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私、和埜晴天は作家である。
ドカンと売れているわけではないが、細く長く続けられる程度の実績はあげている。最新刊は先月発売したばかりだ。なのでデビューから二十年が経った今でも、迷いなく「作家だ」といえる立場ではある。
しかし、そんな私は今、作家ならではの地獄を味わっている。
新作のプロット、すなわち企画がことごとく通らないのである。
新しいネタを複数個送ってはボツ。また複数個送ってはボツ。一月下旬からこれを繰り返し、はや三か月が経った。
新しいネタは浮かばない。弾の尽きた銃を手に、ただただ立ち尽くしているこの状態。
……あえて作家らしい言い方をしよう。
私は今、とんでもないスランプに陥っているのである。
「和埜さんもいちごのショートケーキですか。僕もそれにしたんですよ」
先程から素敵な笑顔を張り付けて話し続けているこの麻生君とは、もう五年の付き合いになる。彼に担当してもらった本で、何冊か重版したものもある。
友人のように仲良く接してくれるが、友人以上の間柄になろうとはしない。そんな距離感を保てる彼のことを、私は好いていた。だからこうして面と向かって話すのも苦痛ではないし、実際何度か出版社に足を運んで、彼と打ち合わせしたこともある。
彼と話すのは決して嫌いではない。
ただしそれは、こちらの筆が乗っていればの話だ。
「失礼いたします。……お知り合いでしたか」
麻生君にドリンクメニューを持ってきた少女が、遠慮がちにそう言った。彼女からすればまだ、私たちがどういう仲かは分からないはずだ。強いて言うなら、私の口元が引きつっていることに気付いた可能性はあるが。
「和埜さんはコーヒーですか? それ」
麻生君が私のコーヒープレスに目を付けた。
……まずい。今の私は、コーヒー二杯分も担当編集者と話す力を持っていない。つまり、同じものを頼んでほしくない。なんとかして普通のコーヒーに誘導を、
「おいしそうですねー。じゃ、僕も同じので」
麻生君はドリンクメニューを一切見ず、そんな注文をしてしまった。
――いや、あの、せめてメニューに目を通してくれないか。そうしたならば「やっぱり僕はメロンソーダ」とかそういう流れになったかもしれないのに。
私の絶望をよそに、麻生君は足元にあった荷物入れに黒いバッグを放り込んだ。私と同じ席でケーキを食べるという意思表示だ。
……そうだな。普通に考えれば、違う席に座る方がおかしい。不仲な感じがする。どちらもおひとり様で来店しているのだし、ここは「一緒に食べよう」となるのが自然ではある。
今の私にとっては、地獄でしかないが。
「和埜さん、よくここにいらっしゃるんですか?」
麻生君が、さっきと似たような質問をする。私は首を振った。
「今日、たまたま見つけたお店なんだ」
「ほんとですか! 僕もです。……ちょっと家で色々あって、嫁に『外で時間つぶしてきて』なんて言われちゃいましてね。それで、ここら辺をブラブラしてたら偶然発見した次第でして」
麻生君が最近結婚したのは知っている。しかし待て。
「麻生君。今日、仕事は?」
私の質問に麻生君はぽかんと口を開け、次の瞬間には笑い出した。
「やだなあ和埜さん。今日は土曜日ですよ」
今度は私がぽかんとする番だった。
……しまった。最近ずっと家に引きこもっていたものだから、曜日感覚がなくなっていた。よく考えてみれば、小学生だろう少女が店に出ているのを見た時点で気付けることなのに。
それに今、最悪の情報をふたつも引き出してしまった。
今日は土曜日で、麻生君にとって休日であること。
そして「時間をつぶしている」ということは、「時間がたっぷりある」ということだ。
もしも彼が仕事中だったなら、当然タイムリミットというものがある。「職場に戻らなければ」とか「このあと人と会う約束をしている」とかそういうのだ。
しかし、さきの話を聞く限り、現在彼にはそういった予定がまったくない。
そうなると当然、
「ところで和埜さん。今度の新作の件、少しだけ打ち合わせしてもいいですか?」
こういう流れになってしまうわけだ。
「ん……そうだね」
私は気を落ち着かせるため、コーヒーを一口飲んだ。
――だから、麻生君とは会いたくなかったのにいいいいいいいいいいい!
私は脳内で頭を抱えた。
今すぐに打ち合わせできるネタなどひとつも持っていない。あるならとっくに提出している。
先週提出し、即ボツになった「文房具たちの純愛物語」が私にとっての最後の弾丸だった。
ボールペンと消しゴムの禁断の恋。恋敵として立ちはだかるは、シャーペンと修正ペン、それと砂けし。
私はあくまで真剣に提案したのだが、「この内容だと需要がちょっと……」という、オブラートに包んでいるようで包まれていない返事とともに却下された。
あの時の私は、その場に頽れたい気分だった。すでに二十のネタが却下されていた。
ついにネタが尽きてしまった。今の私には何もない。
――逃げ出したい。この悲惨な状態から。
そうして私は現実逃避するため散歩を始め、このケーキ屋を発見したのである。
そこでまさか、担当編集者と出くわすことになるとも知らずに。
「何か、いい案はありませんかねえ」
麻生君は自分用の砂時計を眺めながら、のんびりとこう言った。
私はちまちまといちごのショートケーキをつつく。こんな状況でもケーキはしっかりとおいしい。私を平常心でいさせるための唯一の糸、それがこのケーキとコーヒーだった。
「……ところで和埜さん、文房具お好きなんですか?」
「えっ」
「だってほら、この前頂いたプロット」
「ああ……」
私は苦笑した。
「あれはなんというか……行き詰まったせいかな。奇をてらってみたくなってね」
正直に白状すると麻生君は笑った。胸をなでおろした、そんな笑顔にも見えた。
「なるほど、そうでしたか。いやあ、てっきり和埜さんが無類の文房具好きで、話が進めば進むほど一般人じゃ知らないようなコアな文房具でも出てくるのか? なんて深読みしちゃいましたよ」
いや別に文房具にそこまで愛着ないし、とはさすがに言えなかった。
「正直、あまり和埜さんらしいお話ではないなあと思いながらプロットを拝見していたんですよね」
「ははは……」
「ただ、ボールペンとシャーペンがガチンコで喧嘩するシーン、あれはちょっとグッとくるものがありました」
「ああ」
私は、麻生君に渡したプロットの内容を思い出していた。麻生君が言っているのは、ヒロインの消しゴムをめぐって、今カレのボールペンと元カレのシャーペンが殴り合うシーンのことだ。
この喧嘩が原因で、ボールペンはインク漏れを起こし、二度と文字の書けぬ体になってしまう。
「そんな状態になっても、『お前みたいなクズに消しゴムちゃんは渡せねえ!』ってボールペンが叫ぶんですよね」
「……よく覚えているね」
「それくらい印象的なシーンでしたもん」
麻生君がそこまで言ったところで、彼のショートケーキが運ばれてきた。私のと同じで、カットフルーツが盛り付けられている。
麻生君はいただきますも言わず、一口分を大きく掬って頬張った。咀嚼しながら、プレスマシンのつまみを押し下げる。
「……ああいう印象的なシーンと、和埜さんのお好きな題材。そのふたつを融合できたらいいなあと思うんですけど」
その言葉に私の何かが刺激された。
先刻、この目で見たものが脳裏によみがえる。
――覚えてないもんを謝れって言われても、困るって言ってんだよ。わかるか?
――あんたとはもう二度と会いたくない! 地獄に落ちろクズ野郎!
「ケーキ……いや……ケーキ、屋、を」
私は視線を落とした。大好きなショートケーキがそこにある。
「町中のケーキ屋を、舞台にするのはどうだろう。その店のイートインスペースで起こる、ヒューマンドラマとか……」
私の言葉に、麻生君が「ああー」と腕を組んだ。
「あれですか。訳あり客と店長の、あったかい人情ものとか――」
「いや違う。私が考えているのは、あくまで客同士の話なんだ。それも心温まるやつじゃない、むしろ逆だよ。『嫌いな人間とばったり出くわしてしまう』、そんな店の話だ」
コーヒーを飲みかけていた麻生君が、その手を止めた。
私は思いつくがまま話し続ける。
「そのケーキ屋のイートインスペースで飲食していると、『自分が今、最も出会いたくない人物』と鉢合わせてしまうんだ。たとえば、いじめられっ子がいじめっ子に会うとか。あるいは縁を切った親子とか。別れたばかりの男女とか」
「…………」
「それで、とある客たちは罵りあって別れたり……違う客たちは、話し合うことで和解したりする。つまりはハッピーエンドもバッドエンドもある感じにしてさ」
「…………」
「どんな人にも、絶対一人はいると思うんだ。『二度と会いたくない人間』っていうのが。そういう人たちが、たまたまケーキ屋で鉢合わせてしまって、それで――」
「和埜さん。もしかしなくとも今日、僕に会いたくなかったんですね?」
麻生君の言葉に背筋が凍った。
――しまった。妄想がはかどりすぎて、彼に気を遣うことをすっかり忘れていた。『ケーキ屋のイートインスペースで』から始まる物語など、今の自分たちから着想を得たと言っているも同然だ。
つまり間接的にではあるが、「おめえにだけは会いたくなかったよ」と言ってしまったようなものなのだ。
「あ、いや、それは、あ、そんなことは……」
私がもごもごと口を動かしていると、麻生君は「あはは」とおかしそうに笑った。
「すみません、冗談です。というか、もしもそうだとしても全然構いません。僕が作品のネタとしてお役に立てるのなら、むしろ光栄ですよ」
麻生君はショートケーキの上にのっているいちごを、皿の隅に移動させた。どうやらいちごは最後に食べるタイプのようだ。
そんな推測をしていると、麻生君は「うん」と笑顔で頷いた。
「面白いと思います、その話。月曜日に編集長に提案してみますね」
「え、…………え?」
彼はあっさりとそう言ったが、私からすれば大事件だった。思わず前のめりになってしまう。
「ほ、本当に!?」
「ええ。編集長がGOサインを出すかどうかは分かりませんが、少なくとも僕はいけると思いますよ」
麻生君はケーキの上に絞られた生クリームだけを掬い取り、口に運ぶ。
私はにやける口元を隠すため、少しぬるくなったコーヒーを手にした。酒をあおるようにガブ飲みし、二杯目をカップに注ぐ。その間も、次から次へと話が思いついた。
早く書きたくて仕方がない。こんな気持ちはいつぶりだろうか。
――この店に来て、本当によかったなあ。
心の底からそう思った。
ここは私のパワースポットだ。絶対にまた来よう。
そんなことを考えている私に、麻生君が「そういえば」と言った。
「そのお話。タイトルとかって決めてます?」
「ん……そうだなあ」
私はポットを机に置いた。ソーサーに描かれている、向かい合わせになった蜂のイラストが少し揺れる。
「はち……」
私は前を向き、麻生君に向かって言い切る。
「パティスリー、はちあわせ」
どうかこの物語が、そして私が、少しずつでも前に進むようにと願いながら。
**
「……てんちょー」
プレスマシンを片付けている店主の蜂須賀に、亜子がこっそり話しかけてきた。店内には自分たち以外誰もいないのだが、亜子は何故か声を潜めている。
「うん?」
「こっちの席に座ってたお客さん、多分作家さんだよ」
「へえ、それはすごいな」
「でもね、途中で編集さんみたいなのが来てね、ものすっごく変な顔してた。多分会いたくなかったんだよ、あれ」
「へえ……」
「なんかさー。うちの店、そういうの多くない?」
「多いね」
蜂須賀は頷いた。
なぜかは知らないが、この店を訪れた客たちは『知人とばったり出くわす』ことが多い。それも好意的な意味ではなく、『因縁の相手と鉢合わせる』ことがほとんどだ。
結果として客同士で喧嘩したり、あるいは話し合いの末、関係性が修復したりする。
近所の人たちから「ある種のいわくつきケーキ屋」とまで呼ばれてしまっていることを、蜂須賀はひそかに知っていた。
「……てんちょーはさー」
コーヒープレス用の砂時計を回収しながら亜子が言う。「なに」と蜂須賀が返す。
「この店でわたしと『鉢合わせ』した時。……会いたくなかったって、やっぱりそう思ってたの?」
蜂須賀は絶句する。
亜子は「なんてね」と肩をすくめ、さっさとテーブルを拭き始めた。