家庭教師が欲しい
存分に教育して欲しい。指導して欲しい。イオネはそう願っていた。
けれど、過去に最大18名もいた家庭教師も、次々とイオネの館から去って行き、とうとうこの日、最後の家庭教師も退職を願い出た。イオネにはその理由がよく分からなかった。誰に聞いても教えてくれない。顔を伏せてしまうか、あるいはイオネ同様全く事情を把握していないか。
イオネは家庭教師たちと良好な関係を続けてきたという自負があった。もしかすると独りよがりだっただけなのかもしれないが、少なくともイオネは彼らに敬意を払い、言われたことは可能な限り従うようにしていた。前市長令嬢だからと言って偉ぶった覚えもなかった。
イオネは平凡な生徒だった。英才教育を受けているおかげで通っている公学校での成績は上位だが、勉強に費やしている時間を考えると、やや物足りないものだった。どんなに教育してもいまいち効果が出ないので、家庭教師たちが愛想を尽かしたのか。イオネは悩んだが、幾ら何でもそんな理由で金払いの良いイオネの指導役を降りるだろうか?
結論。彼らは辞めたのではなく、辞めさせられたのだ。
イオネは祖父のベッセマーに事情を尋ねようと思った。しかしこれはなかなか勇気の要ることだった。父母を幼い頃に失ったイオネにとって、家族と言えるのは祖父のベッセマーだけだったが、彼とはまともに談笑したことがなかった。イオネの家庭教師を手配したのも祖父なら、教師たちを何らかの理由で退職させ、しかも代わりの教師を用意しなかったのも、祖父だった。
とうとう祖父はイオネの凡才ぶりに匙を投げたのだろうか。教育に費やすカネが勿体ないと?
「そんなはずがあるか」
祖父の書斎に入り、率直に自分の思いをぶつけると、意外なことに、滅多に笑顔を見せないベッセマーが柔和な表情でイオネの懸念を否定した。イオネはほっとする前に、こんな顔で自分と話をしてくれるのか、と驚いていた。
ベッセマーは机の前でペンを握りながら書類に目を通していた。三年前に古都クレスタの市長を辞してから、随分時間に余裕が出来たように見えたが、それでも政財界との繋がりは絶えておらず、彼の館には昼夜を問わず人が激しく出入りし、様々な分野に及んでいる影響力が全く衰えていないことを示していた。書類仕事なんて部下や秘書に任せればいいのに、祖父の机には上質紙の山が三つも出来ていた。
イオネは緊張で手に汗を滲ませながら、背筋良く直立していた。それでも偉大な祖父と正対し、どこか上目遣いになる。
「でも、だったら、どうして教師の皆さんがどんどん辞めていかれるのですか」
「私の差し金だと、イオネは考えているのか?」
「ええと」
イオネは一瞬躊躇したが、誤魔化してもろくなことにならないと判断し、
「はい」
と、頷いた。
ベッセマーはペンをペン立てに戻し、机に肘をついた。そして近くに置いてあった本を意味もなく捲ったり表紙を撫でたり、何か考えるようだった。
「結論から言えば、イオネ、お前の考えは正しい。彼らは自主的に辞職を申し出てきたが、恐らく、私が彼らに突きつけた条件が原因だ」
「条件……?」
「三か月後に、お前は魔術学院の魔術科を受験することになっている。そしてそれに向けて勉学に励んでいた。そうだな?」
魔術学院は古都クレスタにおける三大学府の内の一つで、世界的にも優れた魔術研究者を輩出することで有名である。また、竜狩りに魔術を応用する戦闘魔術が盛んで、魔術用の演習場が構内に多数配置されているのも特徴的だ。冷たい実験室で研究を続ける研究者と、血腥い熱気の中で研鑽を積む戦闘魔術師が同居する空間。クレスタの魔術学院が冷熱の筐と呼ばれる所以である。
イオネにとって魔術学院入学は悲願だった。大陸中から俊英が集まり、魔術研究に没頭する。あるいは戦闘技術に磨きをかける。数年前、学院の開放日に見学しに行ったとき、学院の生徒たちの真摯な態度に心を打たれた。元々魔術の勉強は好きだったが、この場所で自分の好きなことに打ち込みたい。強くそう思った。
「はい。魔術学院に何としてでも入学したいと考えています」
「お前の強い意志に私は協力したいと思った。そこで家庭教師たちに、何としてでもイオネを合格させるよう、条件を出した。もしイオネが合格できなければ、罰を受けてもらうと」
「罰、ですって?」
イオネは耳を疑った。口に出してみて、その言葉の恐ろしさをひしひしと感じた。
罰金程度なら可愛いものだが、政治家として辣腕を振るっていた時代のベッセマーは何でもする男として恐れられていたらしい。イオネは詳しい事情を知らないが、知りたいとは思えない。きっと全てを知れば後悔するだろう、それほど祖父は冷酷な顔を持っていた。
「どうしてそんなことを……」
「お前の為だ、イオネ。半端な覚悟でお前に関わろうとする者は害にしかならない」
ベッセマーの言葉に、イオネはどう反応すればいいのか分からなかった。お前の為だと言われても、全ての教師がいなくなっては、勉強も捗らないだろう。イオネは困惑した。
「話はもう終わりか? 私は忙しいのだが」
「あ――いえ、その、教師の件は、今後どうなさるおつもりですか。わたくしは、その、恥ずかしながら独学では勉強を上手くこなす自信がありません」
「私は常に有能な人材を求め、家庭教師の募集をかけている。もしそれで集まらないといのなら、イオネ、お前が自分で探してきても構わんぞ」
「えっ」
イオネは驚いた。自分で教師を探すなんて、考えたこともなかった。教師に限らず、何かをあてがわれることには慣れていても、自分で何か調達する経験に乏しかった。
「自分で、教師をですか……」
「そうだ。必要ならモーゼズに言って都内の家庭教師のリストを貰って来い。受験シーズンだからな、質を問わなければすぐにでも家庭教師が見つかるだろう」
質を問わなければ? それでもいいのか? イオネには、ベッセマーが受験を重要視しているのかどうかよくわからなくなった。
「……分かりました。モーゼズさんに頼んでみます」
「うむ。話は以上か?」
「はい。……あ、もう一つだけ……」
イオネは祖父の顔をまじまじと見つめた。
「わたくしが見つけてきた教師にも、その罰というのを課すおつもりですか」
ベッセマーは腕を組んだ。
「いや。罰を与えるのは私が選定した家庭教師だけだ。イオネが雇った教師については、お前自身が処遇を決めるといい」
「分かりました。それでは、失礼します」
ほっと胸を撫で下ろし、そのまま部屋を辞去した。かなり緊張したが、案外普通に話すことができた。今後は祖父と話をする機会が増えるだろうか。たまになら、あんな風に機嫌良く話してくれるのかもしれない。
イオネは祖父の書斎から使用人の部屋が連なる東棟に向かった。基本的に祖父やイオネが使用する部屋は西棟にあるので、棟を移動するのにエントランス、あるいは三階の連絡橋を通る必要がある。
イオネが連絡橋を通り、ふと立ち止まって、窓硝子の向こうにある屋敷の外のクレスタの街並みを眺めていると、声をかけられた。
「イオネさま」
声のしたほうを向くと、頭を深々と下げているモーゼズがそこにいた。頭をゆっくりと上げた彼の褐色の肌と白い歯がいつにも増して鮮烈だった。使用人の制服を纏った彼の長身は見栄えが良く、使用人たちの間でも美男として評判とのこと。ベッセマーの職務を補佐する秘書室の人間であり、雑務から主人の警護、政財界における工作など、何でもこなす。その任務の半分はイオネの目の届かない暗部で遂行されるものであり、綺麗な仕事ばかりでもないだろう。
「私に用があるとか。僭越ながら私のほうから参上いたしました。御迷惑でしたか?」
しかしモーゼズの周囲には常に爽やかな涼風が吹いているかのようだった。汚い仕事に手を染めても彼の人格までは穢すことがない。イオネは彼と接するたびにそんなことを思う。
「あ、迷惑だなんてとんでもないよ。モーゼズさんに家庭教師のリストを見せてもらおうと思って」
「家庭教師のリスト? ああ……、なるほど。先日とうとう最後の教師がこの館を去られましたからね。ご自分で調達されるということですか」
「そういうこと」
モーゼズは二度三度と頷いた。
「なるほど。では後程、イオネさまのお部屋まで届けさせます。しかし、受験まで三か月を切りました。実績十分な教師を雇い上げるのは至難の業かと思われますが」
「うん、それは仕方ないよ。でも一人で勉強するのは、たぶんわたしには難しいと思うから」
「承知しました。他に何か私が力になれることがあれば遠慮なくおっしゃってください」
「ありがとう」
イオネは笑顔で言った。モーゼズは爽やかな笑みを返し、その場から去っていった。イオネは彼を見送った後、自分の部屋に向かった。
数分後、侍女がリストを持ってきてくれた。封筒にモーゼズのサインが入ったその書類は、なぜだか機密扱いになっていて、厳重な封がされていた。何も考えずにそれを机まで持って行き、ペリペリと蝋の封印を剥がした。
そこには実績十分とされるクラスタの教師の名前と詳しい実績が記載されていた。イオネはこれに記載されている人間なら誰に指導されても満足できるだろうと直感した。それだけ世間一般では有能とされている人間が列挙されていた。
ふと、実績が記載されるべき欄が全く空白となっている人物が一名だけいることに気付いた。
名をハイラム=ザ・ウィザード。本名は不明となっている。
なんとも怪しい人間だった。こんな人間に教師を頼むようなことはあるまい。イオネは批判的な眼差しで彼の名を一瞥し、そして記憶から抹消した。