーキはこの場でお召し上がりいただいて、ふんわりスフレはお持ち帰りに……という手もありますよ。ふんわりスフレの消費期限は、冷蔵保存で明日までですから」
「なるほど」
私は笑った。営業トークもばっちりだ。
「それじゃ、とりあえずイートインでベイクドチーズケーキをお願いしようかな」
「かしこまりました。それではお好きなお席へどうぞ」
お好きな席とは言われたけれど、この店にあるテーブルはふたつだけだ。
二人掛けの小さなテーブルに、私はそっと腰かけた。
*
自分にとって嬉しくも妬ましいニュースは、いつでもどこでもやってくる。
『はっちゃん、私、結婚する!!』
やったーというスタンプとともに送られてきたメッセージには、赤とピンクのハートがこれでもかというくらいに散りばめられている。私は間抜けな顔をしたクマのスタンプを、なんともいえない気持ちで眺めた。
私のことを「はっちゃん」と呼ぶのは、大学の時に知り合った女友達だ。当時はいろんな男をとっかえひっかえしていた彼女だが、ここ数年は特定の人物とお付き合いをしていると聞いていた。だからなんとなく、いつかこういう報告がくるだろうとは予想していたし、その時は素直に「おめでとう」と返せる人間でいたいと思っていた。
ところが今の私は、「おめでとう」の五文字をうまく打てない。おめでとうの後に続ける言葉も見つからなかった。
――いいなあ羨ましい。私も、
ようやくの想いで綴ったそれを、五秒ほど眺めてから消した。
「――お待たせいたしました。ホットコーヒーと、ベイクドチーズケーキです」
スマホとにらめっこをしている私に、少女が注文の品を運んできた。
私はほっとして、スマホをバッグにしまう。あのメッセージには後で返信しておこう。
少女がテーブルの端に角砂糖とミルクを置こうとするので、私は片手でそれを制した。
「ごめんなさい。ブラックで飲みたいから」
彼女は一瞬きょとんとしてから、角砂糖とミルクの容器をトレイに戻した。
「……お客様。失礼なこと言っちゃうかもしれないんですけど」
「なに?」
「ブラックコーヒー、すごく似合ってます。かっこいい」
私は苦笑した。目の前の少女が初めて見せた、子供らしい顔つきだったからだ。
私自身、子供のころはブラックコーヒーを飲める大人に憧れていた。自立しているかっこいい人間。ブラックコーヒーは、そんな人間しか飲めない代物のように見えていた。
けれどそんな憧憬は、大人になるとあっさり崩れ落ちた。
コーヒーをどう飲むかなんてあくまで好みの話であり、その飲み方によって人間性や生き様が測れるはずもないのだ。甘ったるいカフェオレしか飲めない大企業の社長もいるだろうし、ブラックコーヒーばかりを好んで飲むダメ人間も、いる。
「……かっこいいなんて初めて言われたわ。ありがとう」
子供の夢を壊すのも申し訳ないので、適当な言葉で受け流した。少女は嬉しそうに頷くと、テーブルから離れていった。
――かっこいい、か。
湯気をたてているコーヒーを一口飲む。外が蒸し暑かったからアイスコーヒーにしようか悩んだけれど、ホットドリンクの方が心が落ち着く気がする。私はほうっと一息ついてから、チーズケーキを引き寄せた。
見るからに食べ応えのありそうなチーズケーキは、皿に可愛く盛りつけられているというよりかは、どすんと鎮座しているように見えた。
きつね色の表面は、窓からの光を受けて鈍く光っている。断面には気泡が一切見えず、それがこのケーキの密度を物語っていた。
食べ物に向かってこんな言葉を使うのも妙かもしれないけれど、やたら堂々としているケーキだ。そのせいか、周辺を彩るカットフルーツたちがどことなく肩身を狭そうにしていて、それがなんだかおかしかった。
――いただきます。
内心でそう唱えてから、チーズケーキにフォークをいれる。そうして下までフォークを通そうとした時、底が妙に硬いことに気付いた。どうも、土台はクッキー生地らしい。
――……そういえば前にベイクドチーズケーキを作った時、砕いたグラハムクラッカーを底に敷き詰めたっけ。
あまり思い出したくない記憶ではあったが、思い出さずにはいられなかった。私は「彼」に喜んでほしくて、わざわざ輸入食材店までグラハムクラッカーを買いに行ったのだ。バレンタインが近い、真冬のことだった。
けれど、私の家で彼にケーキをふるまったのは、バレンタイン当日ではなくその三日後だった。
彼は美味しいと言ってたくさん食べてくれたし、私もその時は満足していたけれど、今となっては楽しい思い出とは言いがたい。
――本当はバレンタイン当日に会いたかった、なんてね。
私はため息をつき、過去の記憶を振り払う。そして目の前のケーキに集中した。
無理に力をこめてクッキー生地を切ろうとすると、フォークと皿がぶつかって、大きな音を立ててしまうだろう。
私はフォークを縦にさし、クッキー生地にゆっくりと先端を突き刺した。クッキーがうまく割れた感触が、フォーク越しに伝わってくる。
――よし、うまくいった。
内心でほっとして、一口大になったチーズケーキを口に入れた。
舌の上でクリームチーズがうねる。まさにそんな食感だった。さっきまでほとんど感じられなかったクリームチーズの香りが、一気に近くなる。
噛んでみると、少ししっとりとしたクッキー生地がコクのあるクリームチーズと混ざりあい、香ばしい味に変化した。食感も、口に入れた瞬間とは異なったものになる。
――おいしい。
思わず口元が緩んだ。
やっぱりベイクドチーズケーキを選んでよかった。ホットコーヒーとの相性もバッチリだ。
帰りにスフレチーズケーキも買って帰ろうかな。
そう考えた時だ。
――カランカラン。
ドアベルが鳴り、誰かが入ってくる気配がした。私はドアとは背を向ける形で座っているので、誰が来たのかは分からない。
店番の少女が不在だったのか、客はショーケース上のベルを鳴らした。
「すみませーん」
その声に、私の心臓は跳ね上がった。
鼓動が一気に早くなり、鼓膜の裏でドクドクと音を立てる。
――……そんなはずがない。
私は荒くなっている息を抑えるため、コーヒーに口を付けた。指先がかすかに震えた。
――落ち着け。彼と、こんなところで出会うはずがない。声が、たまたま、似ていただけだ。
「……すみません、お待たせいたしました」
少女が席を外しているのか、男性スタッフらしき声が聞こえた。低い声でぼそぼそと何かを喋っている。声だけで判断するのも良くないが、あまり接客に向いているタイプとは思えない。
一方の男性客は、聞き取りやすい声ではきはきと喋った。
「バースデーケーキの予約をしたいんだけど。……えーっと、これこれ。この、いちごのスペシャルショートケーキ」
「……すみませんお客様。この時期は国産の夏いちごを使っておりまして、どうしてもお値段が」
「いいですよ、多少高くても。娘がね、いちごがいいってどうしても聞かなくて」
男性客は「あはは」と爽やかな声で笑った。スタッフが一緒に笑っている様子はない。
「だから、いちごのスペシャルショートケーキでお願いするね。サイズはー……五号にしようかな」
「かしこまりました」
「受取日は六月二十二日で。今日と同じくらいの時間に取りに来るから。それと――」
六月二十二日に、娘の誕生日。
それを聞いて私は確信した。
――そこにいるのは、「彼」だ。
私が今日一日、ずっと考え続けていた相手だ。
……会いたかった。
けれどもう、二度と会えない方がよかった。
「今日、あこちゃんは?」
バースデーケーキの注文を終えた彼が尋ねた。「あこちゃん」とはおそらく、私の注文をとってくれた少女のことだろう。
「今、買い出しに出ていまして」
「お店の?」
「いえ、うちの晩御飯です。もうすぐ帰ってくると思いますけど」
「……へえ」
それは、少し意外そうな声だった。なんだろう、何かおかしなことでもあるのだろうか。
「それじゃ、あこちゃんにもよろしく言っておいて」
彼のその言葉に、私は心底ほっとした。このまま私に気付かず帰ってくれるのならそれでいい。むしろ今日はこのまま帰ってほしいとすら思った。
私の意志が、まだ固まっていないから。
それなのに、
「あ、それとごめん。トイレを借りたいんだけどいいかな?」
私はさっと下を向いた。
――最悪だ。この店のどこにトイレがあるのかは把握していないけど、これで彼と鉢合わせる可能性がぐっと高くなってしまった。
「どうぞ」
「ありがとう」
足音が、こちらに近づいてくる。
私は身を縮め、息を潜める。彼がここを通り過ぎるまで、何があっても絶対に顔を上げないと決意する。
けれどそんな決意も虚しく、
「……あれ? 羽田さん?」
彼に声をかけられてしまった。
無視してしまいたい。人違いだと言いたい。
――けれど、彼の顔が見たい。
「あ、やっぱり! まさかここで出会うとは思ってなかったよ」
顔を上げると、見慣れた笑顔がそこにあった。
北山礼二。
会社の上司で、私が現在付き合っている人。
――奥さんと子供が、いる人だ。