第五話 前進と後退の間
「っ……、ずっ」
「大丈夫?」
「あい……」
いいえ、大丈夫ではありません。今すぐ埋まりたいくらいには、羞恥心で一杯です。
泣きに泣いて約十分、ようやく泣き止んだ頃にはさっきまで『マリアベル』に同調していたはずの頭は冷え、私は羞恥に悶える事になった。
……さっきのは何だったのだろう。
オートモードの時と似た、でも全く違う感覚。涙も、言葉も、勝手に出ているようであれは確かに私の……マリアベルの本心だった。身動きの利かないオートモードとは違う、私の意志でもあった行動。でも泣きじゃくったのも喚いたのも、あれは『本来のマリアベル』の行動であり想い。
自分であって、自分ではない。まるで私自身と本来のマリアベルが一つになって行く様な、不思議な感覚。
オートモードの時も、三年間の人生でも、感じた事の無い現象だった。
「──ちゃん……マリアちゃん、どうかした?やっぱりどこか辛いの?」
「え……あっ、いいえ、だいじょうぶですわ」
心配だと分かりやすく表情を歪めているお母様に慌てて首を振った。
いかんいかん、今は他の事を考えている暇は無い。この最大のチャンスを逃せば後ろはもう断崖絶壁、下がった瞬間真っ逆さまに転落して、良くて大怪我下手したらそのまま御臨終だ。摘める芽は摘んでおかねば。
「おみぐるしいすがたを見せまして、もうしわけありません」
「いいえ……謝るのは、私の方だわ。娘の気持ちに気が付いてあげられないなんて」
いや、まぁ……過去五周のお母様になら多少の責任はあったかも知れないけど。三歳の娘に寂しい想いさせていた訳だしね。
でも、今回は歳相応のマリアベルでは無く『私』だ。そりゃあ寂しさがゼロだった訳ではないし嫌われているかもと思ったら悲しかったけど、中身は大人。内心を隠して笑うくらいの技能はある、はず。今さっき泣き喚いたから説得力無いけど、あれは私であって私ではなかったとノーカンにしていただきたい。
「……お話をしましょう。今からでも、沢山時間はあるわ」
「っ、はい……!」
優しく笑うお母様は数年前に見た姿と変わらない。
現在三歳。原作通りならば二人が離婚するまで後二年、既に原因があるのかそれともこれから浮上するのかは分からないが、一歩前進した事は事実。
私はようやく、踏み出す事が出来たのだ。
× × × ×
「うーむ……」
母の部屋で紅茶をご馳走になり、お話をして、夕食の時間になり……気が付けば外は真っ暗で、自室に帰って来た私は新たな問題に頭を悩ませていた。
お母様の部屋からそのまま食堂に向かった私達を待っていたのは、何の感情も伺えない無表情のお父様だった。横にアンが居たので、恐らくアンから私がお母様の部屋に突撃お部屋訪問した事を聞いたのだろう。
私にはベタ甘な父だが、さすがに今回の奇行は叱られる……なんて身構えていたのに、父から言われたのはまさかの一言。
『ベールデリアは疲れているのだから、あまり無理をさせるんじゃない』
苦い表情で一言。聞き様によっては母に関わらせたく無いのかと勘繰らせる言葉だ。事実お母様はそう判断した様で泣きそうに顔を歪めていた。
美味しいご飯を家族揃って囲む団欒の時間がまるでお葬式の様に感じたのは私だけではないだろう。
「なんか……思っていたのとちがう」
広げたノートに書かれたデータはきちんと更新されている。
今日の事を踏まえても、確実に前進しているはずなのだが……何故だろう、しっくり来ない。一番上のボタンのかけ間違いに似た違和感。
根本的な何かを見間違えている様な……。
「……まずはお母様のはなしをきかないと」
そう、それが私の第一目標。何度も何度も阻まれやっと実現に手が届いたのだ。迷っている間にそれらが無になってしまったら、泣く。私の意志で号泣する。
今進んでいる道が、整備された歩道になるのか命綱無しの綱渡りとなるか……私にかかっている。どこかの命知らずなら綱渡りを選ぶかも知れないが、生憎私は命知らずでもなければマゾヒストでもない。健全な価値観を持った普通の女の子だ。
自ら険しい道を進むなんて、冗談じゃない。
「あした、お母様をたずねよう」
結局私が一人考えてもどうにもなら無い。
『分からなければ聞けばいい』は対人を得て発揮するスキルなのだから悩むだけ無駄だ。
ノートを見られない様引き出しの奥に仕舞い、私は布団をかぶった。