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ここまで気が合わない奴が、この世に存在するのか。
そう思わせる人間は残念ながら存在する。
私の場合、この男がそうだ。
「「げっ」」
おっさん二人の低い声が、店内に響いた。
私たちの姿を視認した少女、あこちゃんが「あちゃー」といった表情をする。彼女はよくこの店の手伝いをしているので、常連である私の顔を覚えている。同じく常連客である、この男の顔も。
――なんだって毎回毎回、この男と鉢合わせてしまうのか。
「……お前、行きつけの店をかえてくれないか」
私が話しかけると、無精ひげのオヤジが「はあ?」と眉根を寄せた。
「お前がかえろや。ワイはここに通い詰めて十五年になるんや」
「私だって十五年だ。……わかった。行きつけの店はかえなくていいから、今日は帰ってくれないか。明日出直してくれ」
「アホぬかせ。出直すのはお前やろ。ワイは今日、どぉーしてもケーキが食べたいんや」
「その顔でケーキとか言うな、似合わん」
「お前に言われとうないわ」
私と無精ひげオヤジの間に、見えない火花がバチバチと散った。
ちなみにこのひげオヤジとは、ここ『Patisserie Bee&Bee』でよく会うが、互いの名前を知ろうとしない程度に仲が悪い。なので私は内心で、こいつのことを「ひげオヤジ」と呼んでいる。
多分関西人。
同年代っぽいので五十代前半。
私と同じく独身。
だと思われるが、どれもこれも本人に確認していないため真偽は不明である。訊こうとも思わん。
私はひげオヤジを無視して、ショーケースを覗き込んだ。
キラキラと輝く美しいケーキたち。どれもこれも魅力的だが、今日食べるものはすでに決めてある。
ショーケースから視線を上げると、私たちのことを見守ってくれていたあこちゃんと目が合った。
……すまないね、あこちゃん。いつもオヤジたちの変な会話を聞かせて。
私はあこちゃんに笑いかけ、言った。
「「ミルクレープひとつ」」
――またしても被った。
私とひげオヤジは、不機嫌な顔を互いに向ける。
それから大きく息を吸って、
「「イートインで!」」
――……なん…………だと………………。
私はひげオヤジを睨みつけた。
「おい。メニューから何から被せてくるんじゃない。気持ち悪いな」
「お前が被せてきたんやろが。きしょすぎて鼻水出たわ」
「飲食店でよくもそんな汚い単語が使えるな。品性のかけらもない」
「額から汗噴き出とる汚らしいおっさんに、品性とか言われとないわ」
「こ、これは……! 外が暑かったからでっ」
「あのう……。お取り込み中すみません」
あこちゃんが申し訳なさそうに、我々に声をかけてくる。「あこちゃんはなんも悪くないんやでえ」と、ひげオヤジが猫なで声で言った。きもい。
あこちゃんはひげオヤジのきもい声に苦笑してから、そっとイートインスペースを指す。
「イートインスペースなんですけど、現在手前のテーブルが故障しておりまして……」
私達はあこちゃんの指し示す方に目を向けた。確かに手前のテーブルには赤色のカラーテープが張り巡らされ、「使用禁止」と書かれたA4用紙がはりつけられている。
この時点で私はぞっとした。というのも、このケーキ屋にテーブルはふたつしかないからだ。
そのうちのひとつが壊れているとなると、当然ながら、
「相席になってしまうのですが、よろしいでしょうか」
こうなる。
「「よくない!」」
私とひげオヤジは大人げなく叫んだ。お互い、相席したくないレベルで毛嫌いしているわけだ。そこは気があう。
しかし、それじゃあケーキをお持ち帰りしたいかと言われると、これも違う。
「……お前、テイクアウトすればいいだろう」
私が言うと、はんっとひげオヤジは鼻で笑った。
「店内で紅茶と一緒に食べるのを楽しみにしてきたんや。お前こそ持って帰れや」
「私はコーヒープレスを楽しみにしてきたんだぞ。コーヒーはテイクアウトできん」
「なんやとコラ。ケーキにはストレートティー、これしか勝たんやろが」
「お前の常識を私に押し付けるな。ケーキには、コーヒーだ」
「それでえっと……どうなさいます?」
あこちゃんが控えめに問いかけてくる。私とひげオヤジは、同時に彼女の方を向いた。
「「もちろん、イートインで!」」
あこちゃんが眉をハの字にして、愛想笑いしたのがわかった。
*
ひげオヤジと知り合ったのは、やはりこの店が最初だった。というよりも、ここ以外でこの男と出会ったことは一度もない。
ケーキが食べたくなって店に行くと、必ず出くわす厄介な男。それが、ひげオヤジ。
人間には「生理的に無理」というものが存在する。私にとって彼がそうであった。
初めて出会った時――その時も店の都合で相席になったのだが――私はすでに彼が嫌いだった。そこに特別なエピソードはないし、決定打となった発言も行動もない。ただ互いに「こいつは苦手だな」と考えている雰囲気はあった。
だというのに、店に来るたびにこの男と会うし、なんの因果か知らないが百パーセント相席になる。
私は、故障しているテーブルをうらめしく思った。どうして今日に限って故障しているのか……。というかどこが故障しているんだ? 案外使用しても問題ないのではないか。
「あっちで食ったほうが美味そうやな」
私と同じことを考えていたらしいひげオヤジが、カラーテープだらけのテーブルを見て呟いた。私は「ふん」と鼻息を漏らす。
「使ったらどうだ? 壊れているテーブルなんて、お前にはお似合いだ」
「っかー! なんやその態度、腹立つわー」
「――そちらのテーブルは脚が折れかけているせいでかなりガタついてます。お食事するのは難しいと思いますよ」
私とひげオヤジのドリンクを持ってきたあこちゃんが、忠告するようにそう言った。
流石に我々もいい年こいた大人なので、使用禁止と書かれたテーブルをわざわざ利用することはない。しかしあこちゃんには、座ってもおかしくない状況と思われたらしい。
「いややなあ、あこちゃん。今のはジョークやで、ジョーク」
ひげオヤジはそう言って、アイスティーを受け取った。私はコーヒープレスと砂時計、角砂糖にミルクも貰う。
「にしても寿命か? あのテーブル、まだ綺麗そうやけどな」
紙おしぼりを開けながら、ひげオヤジがあこちゃんに尋ねた。木製のテーブルには確かに色ツヤがあり、使い古されたものには見えない。
あこちゃんは「ああー」と困ったように笑った。言葉を選んでいるように見える。
私はピンときて言った。
「もしかして、お客さん同士で揉め事があって、それで壊されたとか……?」
私の言葉に、ひげオヤジも「ああ」と指を鳴らした。
というのもこの店、何故だか知らないが店内で喧嘩する客が多いのだ。
十五年も通い続けているといろんな光景を見るが、「ハッピーファミリーの日曜日」とか「ラブラブバカップルのデート風景」といったものを見たことはほとんどない。逆に、「不倫がバレて修羅場の夫婦」とか「別れ話の最中に暴れだす女」などは見た。
つまるところ、嫌な言い方にはなるが、何故だか治安が悪いケーキ屋なのだ。
ケーキ自体はおいしいし、スタッフにもなんの問題もないはずなのだが。
「そらまた、どエラい喧嘩やったんか? 大変やなあ」
ひげオヤジの質問に対し、あこちゃんは「あははー」と棒読みで笑い、去っていった。それが答えだった。
「……分かっているとは思うが」
ストローでアイスティーの氷をがしゃがしゃとかき回している男に言う。
「私は、いくら相手がお前だろうと、喧嘩でテーブルを壊すような野蛮な真似はしない。……お前がどうかは知らないが」
「アホ。ワイは物に当たるような小っちゃい男とちゃうんや。……お前がどうかは知らんけどな」
お待たせしました、という可憐な声とともに、ミルクレープがふたつ、運ばれてきた。
ミルクレープはまさにスイーツ界の芸術品だと思う。
私は運ばれてきたケーキをためつすがめつ観察し、そして感嘆した。
この店のミルクレープは、果物が一切入っていない。土台にタルトやパイ生地などが使われていることもない。
クレープ生地とホイップクリーム、このふたつのみで勝負している潔い一品。そこがまず好きだ。最近巷で見かける、「映え」を狙っていそうなカラフルなものより、こういったシンプルなもののほうがいい。
生地、クリーム、生地、クリーム。どの層も丁寧に重ねられていて、「ここだけちょっとホイップが少ない」とか「この一枚だけ生地の焼き色が濃すぎる」といったこともない。こういったところに、パティシエの几帳面さがよく出ていると思う。
――では、頂くとしよう。
私はコーヒープレスを手元に用意し、フォークを手に取った。
「いただきます」
フォークを横にして、ケーキにあてる。そのまま慎重に、一番下の層まで進めた。フォークが皿とぶつかり、かちんと小さな音が鳴る。
――よし。あとは、切り崩した部分が汚くならないように……。
こぼさないよう、そして崩さないよう慎重に、切りとったケーキを口に近づける。あまいクレープ生地とバニラの香りが強く感じられた。
……ああ、すでに幸せだ。自分の部屋をこの匂いにしたいくらいだ。
口の中に入れると、ホイップクリームがほわりと溶けだした。噛んでやれば、何層にも重ねられたクレープ生地とクリームが混ざり合い、一体化していく。
なめらかなクリームと、柔らかくもちもちとしたクレープ生地とのハーモニー。
――……美味い。
やはりケーキは一口目が一番美味い。私は目をつむり、ミルクレープの甘みを堪能した。
そしてゆっくりと開眼し、コーヒーを一口飲む……。
「って、はあ!?」
思わず声を上げた。
「なんやねん。騒々しいオヤジやな」
私の目の前にいる男――ひげオヤジは鬱陶しそうにそう言うと、フォークに巻き付けた一枚のクレープ生地を頬張った。