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来ない晴天を信じて、遠征は出発した

作者: 歩人
掲載日:2026/08/28

 砦の屋上に出るたびに、フィリア・クロスウェルは空の広さに驚く。


 王都では、建物が空を切り取っていた。八方に石畳が伸び、尖塔が視界の端を刻んでいた。北辺境のクレイン砦にはそれがない。丘の上に石で積まれたこの砦から見れば、水平線まで遮るものがない。夜になれば、空は地の果てまで星で埋まる。


 フィリアは観測盤を膝に乗せ、羽根ペンを走らせた。今夜の風向き、雲の動き、月の輪郭に滲む光の量——それを整然とした記号と数字に変えていく。九年かけて作り上げた記法だ。新しい観測帳はまだ五十ページにも満たないが、数字を書く指先は迷わない。


 冬の風が吹いてきた。北山から降りてくる冷気は乾いていて、薄い雲を押しやっていた。


「南から湿気が来ている」


 声がして、フィリアは顔を上げた。


 砦の屋上の端に、テオバルト・グレインが腕を組んで立っていた。守備隊長。日に焼けた顔に深い皺が刻まれた、三十七歳の武人だ。彼はいつもここに来る。星を読もうとしているのではなく、ただ夜気に馴れているような顔をして、縁に立つ。


「わかるんですか」とフィリアは聞いた。


「山が十年以上教えてくれた」


 フィリアは観測盤に目を戻した。南の星が薄く霞んでいる。湿気の流入と、星の光量の微減が一致していた。明後日には雨が来る。数字でそれを確認しながら、ペンを走らせた。


 体感と数字が重なるとき、必ず胸の奥に小さな確信が生まれる。


 フィリアは観測帳の欄外に「隊長の体感と一致」と書き添えた。ペンを置いて空を仰ぐと、南西の雲がゆっくりと厚みを増していた。明後日の雨の前兆だ。今夜の観測はこれで終わりにしていい。


 砦に、王家の伝令が到着したのはそのときだ。


 蹄の音が石畳に響き、門番が声を上げた。テオバルトが屋上の縁から身を乗り出した。


「……王家の紋章だ」


 フィリアは手を止めた。羽根ペンが、観測帳の余白に小さな染みを作った。




 三ヶ月前のことを思い出すとき、フィリアはいつも観測帳の重さから始める。


 革表紙の小型本が、九冊。一ページ百六十行。九年分、一夜も欠かさなかった。


 フィリアが初めて夜空に望遠鏡を向けたのは十七歳の秋だった。庭師の息子が「星が動いて見える」と言い張るので、それを否定するために自分で確かめようとしたのだ。確かめてみたら、星は動いていた——正確には、地面が動いていた。その夜から九年間、フィリアは夜を記録し続けた。


 最初は趣味だった。


 変わったのは三年目の冬だ。父の知人の口から「遠征前に天候を読める者を探している」という話が届いた。フィリアは観測帳を持参した。三年分の夜空の記録が、北方の冬嵐の周期を正確に示していた。


 軍師は最初、帳面を一瞥して「令嬢の日記か」と言った。


 フィリアは答えなかった。代わりに、十二月の第三週から第四週にかけての観測記録を開いた。気圧の推測値、雲量の推移、北星の光量の変動。「この数値が揃ったとき、翌朝に北からの強風が来ます。今年はすでに三条件が揃っています」


 軍師はその夜、出発日程を三日後ろにずらした。


 三日後、記録的な強風が北から吹いた。


 第一次遠征は成功した。議事録には「軍師の適切な判断」とだけ書かれていた。フィリアの名前はなかった。


 第二次遠征でも、フィリアは廊下から資料を手渡した。霧の深い夜を避けて進軍するための、視界予測の記録だった。それもまた「参考にした」とだけ伝えられ、成功した。


 九年間で二回。二回とも、観測帳が役に立った。二回とも、「参考資料」として扱われた。


 そうしているうちに、フィリアは北方の嵐の周期を掴んでいた。


 九年嵐(ここのとあらし)と、フィリアは心の中で呼んでいた。北辺境の山岳を通過する大型の周期嵐で、九年に一度、特定の気圧パターンと風向きが重なるとき来る。周期には一年ほどの揺れがあり、前回は八年前の冬だった。つまり今年か来年、もう一度来る。


 第三次遠征の計画が持ち上がったのは、一年前のことだった。フィリアは観測帳の余白に書き込んだ。「来冬は九年嵐の年にあたる。遠征の日程に注意を要する」と。


 それを王都の軍事会議に届ける前に、婚約破棄の夜が来た。




 晩餐の席は、四十人ほどの貴族で埋まっていた。


 燭台の光が揺れる中、エドガー王太子が立ち上がった。「本日をもって、フィリア・クロスウェルとの婚約を解消する」。理由は、クロスウェル侯爵家より家格の高い公爵令嬢との政略的な縁談だった。出席者の視線がフィリアに集まった。


 フィリアは静かに頷いた。


 侮辱が来たのは、そのあとだった。


「お前の星読みなど、占い師の余興と同じだ。本当の軍略は、優秀な武人が行う。お前の帳面などに頼っていたわけではない」


 隣に立っていた侍従長のロッホが、テーブルの端に積まれていた観測帳を拾い上げた。二十七歩、暖炉に向かって歩き、何の躊躇もなく投げ込んだ。


 炎が上がった。


 一夜も欠かさなかった九年分の記録が、一瞬で燃え始めた。


 革の端が黒く縮れ、頁が扇形に開いた。三年目の冬、空が初めて周期を教えてくれた夜の記録。五年目の秋、騎馬隊の進軍ルートを決めた霧の予測値。八年前の大型嵐の前夜に書いた「明日、北から来る」という言葉。それらが炎の中で白く剥がれ、灰になった。


 暖炉の熱が頬に届いた。目が乾いた。確かなものは、それきりだった。


 フィリアは立ったまま動かなかった。叫びたいとも、泣きたいとも思わなかった。ただ、燃える革表紙に浮かんだ一瞬の白い光だけを、目に焼きつけた。


 なぜこれほど落ち着いていられるのか、自分でもわからなかった。九年分が燃えているのに、指の一本も震えない。これが自分の強さなのか、それとも別の何かなのか、判断がつかなかった。


「感謝はしている。だがこれからは不要だ」


 エドガーはそれだけ言って、席に戻ろうとした。


「九年嵐が来るまでは、そのご判断も正しいかと存じます」


 フィリアは声を上げなかった。ただ静かに言った。その言葉は、どこか遠くから来るような温度だった。


 エドガーが眉を動かした。「何を言っている」


「なんでもございません。失礼いたします」


 頭を下げて、フィリアは晩餐の席を出た。


 部屋に戻り、机の引き出しを開けた。予備の観測帳が一冊あった。何も書かれていない、白紙の百六十ページ。フィリアはそれを荷物に入れた。


 記憶は持っていける。九年分の数字は、全て頭の中にあった。




 クレイン砦に着いたのは、それから十日後のことだ。


 父の旧友が守る北辺境の砦。詳しい事情は訊かなくていいとだけ言われ、フィリアは一室を与えられた。暖炉があり、小さな窓がある。夜になれば、窓から北の星が見えた。


 翌夜から、フィリアは屋上に上った。


 観測盤と羽根ペンと、白紙の観測帳。記録を取るのは九年続けた習慣で、考えなくても手が動く。記号を書き、数字を並べ、昨夜との比較を欄外に書き足す。砦の屋上は広く、風が強かった。王都の庭とは全く違うが、空そのものは同じだ。


「屋上に何をしに行く」


 声がしたのは三日目の夜だった。


 振り返ると、外套を着た男が階段の手前に立っていた。テオバルト・グレイン、守備隊長。父の旧友から「砦を取り仕切っている男だ」と紹介を受けたきり、顔を見ていなかった。


「観測です」とフィリアは答えた。


「星か」


「ええ」


「俺もたまに来る」


 会話はそこで終わった。翌夜から、テオバルトも屋上にいた。


 彼は余計なことを言わない。フィリアが観測すれば観測していることを認め、記録を取れば取っていることを見ている。邪魔をしないが、無視もしない。ただそこにいる。その存在が、不思議なほど心地よかった。


 ある夜、テオバルトが「三日後に雨が来る」と言った。


 フィリアは観測帳を開いた。南の星の霞具合、雲量の推移、昨夜の気温。計算すると、二日後から三日後にかけて降水の可能性が高い。


「私も同じ予測を出しています」


 テオバルトが少し顔を向けた。「何で調べる」


「星の光量と雲量の変化を数字で記録して、過去のデータと照らし合わせます。どうやって調べるんですか」


「足の裏の湿気、風の匂い、雲の動き方。言葉にならんが、だいたいわかる」


 フィリアはペンを持ち直した。「観測帳に書けますか」


「書けん」


「書き方を覚えますか」


 少し間があった。


「覚えてどうする」と彼は聞いた。


「私が書いているのは、隊長が体で覚えていることと同じことです。どちらか一方では不完全なんです。体感と数字が揃って初めて、精度が上がる」


 テオバルトはしばらく空を見上げていた。やがて「教えてくれるか」と言った。




 翌朝から、テオバルトは砦の書記官に頼んで観測記号の一覧を書き写させてきた。フィリアが体系化した記号を、彼は一つひとつ指で確かめた。「これが南風か」「この記号が雲量か」。問うたびにフィリアが説明し、テオバルトが繰り返した。


 三日後の夜、初めて彼が自分で記号を書いた。「南西、五。曇、三」。拙いが、読み取れる形だった。フィリアはそれを観測帳の余白に書き写した。今夜の記録に、テオバルトの字が混じっている。それが妙に温かい気がした。


 それから毎夜、二人で屋上に上った。


 テオバルトが風の向きを言葉にし、フィリアがそれを記号に変えた。フィリアが星の位置を数字で示すと、テオバルトがそれを体感と照らし合わせた。一致するとき、二人は目を見合わせた。


 一月後の夜、フィリアは九年嵐のことを話した。


「北辺境の山を通過する大型の嵐で、九年に一度来ます。今年の秋から冬にかけてが、その年にあたります」


「聞いたことがある」とテオバルトが言った。「年寄りの話で、俺が来る前に一度あったと聞いた」


「八年前の冬です。私の観測帳には、その年の予兆が記録されています」


「……帳面は燃やされたと聞いたが」


 フィリアは観測帳を指で叩いた。「頭の中は燃えません」


 テオバルトが顔を向けた。月明かりの下で、その目が少し細まった。


「九年分の記憶が、まだ頭にあるのか」


「全部あります。数字を書き続けていると、記号が勝手に並ぶようになります。これが何年の何月の何番目の観測で、そのとき空がどうだったか」


 テオバルトは少しの間、黙っていた。


「……お前の九年は、どこにも失われていないな」


 フィリアはペンを止めた。そんなことを言われたのは、初めてだった。王都では「面白い趣味だ」と言われるか、「占い師みたいなことをしているのか」と笑われるかのどちらかだった。


「そうかもしれません」


「立派なことだ」


 それだけ言って、テオバルトは空に目を戻した。フィリアも観測帳に目を戻した。北の夜風が、二人の間を通り抜けていった。


 その夜から、フィリアは少しだけ眠りが深くなった。九年間、観測帳を閉じるたびに「誰も読まない」という感覚があった。それがここには、ない。記録が誰かの体感と照らし合わせられている。そのことで、夜の空気が少し違う色になる気がした。




 翌週から、フィリアは本格的に九年分の記憶を紙に起こし始めた。


 九年嵐の前兆は四つある。秋の南星の霞、初霜の時期、北山の動物の早期移動、海流由来の湿気の増加。これが三条件以上揃った年の冬は、大型嵐が来る確率が高い。フィリアはそれを観測帳の冒頭に表にして書き出した。


 今年はすでに二条件が揃っていた。南星の霞は先月から始まっている。初霜が平年より十日早かった。あと一条件が揃えば、冬の嵐は確実だ。


 テオバルトは報告を聞いて、翌日から砦の補強工事を命じた。


 排水路を掘り直し、屋根の角材を太いものに替え、北側の石壁に詰め物をした。それを見ていた部下の一人が「隊長、根拠は」と聞いた。テオバルトは「ある」とだけ答えた。


 フィリアはその工事を屋上から見下ろしながら、胸の奥に温かいものを感じた。根拠として使われる。証拠として機能する。「余興」と呼ばれたものが、ここでは堅固な基礎になっている。


 観測帳が新しいページを必要とし始めたとき、テオバルトが無言で白紙の紙束を持ってきた。自分で製本した形跡があった。フィリアは「ありがとうございます」と言った。テオバルトは「使え」とだけ言って屋上を降りていった。


 フィリアはその紙束を手に持ったまま、しばらく動けなかった。粗削りだが丁寧に重ねられた紙。目盛りのための折り目が、等間隔に入っていた。観測帳の使い方を、誰かが理解して準備してくれた。その事実を、指先が折り目をなぞりながら確かめていた。


 冬に入って、三条件目が揃った。北山の鹿が、例年より三週間早く低地に下りてきた。


 フィリアはその日の観測帳に「九年嵐、この冬の到来はほぼ確実」と書き込んだ。


 テオバルトに見せると、彼は「そうか」と言って、砦の食料備蓄の量を二倍に増やす命令を出した。




 王家の第三次北方遠征は、冬の初めに出発した。遠征は春から秋にかけて行うのが定めだが、今回は北方の部族が越冬前に南下する兆しがあるとして、定例を外した出兵だった。


 砦にその知らせが届いたのは、商人の口からだった。今回は王立天文台の占星術師が気象予測を担当した。「十二月は星の位置から晴天が続く」というのが、その占星術師の見立てだった。


 フィリアはその話を聞きながら、観測帳を開いた。十二月の欄。「九年嵐の初頭。強風と暴雪が交互に来る。山越えの部隊は撤退を優先すべき」。


 テオバルトが傍らで言った。「王都に伝えるか」


「……伝える手段がありません」


 フィリアは観測帳を閉じた。伝令を頼める相手もない。王家に書状を送っても、差出人が婚約破棄された元令嬢では、読まれないか捨てられるかのどちらかだ。


 どうすればいいのか、わからなかった。数字は揃っている。日付も出ている。それでも渡す先がない。フィリアは観測帳を膝の上で開いては閉じ、しばらくそうしていた。


「そうか」とテオバルトは言った。それ以上、何も言わなかった。




 蹄の音が石畳に響き、門番が声を上げた。テオバルトが屋上の縁から身を乗り出して「王家の紋章だ」と言った、あの夜。伝令が門をくぐったのは、遠征が出発してから三週間後のことだった。


 テオバルトが砦の執務室に報告書を広げ、フィリアはその横に立った。


 王家第三次北方遠征。出陣日:十二月四日。進軍五日目、十二月九日——北方の山脈付近で記録的な暴雪と強風に遭遇。騎馬隊の三分の二が凍傷を負う。輜重しちょう隊が峠で動けなくなる。後退を余儀なくされる。死傷者、四十七名。


 フィリアは進軍の日付と暴雪の日付を見た。


「……九年嵐の初日と一致しています」


 声が出てしまった。テオバルトが顔を上げた。


「わかっていたのか」


「はい。今年の冬に来ると、観測帳に書きました。昨年の秋の時点で。王家に届ける方法が、ありませんでした」


 テオバルトは報告書を閉じ、机に置いた。「今の軍の天気役は誰だ」


「王立天文台の占星術師だと聞きました」


「占星術師」


 テオバルトが一言、吐き出すように言った。それ以上は言わなかった。


 フィリアはその夜、観測帳に書き込んだ。「九年嵐、確認。進軍五日目に到達」。


 数字の行が、淡々と続いていた。




 三週間後、巡回商人が砦に寄った。荷を下ろす前に、男は王都の話を始めた。


 王城で調査委員会が開かれているという。暴風雪の予測を誰が行い、なぜ失敗したのか。占星術師が召喚された。「星の配置から晴天を確信していた」と証言したという。委員が問い返した。「九年周期の北方嵐については」。占星術師は「聞いたことがない」と答えたという。


 続いてロッホ侍従長が呼ばれた。前任の観測者について聞かれた。ロッホは「令嬢の趣味に過ぎなかった」と証言した。委員が「その記録はどこにあるか」と問い返した。


 ロッホは沈黙した。


「暖炉に投げ込んだのは、侍従長御自身でしょうか」


 ロッホの顔色が変わった。答えなかった。四十人の貴族の前で、侍従長は何も言わなかった。


 答えないこと自体が、答えだった。


 その沈黙は長く続いたという。委員が別の質問を試みたが、ロッホは椅子に座ったまま、ただ壁を見ていた。退室を命じられて初めて立ち上がった。その背中を、四十人の視線が追った。


 商人が話し終えても、フィリアはしばらく手を動かせなかった。九冊が焼ける音を、耳が勝手に思い出していた。革が縮れて、頁が扇形に開く音。あの夜、耳に入ったのはその音だけだったのに、今になって鮮明になる。


 息を吐いて、ようやく観測盤を持ち直した。




 翌週、同じ商人が引き返してきた。委員会がエドガー王太子を召喚したという。


 王太子は最初、強気だった。「クロスウェル令嬢の観測は補助的なものに過ぎない」と断言したという。委員が確認した。「では、二回の成功した遠征に観測帳は影響していなかったと」。


「していない」


「第一次遠征の前夜、令嬢が『翌朝に北から強風が来る』と報告したことは」


「……記憶にない」


「記録にはあります。その報告を受けて、出陣日程が三日後ろにずれました。その変更記録が残っています」


 エドガーは口を閉じた。


「第二次遠征でも、観測帳の数字が進軍ルートに影響した記録があります。それを受けて、令嬢の観測は補助的だったとお考えですか」


 長い沈黙ののち、エドガーが口を開いた。「……記録の扱いは、ロッホに任せていた」


 それは全ての責任をロッホに押しつける発言だった。委員会の誰もがそれを聞いた。傍聴していた貴族たちも聞いた。


 その言葉が広まるまでに、三日もかからなかったという。「王太子は側近に全てを任せ、自分は知らなかった」という印象が、王城の廊下を静かに流れた。軍事判断を司る立場の者が「記録の扱いを任せていた」と言い切ったことの意味を、誰もが理解した。




 さらに二週間後、今度は郵便馬車が知らせを置いていった。


 エドガーが新たに婚約した公爵令嬢が、婚約を解消したという。令嬢の実家が出した声明には「王太子殿下の軍事判断力と、側近の誠実さに疑念を抱いた」とあった。


 王太子の二度目の婚約破棄は、今度は令嬢側からのものだった。


 砦の食堂で、部下の兵士たちがその噂をしていた。フィリアは厨房の入り口から、それを何気なく聞いた。


 フィリアは厨房の入り口に立ったまま動かなかった。手にした観測盤の縁を、指が何度もなぞっていた。


 九年間で一度も、「余興」だと思ったことはなかった。


 浮かんできたのはその一行きりで、あとは何も出てこなかった。出てこないことが、少しだけ寂しかった。




 春が来た。


 砦の北側の丘に、野草の花が白く咲いた。観測帳が新しい冊に入った。フィリアは毎夜、テオバルトと屋上に上った。九年嵐の後の星は穏やかで、今年の北方は落ち着いた夏になりそうだった。


 観測の精度が上がっていた。


 テオバルトが「今夜は霜が来ない」と言えば、フィリアの数字もそれを裏づけた。フィリアが「明日の朝は霧が出る」と書けば、テオバルトが「それは足の裏でわかっていた」と言った。一致するたびに、二人は短く言葉を交わした。


 王都から書状が届いたのは、花が盛りを過ぎたころだった。


 国王の紋章だった。フィリアは封を切った。「王立観測所の創設にあたり、クロスウェル令嬢の協力を仰ぎたい。観測技術の提供と後継者の育成。正式な国家業務として、相応の地位と報酬を用意する」


 フィリアは書状を折り畳んだ。テオバルトが隣で見ていた。


「戻るか」と彼が聞いた。


「いいえ」


「なぜ」


「辺境の砦にも、星は同じように出ます」


 テオバルトはしばらく黙っていた。


「……俺は、星を覚えたい」


 フィリアは観測帳を持ち直した。「隊長は体で覚えていますが」


「お前の方法で覚えたい。数字として、記号として。残せる形で」


 フィリアはペンを握り直した。「時間がかかりますよ」


「どのくらいかかる」


「九年か、もしかするともっと」


 テオバルトが小さく笑った。フィリアは初めて、彼が笑う顔を見た。


「ちょうどいい」


 夜空に星が出た。フィリアは観測盤を構え、羽根ペンを走らせた。テオバルトが隣で風の向きを読んだ。南から湿気。三日後に雨。数字と体感が一致した。


 二人は目を見合わせた。


 春の北の夜は、まだ少し寒かった。それでも、屋上の空気は温かかった。


 求婚は翌朝だった。


 屋上に上がると、テオバルトが風向きを見ていた。フィリアが隣に立つと、彼は空を見たまま言った。


「観測所の話だが」


「はい」


「断ったのは、俺のせいか」


 フィリアは少し考えた。「いいえ」


「そうか」


 それきり、二人とも黙っていた。東の空が白んでいく。丘の野草が、風で一斉に同じ方向へ倒れた。


「なら、一つ聞かせてくれ」テオバルトが振り返った。「ここに、俺の妻として残る気はあるか」


 フィリアは答えられなかった。九年間、問いにはいつも数字で答えてきた。これには数字がない。


「返事は」


「……少し、時間をいただけますか」


「いくらでも」


 その日、フィリアはいつも通りに働いた。薪を運び、観測盤の目盛りを直し、昼過ぎに丘まで薬草を採りに行った。手は動いていたが、同じ問いが頭の中を回り続けた。数字にならないものを、どう確かめればいいのか。


 夕方、丘の上で足が止まった。


 九年間、記録は誰にも読まれなかった。読まれなくても書いた。それが自分だと思っていた。ここでは違う。書けば、隣で誰かが「それは足の裏でわかっていた」と言う。数字が体感と合う。合ったことを、二人で確かめる。


 それを続けたいかと聞かれているのだと、ようやくわかった。


 砦に戻ると、日が落ちていた。テオバルトは屋上にいた。


「残ります」


 テオバルトは空を見たまま頷いた。それから、フィリアの方を見た。


 それだけだった。それで足りていた。


 その夜から、観測帳の欄外にテオバルトの字が増えた。拙いが確かな記号が、フィリアの数字の隣に並んでいる。体感と数字、二つの声で書かれた記録は、どちらか一方より正確だ。それをフィリアは知っていた。この砦にいる限り、九年分の記憶は増え続ける。それで十分だった。



歩人です。最後まで読んでいただきありがとうございました。


 今作のテーマは「記録の不燃性」です。物理的な帳面は焼けても、九年をかけて積み上げた観測者の頭の中は、燃やせない。それを書きたかったのが、この物語を作るきっかけでした。


 恋愛軸については、フィリアとテオバルトの関係を「体感と数字が揃って初めて精度が上がる」という構造で設計しました。言葉より先に、お互いの観測が一致することで距離が縮まる——そういうじっくりした恋愛を意識しています。「お前の九年はどこにも失われていない」という台詞が、私にとっての核心でした。


 失われた場所に帰るのではなく、認めてくれた場所で咲き直す。そんな令嬢を書きたかった一作です。


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婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。


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