表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ドストエフスキー論

ドストエフスキーは人間を「矛盾」と捉えた

 ドストエフスキー「悪霊」を再読して色々な事を考えた。ベルジャーエフやバフチンも読み返し、ドストエフスキーについて新たにわかった事があるのでメモしておく。

 

 ドストエフスキーは人間というものを一個の矛盾と捉えた。言葉にすると、そういう事がわかった。…おそらく、こういう風に書いた所で人は別に驚きを感じないだろう。「ふむふむ、それで…」という感じだろう。

 

 だが、仮に人間が本当に「矛盾」であるなら、その本質が「矛盾」であるなら、不可解な事が起こる。それは、人間を合理的に捉えようという試みが全て過ちになる事だ。本質は「矛盾」であるから、その本質をある一つの概念に押し込めようとすると、それがどのような物であろうと、間違いになってしまう。彼が間違いに至るのは正答を求めるからだ。正しさの中に人間を押し込めようとするから、かえって彼には人間は見えなくなってしまう。

 

 人間の本質は矛盾であるとは「地下室の手記」に最初にはっきり表明されている。この思考は後の作品まで続く通奏低音となった。「地下室の手記」の主人公は、ユートピアをぶち壊す一人の紳士について語っている。彼がユートピアを破壊するのは何故か。ただ完成された、整然たる体系が嫌だというだけの理由なのだ。人間はピアノのキーではない、数理表に書き込まれたモデルではない、ただそれを証明する為だけに人間はユートピアをぶち壊す。そこに人間の尊厳がある。

 

 人間の尊厳は美にも、幸福にも、善にもあるわけではない。そうではなく、人間は完成それ自体を越えていく矛盾の中にある。人間は不可解な存在である。それをドストエフスキーは作中、くどいくらい強調している。人間はどこまでも果てのない深淵である。…だが、この人間を「あなたは果てのない深淵だ」と誰かが定義するならば、定義された人間はそれを嫌い、自らを数理表の一部に化するかもしれない。修道院に入って禁欲の生活を送り、聖者になるかもしれない。だが聖者に価値があるのではない。悪人に価値があるのでもない。人間とは聖者であり、悪人であり、何者にもなれるが、何者かである事を嫌って「次」へ行こうとする所に価値がある。そこにドストエフスキーは人間存在を見ている。

 

 ※

 

 「悪霊」の主人公スタヴローギンは、悪漢である。悪党である。彼はその気になれば、修道院に入って禁欲生活を送る事もできる。その可能性も示唆されている。しかし、ドストエフスキーは、どちらかが正しいと言っているわけではない。そのどちらをも可能な存在として人は生きざるを得ない、永遠に自己決定はできない、と彼は言っているのだ。

 

 この時、スタヴローギン自身は作者ドストエフスキーではない。これは重要な点だ。スタヴローギンは彼自身一個の矛盾であるにも関わらず、一つの思想を持って、何らかの答えを出そうとする。悪に溺れる。淫蕩に溺れる。それにも破れ、聖者に相談しに行く。罪を告白しようと画策して、失敗する。

 

 彼は一個の矛盾であるが、それはあくまでも作者の観点である。スタヴローギン自身は答えを見出そうとしている。そうなのだ、人間とは正にそういう存在なのだーーと私は思う。私は常々感じてきた。我々がドストエフスキーを見ているのではなく、ドストエフスキーが我々を見ているのだ、と。我々は一個の答えを人生に見出そうとする。なんでもいい。結婚は人生のゴールだとか。大企業に入ったから安泰だとか。もっと色々、複雑な答えがあって人は答えを常に見出そうとしてきた。だが、答えは次の瞬間には答えではなくなっていた。なぜか。彼が人間だからである。

 

 人間は一個の矛盾だが、それは作者の出した答えである。登場人物が同じ答えを抱いたら、作品というものは成り立たない。登場人物達は最後の言葉、最後のギリギリの結論に辿り着こうとする。もがいて焦って運動していく。だがその最後の答えには「先」がある。それは何か。答えは出ないという答えだ。この答えを作者が握っているからこそ、人間の果ての果てまでドストエフスキーは描く事ができた。果ての先を彼は知っていた。

 

 答えが出ないという答えは抽象的なものに聞こえるかもしれない。しかしこれは具体的な答えである。実際に見てみよう。

 

 「罪と罰」のラスコーリニコフは宗教に入る。彼は内面を失う。あれほど饒舌だった彼の内面は、エピローグで語りをやめる。これは自己放棄だ。自己の内部に結論が出る限り、ラスコーリニコフの夢魔はやまない(ここにトルストイとの差異がある。トルストイにおける救済は主人公が辿り着いた「概念」だ)。ラスコーリニコフの意識の悪夢が止むのは、その消失によってである。新しい夢の到来は答えではない。答えは放棄される。それが答えだ。

 

 「白痴」のムイシュキンは発狂する。「悪霊」のスタヴローギンは自殺する。「未成年」のヴェルシーロフはラスコーリニコフと同じで、内面を失い宗教の下に入る。「カラマーゾフの兄弟」のイワンは発狂する。

 

 以上のパターンを見ると、3つに分類される。宗教、死、発狂の三つである。いずれも「人間外」の領域と見て間違いない。これは、ドストエフスキーの結論ではない。結論そのものは人間の矛盾そのものにある。人間には結論は出ない。最後の言葉を求めても、それは出ない。それを求めようとすると、そのギリギリの結論は自己廃棄となる。自己廃棄の後にあるのは何か。天使か悪魔か、神か、自然か。それはわからないが、ドストエフスキーに興味のあるのは人間でしかない。人間とは矛盾である。混沌である。だからドストエフスキーは何度もこの領域に立ち返る。

 

 仮にある方程式が、人間の念願の答えを全て出すのであれば、人間はそれを否定する為だけにどんな馬鹿げた事もしでかすだろう。そこにドストエフスキーは人間の尊厳を見た。同時に、ユートピアを目指す人間達の危機を見た。社会主義に取り憑かれた無神論者達が、世界を整然とした数理表にしようとしているのを彼は目撃した。…しかしこの、どこまでも「人間主義者」だった作家にとっては、世界を数理表に還元しようとする人間すらもあくまでも矛盾に満ちた人間だった。

 

 人間を平板化しようとしている程度の低い連中とドストエフスキーとは、神と猿ぐらいの差がある。だがドストエフスキーがいつも認識していたのは、人間は神にも猿にもなれるという事だ。その徹底した矛盾を見つめた視線を、彼はああした高みまで上らせたが、その高みからしか、人間の一番低い愚かさも見えない。結局、一番低い愚かさも人間性の発露である、とする視点が文学的に一番優れた視点という事になるのではないか。悪を排除し、自分達を正義だとする視点は彼ら自身を平板化する。彼らは小説の中でも凡庸なキャラクターしか演じられない。というのも、彼らは矛盾や混沌を嫌い、自分を大層なものと思い込む事によって、石材の如きものに変じるからだ。

 

 


 補足: ドストエフスキーと違ってトルストイは、合理的な結論を求めた。矛盾を二つに分割し、善と悪とに割って、善を求めようとした。合理性を求めたトルストイの小説が、その最終結論において「主人公の思惟」に救済点があるのは特筆すべき事だろう。


 トルストイにおいては、救済は自己廃棄ではなく、自我の内部に求められた。それ故にトルストイは一生涯、漂泊者として生きた。彼は晩年には芸術を否定したが、彼が次にどこへ行ったかはわからない。彼は内部に答えを求めようとしたが、その内部のポイントを絶対化する事はかなわないので、漂泊を続ける他なかった。


 一方、ドストエフスキーは自己廃棄を結論としていたために、彼はそこから絶えず人間の矛盾に取り組んだ。元々、芸術などは何の役にも立たないくだらないものだと言える。しかし、それがいかに現実を眺めるかという点に、現実との血みどろの闘争がある。芸術それ自体が、救済として信じられなくなっても作品を書き続ける事はできる。


 何故かと言えば、芸術を越えた認識点というものを人間は発見可能であり、ドストエフスキーのような人はそこに辿り着いたからだ。トルストイは聖者を目指して家出をしたが、その漂泊は、彼が人間として大きな旅を求めるが故に起こった。トルストイになかった視点は、この旅には終わりがないという事だった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] ども。 「ドストエフスキーは人間を「矛盾」と捉えた」という考えがどうなのかは読んでいないので私には分かりませんが、数学の不完全性定理にようだという把握をしました。 すると納得できる部分もあり…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ