特別な席
少し古びた喫茶店でしばらく働いて、なんとなくわかってきたことがある。
常連客の座る席だ。
どんなに席が空いていても古い客ほど同じ場所に座る。
混んでいるときはあいてる席に座る人ももちろんいるが、こだわりでもあるんだろうか、そういう客はたいてい空いている平日にくることが多い。
「あら、お兄さん。お仕事にはもうなれた?」
にこにことゆったり落ち着いた声で話しかけてきてくれたのは80才くらいのお婆さん。おっとりとした人で、毎週木曜日のお昼時が過ぎた頃にくる。ここの常連客だ。今の店主になる前から通い続けていると本人から聞いた。
「ええと、なんとか」
「そう、それはよかったわ。がんばってね。紅茶とコーヒーをお願いできるかしら」
「わかりました」
窓際、日差しの入る暖かい席。
3つ並んだテーブル席の一番手前に座る。
その人が決まって座る場所だ。
「紅茶とコーヒー」
「千代さんね、了解」
千代さんは一人できて、いつも紅茶とコーヒーを頼む。
紅茶を飲んで(時にはケーキや軽食も食べるが)、ゆっくりしたあと、コーヒーを向かいの席に残して帰っていく。
初めて対応した日は、ものすごく戸惑った。
なぜならメニューに種類もそこそこある紅茶の何を聞いても「紅茶」としか答えず、「コーヒー」もしかりだ。そのうえ、何度も聞き返す俺に、にこにこと同じ言葉を繰り返す。
そのやりとりを一通りみてたか、笑いながら店長が「いつもの紅茶とコーヒーですね」と助け船を出しに来てくれたのを覚えているし、裏で「あー面白かった」などとほざいた店長に殺意がわいたことも忘れていない。
コーヒーを向かいに置いてから、千代さんの前に紅茶を置くように。
告げられて「なぜ」と聞き返すのも、もはや面倒でその通りに行動している。きっとなにか理由があるのだろう。
「お待たせ致しました」
先にコーヒーを向かいの席に、そして千代さんの前に紅茶を置く。
「ありがとう」
いつものように笑顔でお礼を言われる。
「どうぞ座って?」
一声かけて、奥に戻るつもりが、いつもと違って席を勧められた。コーヒーの置いてある席だ。
現状が把握できず千代さんとコーヒーの席を交互に見つめる。千代さんはにこにこと俺の答えを待つ。
ちょうど今は他の客もいないが……。
ど、どうする。これは何が正解だ?
そうだ、店長に……と、助けを求めれば、店長は奥から楽しそうに親指と人差し指をくっつけて「おっけー」と軽い感じに合図を送ってきた。いいのかよ。マジか。
「どうぞ」
「えっと……はい」
店長の合図が見えたのか優しく一声かけられれば、潔く、コーヒーの前に座る。
目の前にはにこにこと嬉しそうなお婆さん。
なんだこのシチュエーション。
「どうぞ、コーヒーも飲んでくださいな」
「え、でも」
「いつも飲まずに席を立つのを申し訳なく思っていたの。だから、ね?」
そう言われてしまえば、飲む他なく。
いただきます、と意を決してコーヒーを一口飲む。
ん? 飲める。
「ふふ」
声をだして小さく笑う千代さんを見る。
「あら、ごめんなさいね。あの人と同じような反応をするものだからつい」
「はぁ」
「また、一緒に来たいものだわ」
寂しそうな笑顔でぽつりと落とされた言葉にどうしていいのかわからなくなる。
「ええ、またぜひ一緒に来てください」
気づけば店長がいて。机にクッキーの乗った皿を置いた。
「お待ちしてます」
驚いた顔をしていた千代さんはゆっくりとした動作で微笑んだ。
「ええ、ありがとう」
「ありがとうございました」
千代さんが見えなくなるまで店の中から見送る。
「つか、よかったのか? 俺が飲んだのに払わせて」
「千代さんがそれでいいならいいんだよ」
店長はただ微笑むだけだ。
「あのコーヒーって……」
「千代さんの旦那さんの分だね」
さらっと返される。
なんとなく、そんな気はしていたが……聞くと重いな。
「なに落ち込んでるの。千代さんの旦那さんは生きてるよ」
「は?」
「願掛けみたいなもんだよ。千代さんももうお歳だし毎日はお見舞いに行けないからね」
「……つまり?」
「御主人が入院してるから、お見舞いのついでに通ってくれてるんだよ。この店一番の常連の、御主人の分もね」
「そういえば、君。コーヒー飲めたんだね?」
「俺も驚いた。苦いだけだと思ってたが、違うんだな」
「それは光栄だね」
「でも砂糖いれた方が好きだな」
「はは。そうか、それなら今度はとびっきり苦いコーヒーをいれてあげよう」
「やめろ!」