プロローグ2 魔竜討伐
灰の雨が降り注いでいる。峻険な山岳の横穴に潜り込み、難を逃れることに成功したハイラムは、滝のように汗を流していた。暑い。今までの人生で体験したことのない暑さだった。汗で重くなった上着を剥ぐように脱ぎ去り、腰にぶらさげていた水筒を掴んだ。中身が空であることに気付くとその金属筒を外に投げ棄てた。
「まさかこれほどとは……」
ハイラムは息を荒げながら呟いた。300名から成る竜の討伐部隊が、交戦開始から数分で壊滅した。のみならず、山麓に複数ある集落全てが焼き払われ、森林、建築物、家畜、あるいは人間が灼熱に焼かれながら空にばら撒かれ、白い灰となって地上に降り注いでいる。まるで噴火直後のようだが、これは竜の吐く火焔と爆風によって引き起こされた現象だった。
魔竜セントラが降臨した。その報せを受けて、腕に覚えのある世界中の竜狩りたちが、ここセントラ山に集結した。世界に28体しかいないとされる神代種の一匹であり、魔竜と綽名される暴虐なる火竜は、竜狩りたちの想定以上の強さを示した。為す術もなく竜狩りたちは敗走し、その多くが死亡した。
魔竜セントラの危険性は重々承知の上で参上した精鋭たちだった。いずれも過去に重量級の竜を討伐したことのある各地の英雄。そんな彼らが一瞬で消し炭になった。
別にそのこと自体をとりわけ悲しむわけではない。同道者が竜に惨殺されることなど珍しくも何ともない。ただハイラムは、この一件がセントラの懸賞金を倍増させるであろうことを憂いていた。懸賞金が上がる前に奴を倒してしまうのは大損である。かと言ってこの機を逃せば世界中からライバルが続々と集まってくる。今、魔竜セントラの首に最も近い位置にいるのはハイラムだった。それは間違いない。その有利をみすみす投げ棄ててしまうのか。
答えは否だった。ハイラムは大量の汗を拭いながら準備を進めた。既に魔竜セントラの巣の位置は把握している。臨戦態勢が解かれ、巣に舞い戻ったときに奴の首を取る。ハイラムは喉の渇きを強く自覚しつつも灰の雨が降りやむのを待った。
「いやー、参った参った」
陽気な男の声が洞穴の出口から聞こえた。ハイラムはぎょっとした。髭面の偉丈夫がぼさぼさの頭を掻きながら、ハイラムが避難している洞穴の中に入ってくるところだった。
ハイラムは魔術師である。常に周辺の魔物や竜の気配を探っている。それなのにこの男の出現に全く不意を突かれたということが、なかなかの衝撃だった。
「何者だ」
「何者って、おまえと同じ、竜狩りだよ。名はアドルファス」
アドルファスと名乗った男は出口近くにどっかと座り込み、壁に凭れながら朗らかに笑った。
「いやあ、外は灰が凄いな。いつまで降り続けるのかね。しかも暑いし」
「夜には止むだろう」
「そうか。……しかしあんた、どこかで見た顔をしてるな。名前を教えてくれないか」
ハイラムはぶっきらぼうに名を名乗った。アドルファスはしばらく腕を組んで考え込んでいたが、やがて何かに思い当たったようで、物凄い勢いでハイラムのほうを見やった。
「ハイラムって、あのハイラムか? 大陸最強の魔術師と名高い、あの……」
「大陸最強かは知らんが、魔術師であることは確かだ」
アドルファスが息を呑み、にじり寄ってくる。ハイラムは逃げようとしたが洞穴の中は狭く、結局、彼の鼻息が届くくらいまで接近されてしまった。
「暑苦しい。離れてくれ」
「これは失敬。……しかし、俺は幸運だ。あんたのことだから、このまま引き下がるようなことはないんだろ? 命知らずのハイラムと言えば有名だ」
命知らず。そのような評判を獲得していたとは知らなかった。ハイラムは自分の過去の行いをじっくり思い起こそうとしたが、アドルファスの鼻息がどんどん荒くなっていくことに注意がいってしまった。
「おい、もうちょっと離れろ」
「あはは、すまない。つい熱が入ってしまって。単独であの魔竜セントラに挑む覚悟は出来ていたつもりだが、やはり少々硬くなっていたようだ。心強い仲間ができて浮かれているんだよ」
ハイラムは嘆息した。苦手なタイプだ。ときどきこういう図々しい人間がいる。共通の目的を持った時点で、無条件で手を取り合うものだ、人間とはそういう生き物だ、そういう甘っちょろい認識を持った三流の冒険者ども。
「私がいつ、お前の仲間になった」
「セントラを倒しに行かないのか? 一旦引き返すとか」
「いや。私はこのままセントラを倒しに行く」
「俺もだ。つまり、一緒に行くんだろ? 仲間は多いほうがいい」
それはアドルファスの考えであって、ハイラムは違った。足手纏いならいないほうがいい。しかしハイラムは、目の前の男がいつ洞穴に入ってきたのか察知できなかったことを思い出し、一瞬反駁が遅れた。
ここぞとばかりにアドルファスが身を乗り出してくる。
「俺は戦士だ。あんたは魔術師。良い感じに連携できそうな感じがするんだよ」
「初対面の人間といきなり共同戦線を張るというのは、なかなか勇気の要ることだ」
「安心しろよ、俺は強いぜ?」
アドルファスは自信家のようだった。しかしセントラが竜狩り一団に放った攻撃は、ハイラムほどの実力者でも一瞬死を覚悟するほど圧倒的なものだった。その攻撃を無傷で切り抜けたこのアドルファスという男の実力は、既に証明されているようなものだった。
だが気に食わない。多くの死地を切り抜けてきた竜狩りならばとうに捨て去っていて然るべき軽薄さが、この男にはある。
「……一緒には戦わない。だが、お前が勝手に魔竜セントラに挑んで散るのを、わざわざ私が止めることもない」
「ふふ、俺があんたに勝手について行く分には構わないってことだな?」
「好きなように解釈してくれ。私はお前の行動を制限するつもりはない。ただ、お前も私の行動を制限するような真似はよせ」
アドルファスは自身の膝をぽんと叩いた。満面の笑みである。
「承知した。ところで俺は魔竜セントラの巣の位置を既に把握している。良かったら情報を提供するが」
ハイラムは最初、断ろうと思ったが、自前の情報の正確性に些かの疑問があったので、照らし合わせることにした。結果、二人が持っていた情報はほぼ一致した。険しい山岳の隘路の半ば、人の足でも十分到達できる位置に、魔竜セントラの巣はある。
「夜になったら移動するんだろ? しばらくは待機だな」
アドルファスは楽しみで仕方がないといった様子で、外の灰の雨を眺め始めた。ハイラムは乾いた唇を舐めながら、時が経つのを待った。アドルファスがふと水筒を差し出す。
「飲むか? 毒は入ってないし、妙な味付けもしていない。普通の水だ」
ハイラムが警戒する前にわざわざそのように説明したアドルファスは、ニカリと笑った。ハイラムはそれを素直に受け取った。よく見ればアドルファスの荷物の大半が水の類のようだった。
「随分準備がいいんだな」
「そうでもない。これは拾い物だ」
「拾い物……?」
アドルファスの笑みが陰った。
「俺は弟子と一緒にセントラ討伐に挑んだんだ。準備が良かったのは弟子のほうさ。セントラの攻撃で、俺も弟子も吹き飛ばされちまってな。必死に探し回ったんだが、見つかったのは弟子が大量に抱えていた物資だったってわけだ」
いわば形見だな。とアドルファスがぼやいた。ハイラムは特に何の感慨も抱かなかった。戦場において死はむしろありふれたものであり、知り合いと一緒にそこに赴く者は、その悲しみと対峙する覚悟を定めなければならない。
「そうか」
ハイラムは水筒の中身を飲み干した。無感情に水筒を外に投げ棄てたハイラムを見て、アドルファスが苦笑していた。
*
灰の雨が降りやむ。緑豊かだったセントラ山はすっかり白い灰に埋没しており、その上に靴を下ろすと粘り気のある粒子がハイラムたちの足から腰にかけて纏わりついてきた。
鼻は既に焦げ臭い空気に慣れていたが、時折吹く肌の表面を焼くような熱風には辟易した。灰の中に熾火が潜んでいることがあり、靴底が溶けた。予備があったので問題はなかったが、なかなか魔竜の巣への道は険しいものだった。
同道するアドルファスの身のこなしは見事なものだった。身軽で、影のように気配が希薄、それでいて巨躯をしなやかに動かして大股に進むその姿は、戦士として申し分のないものに思えた。ハイラムは探知系の魔術を駆使し、魔竜セントラが間違いなく巣に戻っていることを確かめると、歩を早めた。
「もうすぐ巣だな」
アドルファスが言う。彼が身に着けている得物は戦斧であり、赤茶色の錆が表面に浮いている年季の入ったものだった。普通の武器ではなく、竜殺しに特化した滅竜装具であろう。
ハイラムは辺りを見回した。
「私は正面から行くつもりだが、お前はどうするつもりだ」
「巣の出入り口が一つしかないのなら、そうするしかないんじゃないか……。しかし、どうも妙だな」
「何がだ」
アドルファスは地図を取り出し、辺りの地形と見比べている。
「俺の地図によると、魔竜の巣はもう少し東にあるんだ」
「そうか。しかし私の情報通りの位置に巣の入口があるな……。お前の情報が些か不正確だったというわけだ」
「確かにその可能性はあるが、もしかすると魔竜の巣は複数あるのかもしれない。あるいは巣は一つしかないが、出入り口が複数あるのかも」
「何が言いたい」
アドルファスは筋骨隆々の躰を誇示するように胸を張り、それから自身を親指で指差した。
「俺は俺の情報を信じて行くことにする。同道するのはここまでだ、友よ」
いったいいつから友になったのか。それはさておき、一緒に行こうと誘ったのはアドルファスのほうであり、ハイラムは単独で挑むことになっても全く構わなかった。気紛れな男だと呆れつつ、淡々と頷いた。
「そうか。達者でな」
「おうよ」
アドルファスは暑苦しい笑みを浮かべ、大股で歩み去った。ハイラムは彼の姿が見えなくなるまでその背中を眺めていた。結局、強いのか弱いのか、よく分からないままだった。多少の興味はあったが、これから戦うことになる魔竜セントラのほうがよほど興味深い存在だった。きっとあの男の記憶も、数日したらほとんど消えてなくなるのだろう。
戦いにおいて絶対はない。ハイラムは自分が絶対に勝てると思って戦いに臨んだことは一度もない。どのような格下相手でも、どのような小物相手でも、自らの死の可能性というものを強く意識している。
臆病なのかもしれない。あるいはネガティブな方向に物事を考え過ぎているのかもしれない。だがハイラムはそうして今日まで生き延びてきた。
魔竜の巣は何の変哲もない横穴に見えた。あの中にあの巨大なセントラが潜んでいると言われても俄かには信じられない。
だが神話の時代からその名が見られ、長期間の潜伏と短期間の破壊を繰り返してきた魔竜のこと、広い場所より狭苦しい場所のほうが慣れているだろう。少々発見が容易過ぎる点には疑問が残るが。
ここまできたのだから行くしかない。ハイラムは巣の入口に近付いた。
巣の中は異様な熱気だった。よく見れば実際に岩盤が燃えたぎっている。この周辺の鉱物構成は知らないが、鉱物が固体から液体に変じる温度――とても人間の立ち入ることのできる環境ではない。
ただ、ハイラムにとってこの状況は想定内だった。問題なく通行できる。ハイラムはその気になれば溶岩の中を泳ぐこともできる。相当に重い魔術を駆使することになるので長続きはしないが、火竜の寝床というのは大抵このような状況になっているので、炎や熱気に躊躇しているようでは竜狩りは名乗れない。
ハイラムは巣の中に進んだ。内部は人間が通行するには十分な広さだったが、あの巨体のセントラにとってはぎりぎりの道幅と高さだろう。時折壁から溶けた鉱物が噴き出し、ハイラムの躰に降りかかったが、耐火の魔術を既に発動していたので問題ない。
巣は一本道だったが長大で、なかなかセントラの所まで辿り着かなかった。汗を拭いながら目を凝らす。内部は灼熱する岩盤のおかげで真闇とまではいかなかったが無論照明の類があるはずもなく視界が悪い。
魔術で気配を探り続けている。竜の気配は確かにこの奥にある。だがどうも距離感がつかめなかった。あまりにセントラの抱える魔力が厖大なので、ハイラムの用意していた魔術では正確な距離を測ることができなかった。
慎重に進んでいると、卒然、大音量が鳴り響いた。あまりに巨大な音で、それがどのような音なのか認識できないほどだった。耳鳴りが続き、ハイラムは頭を抱えるようにして辺りを見回した。遅れて、これが戦いの音であることを知る。
「やっとお目にかかれたな、セントラ! 弟子の仇を取らせてもらうぜ!」
アドルファスの声。ハイラムは地面を這うように進んだ。するとセントラのぬらぬらとした黒い翼と胴体が洞窟の中に押し込められているのが見えた。ハイラムからは見えないが、どうもこことは反対方向にアドルファスがいるらしい。
魔竜の巣は複数あったのだ――反対方向からアドルファスが魔竜セントラと邂逅、先に開戦したようだ。ハイラムは音を立てないよう立ち上がった。セントラの頭は反対方向を向いている、後背から最強魔術を叩き込む好機だった。
火焔の吐く竜には氷の魔術が効く。セントラほどの大竜とてそれは例外ではないはずだ。ハイラムが用意していた術式を発動すると、辺りの空気が凍るほど冷え込んだ。セントラが首を捻じ曲げその邪悪な面構えを見せる。シューシューと牙の間から息を漏らし、黒い牙の表面で火花が散った。
「どこを見ている、セントラ!」
アドルファスが叫び、セントラの首に斬りかかる。セントラは前肢を突きだしてそれを薙ぎ払った。アドルファスは岩盤に叩きつけられ、ひっくり返った。
一瞬の隙だった。しかしハイラムにとってはそれで十分だった。ハイラムの両腕から氷の柱が出現、それは無数の氷の矢へと変じ、竜に襲いかかった。
セントラは炎の息を吐きそれを吹き飛ばそうとしたが、矢と衝突した瞬間、吐いた炎が白い靄へと変わった。ハイラムの魔力がセントラの火力を凌駕している証拠だった。さしもの魔竜も驚いたようで、矢への防御行動が遅れた。
首、胸、足、全てに氷の矢が突き刺さり、魔竜は咆哮した。それまで余裕を感じられた振る舞いが粗暴で凶悪な獣の顔へと変わる。
「まだ生き残りがいたか、人間め」
セントラが人間の言葉で言う。ハイラムは肩を竦めた。
「おや、わざわざ人間の言葉を学習しているとは。物好きな竜もいたことだな」
「人間とは長い付き合いだからな……。様々な文化に理解があるぞ。言語だけではない、習俗や工業技術、政治や経済の知識もある」
ハイラムは次なる氷の魔術の準備をしながらせせら笑った。
「だからなんだ? 人間さまに理解があるから、どうか命だけは助けてくれとでも? 人間のことを勉強しているのなら分かるだろう、お前は人を殺し過ぎた。もはや竜狩りの対象から外れることはない」
「まさか。命乞いなどするはずもない。貴様の使っている魔術は殺生用に開発された水冷術の最高等級品だろう。火竜相手に水冷術は必須。特に貴様のような貧弱な魔術師にとっては」
ハイラムは嫌な予感を抱いた。どうもこの竜は不気味だ。人語を解する竜は実はそれほど珍しくないが、人間の使う魔術について詳しい竜というのは極めて珍しい。普通、竜は独自の体系を持った古代魔術を駆使するはずだ。
もし、ハイラムが大胆な男で、構わず次の攻撃に移るような性格をしていたなら、彼はこのとき絶命していたであろう。ハイラムが警戒して後ずさり、防衛魔術の準備を始めたところで、魔竜の眼が妖しく光った。次の瞬間、竜の全身に突き刺さった氷の矢が全て気化蒸発し熱風が襲いかかった。ハイラムは後方に跳躍した――そして気付く。先ほどまで自分が立っていた場所にぽっかりと穴が開いていることに。
「避けたか。すばしこい奴だ」
セントラがシューシューと息を吐きながら言う。その口の形状でどうやって人語を話しているのか甚だ疑問だがかなり流暢で聞き取り易い。詠唱もお手の物だろう。
「えげつない魔術を使うな。竜は炎の息を吐くか、役に立たない古代魔術を乱発するしか能がないと思っていた」
「どうした。声が震えているぞ。怯えているのか、人間?」
ハイラムは舌打ちした。今の魔術の威力からすると、まともにやって勝ち目は薄い。撤退しようにもここは狭い洞窟の中、逃げ切る前にやられる。
逃げるのが無理なら戦うしかない。勝ち目が薄くともやらなければならない、絶望的な状況だが、元々そういった状況が訪れることも覚悟してここまで乗り込んできた、後悔はない。むしろやるべきことが定まって、思考は非常にクリアだった。
「おい、魔竜セントラ。奢る者は必ず痛い目に遭うぞ。あまり私を見くびらないほうがいい」
「何を言い出すかと思えば」
「私の次の攻撃は完了している」
ハイラムは更に後退した。セントラが鎌首をもたげて迫り来ようとしたとき、その首に斧の尖端が突き刺さった。首の鱗が剥がれ落ち、夥しい白い血液が噴き出す。
セントラが身をよじらせて苦しんだ。筋肉を硬直させ、突き刺さった斧を弾き飛ばす。それを空中で掴んだのはアドルファスだった。全身に火傷を負い、顔面の半分が焼けただれていたが、何とも元気そうに、
「ハイラム! さすがだ、俺の動きに気付いていたとは!」
「お前の滅竜装具はなまくらか? 私の魔術でアシストしたのに仕留められないとは」
ハイラムの言葉にアドルファスはにやりと笑った。
「そう言うな。師匠の形見なんだ。それよりさっさと魔術の加護をくれ。二人の力を合わせればこの魔竜の防御を打ち崩すのも不可能ではないだろ」
確かにアドルファスの言う通りだった。単独ではセントラには敵わない。魔術の防護を覚えた魔竜を倒すには二人分の火力を叩き込むしかなかった。
ハイラムが次の攻撃に移ろうとしたとき、セントラが躰を激しく痙攣させながらこちらを睨みつけてきた。
「許さん……、許さんぞ、人間……。貴様の名を覚えたぞ。ハイラム。ハイラムというのだな……」
セントラの首の傷が塞がった。アドルファスが斧を肩で担ぎながら首を振る。
「なんつー奴だ。傷がもう治りやがった。おいハイラム、魔術を急いでくれ、このままだと……」
セントラが飛び上がった。狭い洞窟の中のこと、竜の全身が天井やら壁に激突し、魔竜が纏う炎が岩盤を溶解させながら岩を突き破った。大量の土砂と炎が洞窟内に降りかかり、ハイラムとアドルファスは慌てて退いた。
アドルファスの足に巨大な岩が降りかかり、彼は転んでしまった。ハイラムは咄嗟に彼を助けようと身を構えたが、理性がそれを押しとどめた。アドルファスが笑っていた。彼も相当の場数を踏んでいる。転倒したことが致命的なミスであることを瞬時に察したのだろう。
アドルファスに手を貸さず一人逃げようとしているハイラムを見て、それでいいと頷いた。そして彼はセントラの吐く炎をまともに浴びた。一瞬で消し炭となったが、彼が愛用していた斧だけは無傷でその場に残った。爆風で吹き飛ばされ岩盤に突き刺さる。
「どうやら手詰まりのようだな……」
ハイラムは呟いた。岩盤の崩壊によって退路が完全に塞がっていた。ハイラムはセントラの巨躯とまともに対峙した。魔竜の怒りに染まった双眸にはもはや余裕も遊びもない、殺戮の意思をひしひしと感じ、ハイラムは肩を落とした。
「魔竜セントラ……。なるほど、人類が手を出すにはまだ早すぎたようだな。一応、俺が扱える最強の魔術を叩き込んだが、ほとんどダメージがないらしい」
「ハイラムよ。貴様、死を覚悟しているのか?」
ハイラムは頷いた。
「仕方ない。死にたくはないが、竜狩りを志したときから、この日が来ることを覚悟していた。ひとおもいにやってくれ」
セントラは首を伸ばし、ハイラムの顔に鼻息をぶつけてきた。生臭さときな臭さが混じった不愉快な臭いがした。
「私が貴様をただ殺すとでも? 私の首に傷をつけた貴様を?」
「傷を付けたのはアドルファス――さっきお前が消し飛ばした男だろ」
「あの男の斧など大したことはない。私の首に傷をつけたのは貴様だ、ハイラム。殺すのは一瞬、苦しむのも一瞬。そんなことを私がすると思うか。私はこの首の傷と恥辱を一生抱えていかなければならないのだ」
「はあ? お前、私をどうするつもりだ」
セントラは翼を広げ、恐らくは人間で言う笑みに該当するであろう顔の動きを見せ、全身の魔力を高めた。
「一度でいいから使ってみたかったのだ。知識だけ手に入れ、その実践の日が来たるのを待ち望んでいた。私の力の証明となれ、ハイラム」
ハイラムは息をするのを忘れた。何となく、セントラがしようとしていることに気付いてしまったのだ。
「お前……。このっ!」
ハイラムは懐から短刀を取り出した。自分の胸に突き立てる。だが、一瞬だけ躊躇してしまった。何の躊躇いもなく自分を刺せるほど、ハイラムは達観していなかった。
それがいけなかった。セントラの吐いた息がハイラムを包む。炎の刻印が首筋に浮かび上がる。ハイラムは全身の力が抜け、その場にくずおれた。
「貴様に呪いをくれてやる。まずは自殺を禁ずる。次に今後一切の同胞狩り――竜狩りを禁ずる」
首に焼ける痛み。炎の刻印が、セントラの言葉に追従するようにハイラムの首に現れる。これは呪術だ。ハイラムの肉体や精神のみならず、魂に不壊の戒律を刻み込む、強力な呪い……。ハイラムはセントラを睨みつけた。
「……そして三つ目の呪いだ。貴様が愛する者に非業の死を与える。それも手にかけるのは貴様自身。なかなか面白い呪いだろう?」
ハイラムは愕然とした。呪いの内容にではなく、そんな複雑な呪いを成立させることができるセントラの能力に。
セントラはハイラムの表情を見て勘違いしたようだった。
「その表情だ、絶望の顔! それが見たかった。わざわざ私が生かすのだ、つまらんことで死ぬなよ? 闇にまみれた余生を過ごすが良い、ハイラム」
首の刻印が蠢いている。ハイラムは痛みでのたうち回った。痛みが治まり、周囲を見渡す余裕が出てきたときには既に、セントラの姿はどこにもなかった。