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初めての店では、絶対にいちごのショートケーキを頼むようにしている。
なぜなら、いちごのショートケーキが一番その店の実力を測れるからだ。
……と、玄人っぽく言ってみたが、実際はこれが一番好きなだけである。
「イートインしたいんだけど、いいかな」
迫りくる現実から目をそらすべく、私はそう言った。
そう、さっきは一瞬だけ地獄を覗いてしまったものの、ケーキ屋とはあくまで日常から切り離された贅沢な空間なのだ。テイクアウトして家で食べるケーキもいいが、イートインすればより一層リッチな非日常に浸れるのである。
「かしこまりました。お好きな席へどうぞ」
少女に促され、私はイートインスペースへと向かった。
お好きな席とは言われたが、この店にあるテーブルはふたつだけだ。二人掛けのテーブルか、四人掛けのテーブル。小さな店だし、スタッフも多くはなさそうなので、これが限界なのだろう。
私はいそいそと、二人掛けの小さなテーブルに腰かけた。
窓から外の様子がよく見える。
等間隔で街路樹が並ぶ歩道、道路を挟んだ向かいにあるのは小さな花屋と弁当屋、百円自販機。いたって凡庸な風景だ。『駅から徒歩五分の場所にある小さなケーキ屋さん感』が、こんな所に滲み出ている。
「失礼します。ドリンクメニューです」
少女が、ラミネートされた小さなメニュー表を持ってきた。
正直に言うとどの店でもホットコーヒーを頼むのだが、どんなメニューがあるのか気になったので、さっと目を通した。
コーヒー、カフェラテ、エスプレッソ。紅茶はレモンとミルクだけかと思いきや、フルーツティーだとかカモミールティーなどといったお洒落なものもある。あとは、ソフトドリンクが数種類。
やはり無難にホットコーヒーだなと思った時、おすすめいう文字に目がいった。
コーヒープレス。
……なんだこれは。
「そちらは、コーヒー豆本来のおいしさを簡単にお召し上がりいただける商品です」
コーヒープレスについて尋ねると、少女は簡潔にそう答えた。いや、答えになっていない。それではよくわからない。
「こっちのホットコーヒーとはどう違うの?」
「はい。ホットコーヒーの方はてんちょ……失礼しました、当店で淹れたコーヒーをカップに入れてお出しいたします。『すっきりとした味わいのコーヒーをすぐに飲みたい!』という方にはこちらがおすすめです」
「ふむ」
「一方のコーヒープレスは、ポットごとお渡しいたします。ポットにはお湯とコーヒーの粉が入っているのですが、こちらはすぐにお飲み頂けるわけではありません。コーヒー豆の成分を抽出するための時間……大体三、四分ほどお待ちいただくことになります」
「ほう」
「成分の抽出が終われば、ポットのつまみを押し込むだけでできあがります。まろやかでコクのあるコーヒーが簡単にお楽しみいただけますよ」
……すごい子だな。つっかえもせずにサラサラと商品説明している。それとも説明しすぎで慣れてしまったのか。
私はメニュー表を少女に返し、コーヒープレスを頼んだ。
少女は、嬉しそうに頷いた。
*
「失礼いたします。お先にお飲み物をお持ちいたしました」
注文から数分後、少女はそう言って私のコーヒープレスを持ってきた。
カップに入っているコーヒーとは違い、ガラスのポットに入っている。ポットと言っても紅茶用のそれとは違い、少し細長くしたビーカーみたいな形状だ。中に入っているお湯と、それに浸かっているコーヒーの粉が見える。
ガラスのポットには取っ手と銀の蓋がついており、蓋の上には棒付き飴そっくりのつまみがある。「棒つき飴を蓋に突き刺した」ようにも見える形だ。
少女はコーヒープレスの隣に、小さな砂時計を置いた。砂はすでに落ち始めている。
「こちらの砂がすべて落ちましたら、プレス機のつまみを下まで押し下げて、お飲みください」
ソーサーとカップ、さらには砂糖とミルクを机に置いて、少女は去っていった。
――へえ、お洒落だな。
私はまじまじとコーヒープレスを眺めた。結構な量があるように見える。この店のカップが小さめなせいもあるが、おそらく二杯分楽しめるはずだ。
私ははやる気持ちをおさえ、カップとソーサーを眺めた。
白色で質素なデザイン。しかし店の名前が印字されているので、特注したものなのだろう。
ここで私は初めて、この店の名前をきちんと確認した。
『Patisserie Bee&Bee』
文字通り、「蜂と蜂」という意味だろうか。
店名の横には、向かい合っている蜂が描かれている。かなり可愛くデフォルメされているので、私みたいな虫嫌いでも嫌悪感を抱くことはない。むしろ好きなデザインだった。
――知らない町を散策していると、こういう発見があるからいいな。
今日、この店に来たのは本当に偶然だった。SNSでバズっていたからとか、友人にすすめられたからとか、そんなのではない。気分転換のためにたまたまこの周辺を散歩していて、たまたま見つけたから入った。それだけだ。
事前の情報がないと、いい意味でも悪い意味でも変な偏見を持たずに済む。自分の感性だけでこの店を判断できる。
はっきり言うと、この店は私の脳内にあるお気に入りリストに登録されつつあった。店の雰囲気はいいし、店員の少女の笑顔も素敵だ。コーヒープレスを待つ、この時間も贅沢でいい。カップラーメンを待つ三分間とは違う優雅さがある。
――この時間が永遠に続けばいいのになあ。
ぼうっと砂時計を眺めること数分。砂がそろそろなくなりそうなタイミングで、少女がケーキを運んできた。
「お待たせいたしました。いちごのショートケーキです」
ことり、と音を立てて私の前に宝石が現れた。
うっとりするがあまり溜息をもらしてしまいそうだったが、違う意味に捉えられたら嫌なので我慢した。
少女が伝票を置き、テーブルから離れていくのを確認してから、そっと皿を引き寄せる。直前までしっかりと冷やされていた皿は、私の指先の体温をすっと奪った。それがまた心地よかった。
いちごのショートケーキは、特別いちごが多い訳でも、生クリームがたっぷり使われているわけでもない、きわめてオーソドックスなものだった。「いちごのショートケーキ」と聞いて誰もが思い浮かべるだろう形、ほぼそのままだ。
ケーキの上に載っている一粒のいちごが、照明を反射してきらきらと光っている。
そして、そのいちごを下から支えている生クリーム。そこには砕いたピスタチオが少しだけ散らされている。……素晴らしい。この緑色が、ショートケーキの色どりをきゅっと引き締めている。
更に、ケーキの周り――皿の余白部分には、小さなカットフルーツが数点盛り付けられていた。キウイにオレンジ、パイナップル。
――このようなオプションは頼んでいないが、……。
私は不安になって、ついつい伝票を確認した。
ショートケーキとコーヒープレスの値段しか書かれていない。
カットフルーツは無料サービスなのか。それならイートインした方が断然お得だ。
私はほっとして、伝票を机の端に寄せる。そこで、コーヒープレス用の砂時計がちょうど終わりを告げていることに気付いた。
私はいそいそとプレスマシンを引き寄せる。
――つまみを、押し込むんだったな。
棒付き飴のようなつまみに手をかけ、ぐっと下に押し込む。つまみが下に落ちるのと同じ速度で、コーヒーの粉がボトルの下に押されている。
なるほど、このつまみはフィルターと繋がっていて、押し下げることで濾過できる構造になっているのか。
つまみを下まで完全に押し込み、さっそくカップに一杯目を注ぐ。淹れたてのコーヒーの香りが、私の鼻腔をくすぐった。
……完璧だ。完璧なまでの癒し空間だ。
一杯目のコーヒーはケーキと一緒にいただくため、ブラックで味わうことにする。
私はフォークを手に取った。
「いただきます」
手を合わせ、誰にも聞こえないよう小声で言う。そして、ケーキの先端にフォークをいれた。生クリーム、スポンジ、そしていちご。これらすべてを、そっと口に運ぶ。
――美味い。
口に入れた瞬間にそう思った。
新鮮さを感じられる生クリームが、体温ですっと溶けていく。そのさらりとした食感とは裏腹にしっかりとしたコクがあり、私の舌の上で自身の存在を存分にアピールしてくる。
卵黄が多めに使用されているきめ細やかなスポンジは、上品な甘さだ。
そして、いちご。
単体で食せば少し酸っぱいかもしれないいちごの果汁。それがスポンジ、そして生クリームとあわさることで、絶妙なバランスを生み出している。噛めばじゅわりと溢れるいちごの果汁は、ケーキの後味をすっと爽やかなものに変える。
――どれ、コーヒーは……?
私はカップに口をつけた。インスタントコーヒーとは格段に違う、芳醇な香りとほどよい苦味が私を包み込んだ。
甘いものを食べた直後に飲むブラックコーヒーは最高だ。これらを交互に食せば、延々に食べ続けられる気さえする。
カップから口をはなす。「ああ」と声が漏れそうになった。
――ここは癒しの空間だ。町中に急遽現れた、甘いオアシス。
サービスのカットフルーツたちも、ショートケーキに合うものばかりだ。ここまでくれば文句などあろうはずもない。
プレスマシンにはもう一杯分コーヒーが残っているし、ここは少し、ゆっくりと味わわせてもらおうかな。
そう思った矢先だった。
――カランカラン。
「いらっしゃいませー」
ドアの開く音と、少女の声。
くそっ、新しい客が来たのか。テイクアウトの人ならいいのだが……。
私はケーキにフォークをさしながら、こそこそとショーケースの方を覗き見た。ラフな格好の男性が一人、ケーキとにらめっこしている。
顔は見えないが、佇まいと髪型から、若者ではないかと想像する。少なくとも、四十代の私よりかは若そうだ。
男性はすっと顔を上げると、ケース上に置かれた呼び鈴を鳴らした。店員の少女が間髪入れずに飛んでくる。
何を注文しているのか全く聞き取れない。イートインでないといいのだが……。
「かしこまりました。それでは、あいているお席へどうぞー」
――イートインか、最悪だ。
私は必要以上に下を向き、新しい客と目を合わせないよう努めた。
一人でケーキを食べる中年オヤジ――すなわち自分のことを恥ずかしいと思う感性は数年ほど前に捨ててきたが、狭いイートインスペースで見知らぬ客と共に過ごすのは、未だに慣れない。
男性客が通り過ぎるその瞬間を、私は待ち続けた。
しかし、事態はより深刻な方向へ進むこととなる。
「……あれ? もしかして和埜さんじゃないですか?」
聞き覚えのある声。言い当てられた名前。まるで、心臓をぎゅっと鷲掴みにされた気分だった。
私はのろのろと顔を上げる。
男性客は「やっぱり!」と破顔した。
「まさか和埜さんがいらっしゃるなんて! もしかしてここ、和埜さん行きつけの店とかですか?」
人懐こい笑みを浮かべ、そして当然のように、彼は私と同じテーブルに座った。
――なぜだ。なぜ彼が今、ここにいるんだ。
私はケーキを食べるのも忘れ、茫然と男の顔を眺める。
彼の名前は麻生武。
私の、担当編集者を務める男。
そして、今、私が最も会いたくない人間のナンバーワンに輝く男である。