第三話(担当:鈴木りん)
「……その前に、あなたは誰?」
私の問いに、その窓辺の男は呆れ顔になり、両肩を欧米人のようにひょいと上げて見せた。そして、磁石で反発するかのように空中に浮きながら音もなく近寄って来て、私の前に降り立った。
「バカだなぁ……何度も言っているだろう? どうせ明日になったらボクの記憶は君から消えてるんだ。ボクの正体や名前など言ったところで、意味はない」
「でもそれじゃあ、うまく会話もできないわ。せめて、名前ぐらい教えて」
端正な顔立ちを益々台無しにして、彼は面倒くさそうに、首を振った。毛先だけ黒い白髪が、ばさばさと大袈裟に揺れる。
「じゃあ、AでもBでも、Tでも、好きなように呼んでくれよ」
「ふうん……アルファベットが良いんだね。じゃあ、T。あなたの名前は、T」
「確か君、この前も――まあ、いいや。ボクの名前はTだ。それでいいだろ?」
私がこくりと頷くと、Tは悪魔のように恐ろしく鋭い眼を私に向けて、さっきと同じことを、もう一度言った。
「――さぁ、次はどれを食べてもいい?」
「そうね――」
私は、上目使いでTを見やりながら考え、そして答えた。
「7時40分」
「何だって?」
「だからTには、私の7時40分の記憶を食べて欲しいの。あの時間は、私にとって悪夢ほどに辛い時間だから」
――そうなのだ。
7時40分。姉と彼が私の目前で恋に落ちるこの時間が私から永遠になくなれば、二度と苦しむことはないはずだ。
うーん。
Tは腕を組み、必死になって考える。
「それって、ボクに毎日同じ記憶を食べろってことでしょう? 嫌だなあ……毎日同じ味の記憶しか食べられないなんて、耐えられないよ」
「あら、いいじゃないの。Tは毎日記憶が食べられて、食いっぱぐれない訳だし。贅沢、言わないで!」
「そんな、ボクをくいしんぼみたいに言わないでよね。それにさ、本当はボク等の種族は、『誰か』の記憶を食べて生きてるの。『時間』で区切れるわけじゃない」
「え、そうなの?」
恐らくは不満げな私の顔を、Tはじいっと探るように見つめてきた。私がちょっと口元を曲げると、急に慌てたように、おどおどしだす。
「わ、わかったよ。『時間』でなんとかやってみるよ。……でも、条件がある。なんたってそれは、むずかしい方法なんだ。その魔力を維持するのに、誰かの心に住みつかなきゃいけない」
「心に……住みつく?」
「そう。君たち人間は、記憶は脳にあると思っているだろう? それは、大間違いだ。記憶は、心の中にあるのさ」
ふうん……
「それで、Tは誰の心の中に住むの?」
「もちろん……彼さ。なんたって、彼の心は純粋だからね。住み心地が抜群によさそうだ」
「それって、祥吾さんの性格が変わるとか、無いよね?」
「うん? ……まあ、それは、ちょっとぐらいはあるかもね。でも、良いんじゃない? 見た目は全く変わらないし……。だいたいさ、君は彼の外見に惹かれたんだろう?」
そんなことはない――
と、反論したかったが、そう言い切る自信もなかった。自分は結局、彼のどこに惹かれたんだろう……
「じゃ、良いよね。決まりだ。まずは三日間やってみて、嫌なら辞めてもいいよ。それに――ボクが彼の心に住めば、君に有利になるようにできるかも……」
「そんな! 私はそういう意味で言ったわけじゃ――」
「それじゃ、そういうことで。また明日、7時20分に会おう」
Tはにやりと笑みを浮かべると、月明かりに溶け込むように消えていった。
――彼の心が私に向く、ですって?
動揺した私の意識が、波間で翻弄される小舟のようにゆらゆらと揺さぶられながら、徐々に途切れていった。
* * *
それから、三日後の朝。
私は、いつもとどこか違う感覚の時間を、過ごしていた。今は、7時10分だ。祥吾さんが起きてくるまで、あと10分。
確かに7時40分の記憶は、この二日間、私の心から消えている。でも、何かが変わってきつつあった。簡単に言えば――私と彼の距離感。
それと、変わった点がもう一つあった。Tの記憶を失わなくなったこと。
心に住む――ということは、どうやらそういうものらしい。
姉と彼は、相も変わらず、毎日出会っては毎日恋に落ちている――ようだ。
記憶がないから、詳しくはわからない。でも、雰囲気からいってそうなのだと思う。
けれど――祥吾さんの私を見る目が、明らかに変わってきている。
昨日の夜などは、私は今まで感じたことのない、彼からの視線を感じたほどだった。
「おはよう、優子ちゃん」
7時20分になり、彼が起きてきた。胸の辺りが、急に苦しくなる。
リビングテーブルについた彼の、私を見つめる目――
――アツい。
心が、ドキドキ弾みっぱなしになる。
私は、慌てて彼のトーストに、バターを塗り始めた。
と、不意に彼の右手が、バターナイフを持つ私の右手を、ふんわり包み込んだ。
「優子ちゃん……」
「あ、祥吾さん……でも――」
どうやら祥吾さんの心は――記憶は――ほとんどTに占領されてしまったらしい。たった三日しかたっていないのに。
心の底から溢れ出る気持ちを堰き止められない私は、彼の温かい手を両手でぎゅっと、握り締めた。
* * *
そして――その日の夜。
眠れない私のそばに、Tが現れた。この前と同じ、月明かり照らす窓際だ。
違っていたのは、その姿。
心を占領した祥吾さんのその姿のまま、アイツは私の前に現れたのだ。
「さあ、どうする? 今の生活を続ける? このままいけば、祥吾さんはやがて君のモノになるだろうよ」
不敵に笑う、祥吾さんの形をした、T。
私は、その質問に答えを告げるべく、爆発しそうなほど鼓動する心臓を抑えるため、深呼吸のように大きな息を一つ、ゆっくりと吐き出した。