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現実から少しだけ逃げ出したい時は、ケーキ屋に来るのが一番だ。
ガラス張りのお洒落な外装は、コンビニのそれとはまた違う趣がある。店によってはレンガが使用されていたり、煙突があったりと、絵本から飛び出してきたような造りの所も多い。
これだけでも半分は夢見心地だが、店の前を通るだけで漂ってくる甘い香りがより一層、非現実な世界へと導いてくれている気がする。
私は大きく息を吸い込み、香りを十分に堪能してから、店の中へと足を踏み入れた。
――カランカラン。
ベルのついたアンティークドアを開けると、そこは異世界だった。
掃除の行き届いた店内に、統一感のあるインテリア。棚に並ぶ、美しくラッピングされた焼き菓子たち。
そしてひときわ目立っている、煌びやかなショーケース。
その中には、丹精込めて作られたケーキたちがずらりと鎮座している。まるで私を誘惑しているような光景だ。
果物が使われているケーキは、宝石を纏った貴婦人と似ている。
テンパリングされたチョコレートケーキは、どこかなまめかしい。
一枚ずつ丁寧に重ねられたミルクレープ、粉砂糖でおめかししているシュークリーム、見るからに濃厚そうな抹茶ケーキ、洒脱という言葉を連想させるチーズケーキ、
「だからあんたはクズなのよ!」
そうして聞こえてくるは、罵詈雑言。
――……罵詈雑言?
私はショーケースから視線をあげ、右側――怒声の聞こえた方を見た。
そこには小さなイートインスペースがあり、若い男女が向かい合って座っていた。
男性は私に背を向けているので、どんな表情をしているのかまるで分からない。
しかし女性のほうは、私から見てもはっきりと分かるくらいに激昂していた。ここまで怒っている人間を、私は生まれて初めて見た。
「つってもよー、覚えてないもんは覚えてないんだって」
私に背を向けている男性が、ふてぶてしい声で言った。
「覚えてないもんを謝れって言われても、困るって言ってんだよ。わかるか?」
「あんな酷いことしておいて、忘れたなんて嘘ばっかり!」
「俺が覚えてるって証拠がどこにあんの? つーかもうちょい静かにしてくれる? 店に迷惑だからさ」
「もういい!」
女性は立ち上がると財布から一万円札を抜き出し、バンと音を立てて机に置いた。
「あんたとはもう二度と会いたくない! 地獄に落ちろクズ野郎!」
ここまで清々しい罵声も、生まれて初めて聞いた。
女性は私のわきを通ると、そのまま外に出ていった。小心者の私はその瞬間をジロジロと見れなかったが、おそらく泣いていたように思う。
一方、一万円札を叩きつけられた男性は「ラッキー」とそれを拾い上げた。
「お釣りはもらっていいってことだよな? パチスロ行こーっと」
――クズだ。クズがここにいるぞ。
初対面の人間相手にそんなことを考えるのもよくないが、そうとしか思えなかった。状況だけ見るのであれば、明らかに男性の方がクズだ。同性の私から見ても、奴はクズそのものだ。
そんなクズのすぐそばに、女の子が立っていた。
身長からして、年齢は十歳かそこらだろうか。白いワイシャツにプリーツスカートという、学校の制服なのか店の制服なのかわからない衣服を着用し、その上に紅色のエプロンをつけている。エプロンと同色のベレー帽からはみ出ている短い三つ編みは、年相応の可愛らしさと清潔感があり、私は一目で好感を持った。
そんな彼女は先程から「自分は空気です」と言わんばかりの態度で、お冷の入ったピッチャーを持って立ち尽くしている。
おそらく「おかわりはいかがですか」と訊こうとしたタイミングで、男女の喧嘩が始まったのだろう。誰だって、見知らぬ人間の喧嘩の間に入りたいとは思わない。結果、あんな感じで凝り固まってしまう訳だ。
……それにしても、あんな小さな子が店のスタッフなのか?
「会計して」
男は立ち上がると、動けずにいる少女に伝票を放り投げた。
ショーケースの横にレジスターがあるため、私とクズ男が並ぶ形になる。
私はちらりと男の顔を覗き見た。
想像よりも強面ではなかったが、毎日遊んでいそうなオーラは醸し出していた。
「ありがとうございましたー」
少女は丁寧なあいさつで男を見送ると、私に視線をよこした。
「お待たせしました、ご注文はお決まりですか?」
「えっ、あ……」
いきなり話しかけられ、言葉に詰まった。客同士の喧嘩に見入っていたため、自分にスポットライトがあてられるなど思ってもみなかったのだ。こういうところで、人見知りが出てしまう。
少女はモジモジしている中年男性、すなわち私に対してにこりと微笑んだ。
「お決まりになりましたら、そちらのベルでお呼びください。ごゆっくりどうぞ」
それは、子供とは思えないくらいに丁寧な言葉遣いだった。よほど聡明な子なのだろう。
そちらと言われた方を見やる。そこには小さなベルがちょこんと置いてあった。中世の貴族が、召使を呼ぶときに鳴らすようなやつだ。
ベルの下には手書きのポップが張られている。
『どのケーキもおいしさ保証!
焦らずじっくりお選びください。
御用の際は、ベルでお呼びくださいませ。』
――なるほど良い案だ、と私は思った。
基本ケーキ屋をこよなく愛する私だが、唯一苦手なものがある。
それは、ショーケース越しにべったりと張り付いてくる店員だ。
店に入ったが最後、注文しなければならないような圧を感じる。注文するにしても、あまり長考したら鬱陶しいと思われるのではないかと焦ってしまう。
結果、ケーキの説明文をしっかり読むこともできず、見た目のみで判断してしまうことも多い。私のような小心者かつ自意識過剰な人間が陥りやすい状態と言えるだろう。
ところがこのケーキ屋は、そんな心理を見透かしたかのように「店員は近づかないから勝手に見といてくれ」と言ってくれているのだ。素晴らしい。すべてのケーキ屋、ついでに服屋でも採用しておいてほしいシステムだ。
感嘆したまま、私はショーケースに視線を落とした。本当はどれを買うか大体決めていたのだが、せっかくなのでケースの中をじっくり見てみたい。
少女は、イートインスペースの後片付けを始めている。目の端で見る限り、手際もよさそうだ。とてもじゃないが子供とは思えない。しかしあの幼い顔は小学生――どれだけ童顔だったとしても中学生だろう。
そんなことを考えていると、ショーケースの奥に位置する厨房から、一人の男がのろのろと出てきた。
年齢は二十代中頃か、もう少し上ぐらい。服装は、白を基調としたのコックコートに、焦げ茶色の腰エプロンとハンチング帽。一目でパティシエだとわかる恰好だ。
彼は私の方を一瞥すると、ぺこりと頭を下げた。
「……いらっしゃいませ」
驚くほどに覇気のない声だった。口元が引きつっているが、それが精いっぱいの笑顔なのだろう。不愛想というよりも、私と同じく人見知りの類らしい。
優しそうに見える垂れ目がちの塩顔、ニキビひとつない肌、それに高身長と、女性ウケしそうな要素を兼ねそろえているが、モテるタイプではなさそうだ。
私はいつもの癖で、そこまでを瞬時に想像してしまった。
「あこ」
男は少女にそう呼びかけた。
あこと呼ばれた少女は男を見るなり、ぱっと笑顔になる。
「てんちょー」
「ごめん。業者との電話が長引いて、こっちに出てこれなかった。……大丈夫だったか?」
店内に客がいるのを配慮してだろう。「客同士が揉めていた」とは言わず「大丈夫か」だけを少女に尋ねた。
少女はこくりと頷く。
「何もなかったよ」
――いやいやあったよ、修羅場だったよ。
私は内心でそう思ったが、あえて何も口にしなかった。
『てんちょー』と呼ばれた男は、少女とともに皿の片付けを始めた。『店長というあだ名のアルバイトです』なんてややこしいことがない限り、彼がこの店の店長なのだろう。ずいぶんと若そうに見えるが、立派なことだ。
……しかしそうなると、あの少女はどうしてこの店で働いているんだ?
普通に考えれば「店の手伝いをしているから」だろう。しかし「子供が店の手伝いをしている」と聞けば、大抵の人間は「子供が『親の』店の手伝いをしている」と頭で変換するはずだ。
しかしどうだろう。『てんちょー』と『あこ』は、親子に見えるか?
否、見えない。
『てんちょー』は三十歳にもなっていなさそうだし、『あこ』だって十歳くらいに見える。
つまり、もしも本当に彼らが親子なら、『あこ』は『てんちょー』が未成年の頃に産まれた計算になる。
確かに、未成年のうちに家庭を持つ人はいくらでもいる。故に『てんちょー』と『あこ』が親子であってもおかしくない。しかしこういうのもアレだが、『てんちょー』は朴念仁だし、いかにも奥手そうで、……つまりは「いまだに女を知らない」タイプに見えるのだ。失礼すぎる妄想で申し訳ないが。
そもそも『てんちょー』という呼び方が、親子にしてはよそよそしい。
店の手伝いとはいえ仕事なのだからと、そこら辺も徹底させているのか?
それともやはりあの二人は親子ではなく、年の離れたきょうだいとか……いや、もっと複雑な事情があるのか?
だとしたら、いったいどういう関係なんだ。
「……えーっとー」
少女が私を見て苦笑いした。
――いかん、ついうっかり二人の挙動をまじまじと観察していた。
私はごほんと咳ばらいをする。
「注文したいんだが、いいかな? ……ベルを鳴らさなくてすまん」
素直に謝ると、少女はやはり向日葵のようににぱっと笑った。