299 慰安旅行 5
海の中は湖の時と違って暗かった。波も強く目も開けることができない。何の準備もしていなかった私はあっという間に意識を手放した。
『ナナミ、大丈夫ですか?』
遠くから声がする。誰の声なのか聞き覚えのない声だ。それなのに何故かとても安心する。
このまま眠っていたい。
『ナナミ、目を覚まさないと帰れませんよ』
帰る? どこに? 帰る場所とでしてすぐに思い浮かんだのは異世界だった。日本ではなくタケルやクリリがいる場所だった。いつの間にかあそこが私の一番になっていた。
目を覚まさないと帰れなくなると聞いてハッと目覚める。
目を覚ますと見知らぬ女性がいた。
『どなたですか?』
『優しい女神様よ』
自分で優しい女神様って言うから怪しく思うのよね。
でも自称女神さまは光輝いている。オーラが違うというか言葉には表すことができない何かがある。
『貴女が私をこの世界に連れてきた女神さまでか?』
『そうよ。タケルやクリリやその他にもたくさんの人が望んだから連れてきたの。貴女はあの世界では死んでしまったから、この世界を変えてもらうためにここでたけ生きてもらうことにしたの』
『世界を変える? そんなの無理よ』
『こちらの世界は魔法があるせいか、文明が進むのが遅いの。料理もありきたりなものばかり。私としては百均の商品を使ってくれるだけで良かったんだけど、まさか店を開くとはね。でもそのおかげで思っていたよりずっと早く世界は変わろうとしているわ。今までと違って新しいものを作ろうとはりきっている。魔法にばかり頼らないで、明かりを作ろうとしたり、蒸気機関車と似たようなものまで開発されそうよ』
『蒸気機関車は私とは関係ないですよ』
『それがそうでもないのよ。貴女の店で売っているものを買って、それがヒントになったみたい。だから貴女が世界を変えているの』
世界を変えるのはいいことなのかしら。日本だって文明が進んだせいでごみ問題や公害に悩まされている。この異世界はとても空気がいいのに、星だっていつも見ることができる。
それが日本のようになる? 東京のように眠らない街になるのは嫌だなと思うのは私の我がままだろうか。
『私はこの世界を変えたいとは思ってないです。ただあっちの世界の物を売っていただけです。日本からこの世界に来た人って私だけじゃないですけど、他の人たちも世界を変えるために連れてこられたんですか?』
『そうよ。他の人は私の管轄ではないから苦労した人もいるみたいね。いきなり連れてくるのにお金も用意しないんだから大変よ。すぐに魔物に殺されたり餓死した人もいるみたいなの』
『女神さまの加護があっても殺されるんですか?』
『加護も万能ではないのよ。ほら、ナナミだって死にかけているでしょ』
え? 私、死にかけてるの?
『私、死ぬんですか?』
『目を覚ましたから大丈夫よ。貴女には勇者がついているから長生きできそうね。でも貴女のカバンは波に飲み込まれてしまったみたい』
『えっ? それってあの船員さんも波に飲み込まれたんですか?』
私のせいで死んでしまったの?
『それは大丈夫よ。タケルが助けたから。ただ彼もカバンまでは気づかなかったみたい』
『そうですかぁ。船員さんが無事で良かったです』
良かったぁ、死んでなかったよ。
『あらカバンはいいの?』
『命には代えられませんよ。女神さまもありがとうございました。私、あの世界が好きです。カバンがないのは困るかもしれないけど、お金を稼ぐ方法はこれから考えます』
『ふーん、まあいいわ。タケルが騒がしいから戻してあげる。いつかまた会いましょう。次に会うときはもっとたくさん話がしたいわ』
ふっと意識がとんだ気がした。
「ナナミ、大丈夫なのか?」
タケルに心配そうに見つめられて、目をパチパチさせる。ああ、これが本当の私の居場所だ。女神さまと話をしたのは夢だったのだろうか。それとも現実?
「…カバン、私のカバンは?」
「な、カバンも海に落ちたのか?」
「やっぱりないのね。じゃあ、夢じゃなかったんだ」
タケルは何とも言えない顔をしたけど、
「まあ、あの海に落ちて助かったんだからカバンは諦めろ」
と言った。
「船員さんも助かったんだよね」
「ああ、まだぐったりしているけど大丈夫だ」
「目を離すんじゃなかったな」
「仕方ないよ。これも神様のお導きだったんだと思う」
「そうだな。人の命よりカバンを助けようとしていたら、今頃助かってなかったよな」
「たぶんそういうことなんだよ」
私はカバンを海に落としてしまった。命は助かったけど、もう日本の商品を買うことは出来なくなってしまった。それでも命だけは助かったのだからいいのかなと思っている。
「あっ? もしかしてお金も取り出せないのかなぁ」
「ナナミはいつもカバンから取り出してたよな」
「うん、ステータスとつながっていたから」
「じゃあ無理だろ」
「はぁーーーーぁ、最悪。商売の関係で商業ギルドのカードに少しは移してるけどほとんどステータスに入れたままだったのに……」
私はガックシとうなだれると、タケルが私の頭をポンポンと叩いて慰めてくれた。