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プロローグ1 風の吹く庭



 たまに。


 ごくたまにだけれど、戦いの音が風に乗って孤児院の庭まで届くことがある。


 そんなとき、大抵の子供は怯えてしまって、普段は小馬鹿にしている孤児院の職員や守銭奴の院長に縋りついて、ぶるぶる震えてしまう。頑丈な外壁、優秀な都市防衛隊、何より僧院が発動する竜避けの秘術によって、都市内部にまで魔物や竜が入り込んでくることは絶対にないのに、彼らは恐怖に駆られてしまう。


 ミリアムは違った。


 15歳の孤児ミリアムは、戦いの音が聞こえてきても全く怖くなかった。むしろぼろぼろの遊具がひしめく庭に降り立ち、じっと戦いの音に耳を澄ませた。聞こえてくるのは、防衛隊に調伏される魔物や竜たちの怒号、悲鳴、嘆きの咆哮。ただしその中にも、恐怖心を取っ払い、集中すれば、別の音が混じっていることに気付く。


 術式を唱える声。


 頼もしきクレスタの防衛隊員たちが唱える、破竜の呪文。


 風に乗って、それは庭に佇む少女の耳を愉しませる。戦いの音が途絶えると、孤児院の中で唯一読み書きができたミリアムは、記憶を頼りに聞こえてきた呪文をノートに書く。ところどころ聞こえない箇所があるので、その呪文は虫食いだけれど、頻繁に使われる呪文はほぼ完全な形で書き写すことができていた。


 漏れ聞いた呪文に、どんな効果があるのかは知らない。竜を殺す為のものなのだから、きっと危険な効果を発揮するのだろう。それくらいは少女にも分かったから、実際にこの呪文を口に出すことはなかった。仮に詠唱したとしても、術式の媒体を用意していないので、上手く発現しなかっただろう。


 意地の悪い孤児たちに、書き溜めたノートを隠されたことがある。ビリビリに破られ、燃やされたことも。けれど、暇があればノートを読み返して呪文の完全な形を妄想しているミリアムは、いとも容易くこれまでの成果を新しいノートに再現することができた。むしろ、無駄な記述や、誤謬の混じった呪文を省いて書き直すので、より洗練され、見やすいノートを作ることができた。


 多くの孤児は、月々に与えられる僅かな小遣いを、お菓子や玩具に費やす。

 対してミリアムは、筆記具とノートと、余裕があれば語学や数学の教科書を買った。そして立てた膝を机にして、一日に数時間、勉学に励んだ。


「どんなに勉強したって、お金がなければ学校にも入れない」


「学校も出てない奴を雇ってくれる企業は、労働者に知性なんか求めてない」


「だから勉強なんて無駄。お前のやっていることは無駄」


 大体、孤児たちはこんな内容のことを言ってミリアムを馬鹿にする。けれど少女は、別に将来の為に勉強しているわけではない。


 単純に、ときどき聞こえてくる竜狩りの呪文の意味を、理解したいだけ。

 実際に呪文を使ったり、竜と戦ってみたい、なんて願望は持ち合わせていない。


 街の住民の為に死闘を繰り広げている「カッコイイ」彼らの言葉を、理解したい。そう思うことがそんなにおかしいだろうか。


 けれど、もしかすると、少女にも少しは打算や目論見があったのかもしれない。




 ミリアムの里親に申し出て来てくれた女性が、少女を学校に行かせるつもりだと話してくれたとき、これまで経験したことのない高揚感が湧き上がってくるのを感じた。

 ミリアムは一五歳。孤児院の中では二番目に年長であった。あと一年、里親が現れなければ、職業訓練センターでの研修を経た後、社会に送り込まれる予定であった。

 だから、この高揚はそうなることを避けられたことへの悦びだったのかもしれない。


 しかし、フィリスを名乗ったその里親から、どの学校に行きたいか尋ねられたとき、


「魔術学院」


 そう即答できたのは、やはり彼女の中に漠然とした目標があったからだろう。


 フィリスという名の若い女性は、柔和な表情の中にも鋭く尖った眼差しを持つ隙のない人だった。彼女は優しく穏やかな声で問う。


「魔術学院の、どこの科に行きたいとかはあるの?」


「どこでも。魔術科でも、竜狩科でも、呪薬科でも……」


 ミリアムの言葉に、同席していた孤児院長は笑ったものだ。


「あなた、幾ら何でも魔術学院に入学するのは難しいでしょう。まっとうな普通教育を受けた生徒でも、目指すのはほんの一握りなのに」


「ですが、彼女、読み書きできるんですよね?」


 フィリスは孤児院長に訊ねる。ミリアムに向けられたものとは違って、やや口調がつっけんどんだった。


「ええ。それどころか、初等教育レベルなら理解しているんじゃないでしょうか。自分で教科書を買ってきて、勉強してましたからね。もちろん、ムラはあるでしょうけど」


「得意科目は、なにかな。ミリアムさん」


 フィリスはミリアムに向き直った。ミリアムは少し緊張した。


「語学と数学」


「語学って、何を?」


「統一ラケム語と、古代活用」


「……なるほど。思ってたよりも優秀ですね」


 孤児院長はそれが世辞だと思ったらしく、笑った。なにせ、優秀もなにも、その分野を自主的に学んでいるというだけであって、どれほどの理解度なのかは一切確認していないのだから。

 けれど、ミリアムの目から見て、フィリスは本心からそう言っているように感じた。そう感じたかっただけのことかもしれない、それでも、少なくとも世辞を言ってこの場の空気を和ませようとしているだけのようには思えなかった。


 だって、フィリスの瞳は、いつだってミリアムを正面から捉えようとしていたから。


 そんな彼女に世辞は似合わなかった。


「ほら、ミリアムさん、あれを見せてあげなさいよ」


 孤児院長の言っている「あれ」にはすぐに思い当たった。きっとこれまで何年間も書き溜めてきた例のノートのことを言っているのだろう。けれど分からないフリをした。他人に見せるようなものではなかったから。


「あれ、とは」


 フィリスが興味を持ってしまった。しかもミリアムはノートを常に肌身離さず持っていた。それを孤児院長は知っている。白を切り続けるのは難しかった。


「これです」


 ミリアムが比較的新しいノートを差し出したとき、フィリスはそれほど期待に満ちた顔をしているわけではなかった。けれど、その中身を見たとき、目の色が変わった。


「呪殺詠唱、聖戦士の行進曲、闇の魔道、殺傷水冷術――おまけにこれは禁術?」


 フィリスはノートをすぐに閉じて、ミリアムを凝視した。物怖じしないことで知られていた少女も、さすがに目を伏せた。


「……魔術の教科書もたくさん買っていたんですか? 相当に高価なはずですが」


「いえいえ、ウチの子たちにはそれほど小遣いは与えてませんので」


「では、誰かから譲り受けたとか? この記述は――」


「恐らく、漏れ聞いたのではないかと」


 孤児院長が代わりに説明してくれる。普段は鬱陶しい人だと思っていたけれど、このときばかりは感謝した。


「漏れ聞いた?」


 フィリスは孤児院長と話しているのに、ミリアムから目を離さない。まるで少女が今にも爆発しそうな危険物か何かのようだと言いたげだった。


「はい。ここは外壁からも近いので、戦いの音が聞こえてくるんですよ。この子ったら、五つにも満たない歳から、聞こえてきた呪文を必死にノートに書き写してるんです。他の子は怯えたり、孤児院の奥に引っ込んだりしてたのに、この子だけは庭に降りて、じっと風が吹くのを待っているんですよね」


「風を――」


「風が吹くと、呪文を詠唱する声が聞こえてくるときがあるので。魔物の悲鳴は、窓を閉め切っていても聞こえてくるんですけどね」


 院長は朗らかに言う。フィリスの表情は硬かった。ミリアムは一瞬だけ目を合わせようとしたが、その眼差しをぶつけられた瞬間、心の内を見透かされたかのような心地に陥り、俯いてしまった。


「やはり、竜狩りの呪文を書き写すような子供は、引き取りたくありませんかね。器量良しで大人しいこの子にこれまで引き取り手が見つからなかったのは、こんなことをしていたからなんですよ」


「そうだったんですか。……いえ、ますます気に入りました」


 フィリスがにっこりと笑んだのが、視界の端に見えた。はっとして顔を上げると、穏やかな表情に戻っていた。


「私も、学院出身ですからね。ここに書かれている呪文が、ほぼ完璧な綴りであることは分かります。厳密には、本来の詠唱集には発音記号が必須なんですが、記号の付け方を習わなければ書き写すことは不可能ですから、まあ、仕方ありません」


「はあ、そうなんですか」


 孤児院長が返事をするが、少し困惑しているのが分かった。ミリアムのちょっと変わった部分を聞いてこんな反応をする人が初めてだったからだろう。




 こうして、ミリアムは一五歳にしてフィリスの養子となった。フィリスの職は傭兵とのことだった。自分もこれから学校に通えるんだろうか。まさかいきなり学院を受験して入れるとは思っていないが、普通教育を受けるにしても、きっとこの聡明そうな女性から色々と教えて貰えるんだろう、そう思うとわくわくして仕方がなかった。


「ミリアムさん、私たちの家に案内する前に、ちょっと寄りたいところがあるのだけれど」


「どこですか?」


 フィリスは穏やかな笑みを浮かべた。


「人形店。そう時間は取らせないから」


 人形? ミリアムはわけが分からなかった。自分へのプレゼントだろうか。それともフィリス自身が人形を欲しているのだろうか。


 しかしそんなことより、ミリアムは学校に通わせてくれるというフィリスの言葉があまりに嬉しくて、そちらのほうに話題を移したかった。


「あの、フィリスさん。私、やっぱりどうせ魔術学院に行くのなら、魔術科を目指したいんです。勉強、教えていただけますか」


「勉強?」


 フィリスは一瞬、虚を突かれた顔になった。そしてすぐに頷いた。


「もちろんよ。ええ、きっとあなたなら合格できるわ」


 ミリアムは油断するとついにこにこしてしまった。それほど喜びに満ちていた。孤児院で皆から馬鹿にされながらも必死に勉強を続けてきた、その努力がとうとう報われるときがきたのだ。

 しかし、フィリスが一瞬見せた戸惑いが、どうも気になった。ミリアムはフィリスが運転する車に乗り込み、その人形店とやらに向かった。道中、フィリスはハンドルを握りながら険しい顔をしていた。


 運転に集中しているのだ。ミリアムはそう自分を納得させようとしたが、ふと見ると彼女の表情が何かと戦っているように見えて、胸騒ぎがした。この胸の高鳴りは新天地への期待の表れだと解釈して、自分を誤魔化すしかなかった。


 





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