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酒の獣と罵られた悪役令嬢「味噌汁」に目覚めて劇的に整う。〜クズ王子に『酒でも飲んでろ』と言われたので、断酒してやりました。〜

作者: ななめ尚央
掲載日:2026/07/12



 その日、王宮の夜会は、伝説になった。


「貴様のようなつまらん女は、一生、魔導酒でも飲んで腐っていろ!」

 王子は、隣に侍らせた聖女の腰を抱き、鼻で笑う。その横で、聖女は勝ち誇った笑みを浮かべ彼女を見下していた。


 伝説となったのは、公爵令嬢アニエス・リンドバーグ。浮気三昧の婚約者エドワード王子から、大勢の前でこう罵倒されたのが、破滅への始まりだった。


 この夜。王子から浴びせられた大勢の前での罵倒が、彼女への最後の一撃となった。


 聖女の腰を抱くエドワードを横目に、アニエスは片っ端から魔道酒が注がれたグラスを空け、怒りを飲み干していた。飲み過ぎたアニエスの中で、大切な何かがプツリと音を立てて千切れた。


「上等よぉぉ!!一生分、飲んでやりますわ!!」


 アニエスは、会場の隅に置かれた特大の魔導酒樽をひったくると、樽に浮遊の魔法をかけ、中庭へ猛ダッシュした。そして、天使の彫像が鎮座する噴水に、深紅の液体をドボドボとぶちまけ、高らかに笑った。


「みなさま。魔導酒の泉が、できましたわ。さあ天使様、あなたにも分けてあげますわ。アハハッ……!」


「まあ、なんてこと」

「酒のけだものですわ」


 集まってきた貴族たちの冷ややかな目線。だが、泥酔した彼女には届かなかった。アニエスは、真っ赤に染まった噴水にドレスのまま飛び込み、あろうことか天使像と肩を組んでいる。


「くそ王子なんか、聖女様にプレゼントしてあげますわ。天使様も賛成してくださいますわよね?あっ、天使様!そんなに赤くなって、お身体が心配です」


 魔導酒に染まった天使像に話しかけているアニエスは、もはや、人々にとっては恐怖の対象でしかない。集まってきた貴族たちは、次々と見ないふりをし、解散していく。そして、騒ぎを聞きつけたエドワード王子が、聖女を連れて現れた。


「何をしている!!聖女の泉になんてことを。その女を捕らえろ!」

 王子の号令、殺到する近衛騎士。対するアニエスは、一番乗りの騎士を掴むと叫んだ。


「まあ、いい体してますわね。熟成肉にしてあげますわぁぁぁぁぁぁ」


 ――ドゴォォォォン!!アニエスは、酩酊した状態で、得意の筋力強化魔法を唱えた。その瞬間、鮮やかなジャーマンスープレックスが炸裂し、騎士が沈んだ。


 そして、最後は噴水の水を「最高級魔導酒」だと思い込んで飲みながら、彼女は白目を剥いて沈没した。薄れゆく意識のなか、アニエスの脳裏にある光景が浮かぶ。


(赤ちょうちん。床に転がるアルコール9%の空き缶。泣き叫ぶ妹の顔。)


『お姉ちゃん、死んじゃうよ。二度と、お酒飲まないって約束して!』


(あ。そうでしたわ。私、前世でもこうやって、お酒に逃げて、死んだのでしたわ)


 かつてのアニエスは、公爵家の至宝と呼ばれた娘だった。お酒に手を出す前は、誰もが振り返る容姿端麗な才女であった。魔法学においても、国を背負って立つと期待されるほど優秀だったのだ。


 そんな彼女の素質を、王が見抜いたのが不幸の始まりだった。半ば強引に、女癖の悪さで有名な第二王子エドワードの婚約者に据えられた。聖女と遊び歩く婚約者の裏で、アニエスは一人、王家の公務と責任を背負わされた。


 王子は失敗する度に聖女と共に、全てをアニエスのせいにした。


 ――冷え切った関係。報われない努力。

 精神に支障をきたしたアニエスは、大好きな魔法学に手をつける事もできなくなった。


 いつしか彼女の孤独を埋めたのは、魔法の書物ではなく、エドワードに差し出された魔導酒アルコールだった。だが、酒量が増えるにつれ、理性は蒸発していき、悪役令嬢の道を歩んでいた。


 そして、泥酔と、極度の疲労が繰り返される日々を送り、ついに『酒のけだもの令嬢』と噂されるようになってしまった。




******



「……ううっ、死ぬ。ここは、どこなんですの?地獄の入り口か、何か?」


 翌朝、アニエスを襲ったのは、意識の浮上を呪いたくなるほどの苦痛だった。


 冷たく湿った石畳。重い鉄格子。そして、頭を直接タワシでこすられているような、暴力的な二日酔い。だが、肉体の痛み以上に彼女を追い詰めたのは、猛烈な酒鬱さけうつだった。


(死にたい。今すぐ原子レベルに分解されて消え去りたい気分)


 断片的な記憶がフラッシュバックする。天使像にまたがり、ドレスの裾をまくり上げて、誰かに技をキメ、倒れた自分。そして、その絶望のどん底で、前世の記憶が完全に繋がった。


(私、前世でも、お酒で人生を棒に振ったのでしたわ。今世でもまた、あんなクズに煽られて同じ過ちを……!)


 アニエスは、前世でも夫に浮気をされ、酒に溺れていた。前世の彼女は、自分一人で生活を立て直す自信を持てず、傷つけられても夫との関係を手放せなかった。


 唯一、妹だけが彼女のことを必死で止めてくれていた。だが、前世のアニエスは、そんな妹も最後に裏切ってしまったのである。


(私は何も変わってませんわ。前世でも、今世でも……本当にダメなのは、王子でなく私の方かもしれません)


 喉は焼け付くように乾き、胃袋は裏返って痙攣している。ガタガタと震えるアニエスの鉄格子の前に、メイドのニーナが、必死の形相で現れた。


「お嬢様、大丈夫ですか?」

 鉄格子の中での主人の姿に、ニーナは震えた手で、白湯と謎の瓶を差し出した。


「これを、お召し上がりください。屋敷からこっそり持ってきました。東方の商人が、最高の滋養だと言っていた。その、見た目は腐ったような、泥のような物なんですが……」


「ニーナ、この二日酔いでドロドロの主人に腐ったモノを与える気なの?」


 このメイドは正気か?と思いながら、ガタガタと震える手で、アニエスはニーナに差し出された物を受け取った。そして、蓋を開けた瞬間――懐かしい発酵の香りが牢獄に漂った。


「え?この匂い……?覚えがありますわ」

 アニエスは、差し出された「泥」を白湯に溶かし、一口すすった。

 五臓六腑に染み渡る旨味と塩気。死にかけていた細胞が、猛スピードで潤いを取り戻していく。


「っ!!味噌汁ですわぁぁぁぁぁぁぁ!!!」


(あああ……生き返る。もう、同じような過ちを繰り返している場合ではありません……)


「これですわ。酒で汚れた私の人生を救えるのは、これしかありませんのよ」

 涙を流しながら、味噌汁をすするアニエスの瞳からは、酔っ払いの色は消えていた。


(こんな素敵なものを忘れていたなんて⋯⋯)


「ニーナ、私お酒をやめますわ。もう絶対に飲みませんことよ。とにかく、二度とお酒を飲まないって決めましたの!!」

 上を向き、目を輝かせながら、アニエスは熱く語った。


「お嬢様、そのセリフ。通算で三百五十七回目ですよ」


 いつも断酒宣言に振り回されていたニーナは、何も信じていない様子で、ため息をついた。しかし、元気の出たアニエスの様子に安堵したニーナは、笑顔をみせた。


 ニーナの笑顔を見てアニエスは、妹を思い出した。


(妹に似てますわね。ニーナありがとう)


 両親や婚約者、全てに見放され牢獄に入っている私を心配してくれるのは、彼女だけだった。アニエスは、強く決心した。


「必ず、世に味噌汁を広めてみせますわ」


(ニーナのためにも、今後こそ!お酒をやめて自立してみせる。そして、今まで迷惑をかけた分、誰かの役にたってみせますわ)


「ニーナ、その味噌を毎日持ってきなさい。今の私は、魔導酒の毒素でパンパンに浮腫んでいますわ。これを全部、魔法学で改良した味噌の力で押し流します」

 きらきらと輝いた目で、アニエスは、ニーナを見つめた。


「……、お嬢様……確かにお顔がパンパンですね」



 主人の突然の奇行は、今に始まった事ではなかったが、今度は何か勢いが違う。


 彼女に、どんなに振り回されても忠実な侍女ニーナは、静かにうなづいた。




******



 それからのアニエスは、牢獄の看守たちが、二度見するほどストイックだった。三食欠かさず味噌汁を飲み、牢獄の質素でバランスの良い食事をし、暇さえあれば重い鉄格子や床を磨き上げた。


「カビ臭いのは嫌よ。でも、この湿度は『菌』を育てるには最適ね」


 不気味な笑みを浮かべながら掃除する彼女に、看守たちは怯えつつも、お裾分けされた「茶色い汁」で、なぜか全員が快便・快眠・健康体になっていった。


 長年、酒場で浴びるように飲んでいた看守長などは、わずか三日で内臓の重苦しさが消え、数年ぶりに「朝、頭が痛くないという奇跡的な目覚め」を味わったという。


「ア、アニエス様。この『みそしる』という聖水は、一体?」

「ただのスープですわ。ただし、このスープは人を差別したりしませんの。全ての人に愛される癒しの飲み物ですわ」


 驚くべき変化は、投獄から一週間後に訪れた。


 アニエスは、メイドのニーナに極秘で材料を調達させ、前世の記憶と魔法学を組み合わせて「大豆と塩と魔法」を研究した。それは、この国には存在しない、茶色いペースト、すなわち味噌であった。


 アニエスの魔力は、日に日に強くなっていった。


 前世の知識と味噌の酵素が、今世のアニエスが持つ潜在的な魔力と共鳴し始めたのだ。これまで劇薬のような魔導酒でドロドロに詰まっていた魔力回路が、アニエス特製の味噌汁によって洗浄されていく。体内に溜まったアルコール性魔力の汚れが、汗と共に一滴残らず排出される。


 看守たちは、日に日に魔力が増していくアニエスを見て、憧れと恐怖心が混じり合った複雑な感情を抱くようになった。


「アニエス様、日に日に魔力が強くなっていきますね。私は、噴水の前で沈められたことがありますから、何だか恐ろしいです」

「そうだな。本気で筋力強化魔法を使われれば、気絶ですまないかもしれないな」

「しかし、みそしるを提供してくださるアニエス様は天使のようだ」



 初めは、看守たちも賄賂で黙ってアニエスを見守っていたが、徐々に彼女の熱心さに心動かされていた。




******



 そして、二週間後。


 酒に溺れて醜くやつれた元婚約者を嘲笑いに来た、エドワード王子は絶句した。


 暗い牢獄の鉄格子の向こう。そこにいたのは、薄汚れたドレスを身につけているが、廃人どころか、驚異的な透明感の肌を持つ絶世の美女だった。


 魔力回路が整いすぎた結果、彼女の肌は周囲の光を反射し、物理的に発光しているかのようだった。暗い牢内が、彼女一人の存在で聖堂のように明るい。


「あら、殿下。ごきげんよう」


 アニエスは優雅に立ち上がった。その動作一つ一つに、かつての酒のけだもの令嬢の面影はない。


「な、な、なんだ、その姿は?貴様、魔導酒を隠し持っていたのか。その異常な魔力の高まり、さては禁忌の術を?」


「魔導酒?いえ、今は結構ですわ。最近は、これですのよ。ふふ、整いますわ」


 アニエスは、右手で湯気の立つ木杯を傾け、中の液体を一口飲んだ。そして、恍惚の表情でため息をついた。その瞬間、彼女の左手から黄金色のオーラが噴き出し、牢獄の壁にこびりついたカビや汚れが一瞬で消滅した。あまりの神々しさに、付き添いの騎士たちが思わず膝をつく。


「ま、待て! なんだそれは、その魅惑的なものは」


 アニエスが持つ木杯からは、暴力的なまでに食欲をそそる香ばしい湯気が、王子の鼻を直撃した。熟成された大豆の濃厚なコクと、出汁の芳醇な香りが混じり合い、魔導酒で荒れ果てた王子の胃袋をダイレクトに揺さぶる。


「ここから出すから、それをよこせ、アニエス」 

「お断りしますわ、殿下。私、ここの湿度と環境が気に入っておりますの。それに」

 アニエスは、窓から差し込む一筋の光を浴びながら、冷徹な瞳で元婚約者を見据えた。


「――あなたとは、世界が違って見えますのよ」


 エドワードの顔が、怒りと困惑で真っ赤に染まる。だが、今の彼にはわからなかった。アニエスが手に入れたのは、単なる美しさではない。


 王国の常識を覆す『みそしるの魔力』という、最強の武器なのだということを。




******




 三週間後。

 絆が芽生えた看守たちと別れを告げ、王宮から追放同然で出獄したアニエスは、そのまま辺境の別邸へと送られた。


 実家からは、勘当状態であり二度と辺境の地から出てくるなと忠告された。唯一、ニーナがついてくることだけが許可されていた。


 世間はそれを謹慎と呼び、エドワード王子は「廃人になるまでの執行猶予」と嘲笑い、多量の魔導酒を屋敷へ送りつけた。ニーナは、アニエスがいつ魔導酒を飲み始めるのではないかと冷や冷やしたが、アニエスの断酒への気持ちは揺るがなかった。


「これは、最高級魔導酒なので処分するのは、もったいないですわ。村の酒場に引っ越しのご挨拶として、持参いたしましょう」

「なかなか、いいんじゃないですか。お嬢様」


 アニエスにとってこの一年は、人生で最も贅沢な熟成期間だった。


(――ふふ、いい具合に発酵が進んでいますわ。私の魔力も、この味噌も)


 豊かな土壌で大豆を育て、清らかな水で仕込み、ただひたすらに自分の魔力回路を味噌の旋律に合わせて調律する日々。そして、素晴らしい朝の目覚めにアニエスは、心の底から幸せを感じていた。


 朝の優しい光が、アニエスの私室を満たしていた。


「おはようございます。お嬢様」

「おはよう、ニーナ。昨日は、いろいろな具材を試せて楽しかったわね。今朝は頭の中で、暴れる殿下と聖女さまのコントが始まらないから静かだわ」


「お嬢様、だいたいの人間は通常そんな感じですよ」


 朝起きてからの頭痛も、どうしようもなく底に沈んだ感覚も今はない。毎日、地に足をつけて、畑を耕し、みそ汁の具材を研究し、魔力を高める。


 そんな穏やかな日々の中で、アニエスは少しずつ、自分の人生を取り戻し始めていた。


「さあ、今日も村へ行って店を開くわよ」


 アニエスとニーナは村の朝市へ向かった。アニエスたちは、試験的に『アニエスのおみそしる屋』という店を開いていた。これは、前世のキッチンカーを応用して、アニエスが思いついた事業であった。


 アニエスが、朝市のスペースに開店準備を始めると、すでに長蛇の列ができていた。


「アニエス様、いつもの『しじみのみそしる』をください」

「あら、あなた。また、お酒を飲み過ぎてしまったのね。お気持ちは、わかりますわ。騎士様もブラック労働ですものね」

「ブラック労働……?」


 先頭には、アニエスが過去に鮮やかなジャーマンスープレックスをお見舞いした騎士が並んでいた。牢獄で看守も担当していたこの男は、すっかりアニエスの「みそしる」の虜になっていた。王宮勤めをやめ、自ら辺境の地へ志願したほどだ。


「今日は投げないでくださいね?」

「安心なさい。筋力強化魔法ではなく、お味噌を強化しておりますわ」

「……その言い方も何だか怖いです」


「まあ、例え飲み過ぎていようとも。朝きちんと起きて仕事前に、みそしるを買いに来るだけ、素晴らしいですわ。私には、できませんでしたもの。今日も、がんばってくださいね」

 アニエスは、笑って『しじみのみそしる』を手渡した。騎士は、「は、はい」と少し視線を外して、足早に立ち去って行った。


「お嬢様。過度なお声がけは、酷です」

「なぜですか?事実なのですから、少しでも労わないと。朝から来てくださっているのですから」


 『アニエスのみそしる屋』には、前世の記憶を参考に作成した『しじみ』『なめこ』『豆腐』など、この世界には馴染みのないメニューが並んでいる。具材の中身は、近しいもので再現され、アニエスが研究を重ねていた癒しの魔力が少しだけ込められている。


「みそしる聖女様、ワシに豆腐のみそしるを」

「あら、村長さん。お加減は、いかがですか?」

「みそしる聖女様の珍妙な名前のスープを飲むと、どんどん活力が湧いてくるのじゃ。毎日、これを楽しみにして生きております」


 この村の村長ですら、アニエスのみそしる屋の常連だ。アニエスは、いつの間にか村では「みそしる聖女さま」と、通り名で呼ばれるようになっていた。アニエスは、この名前が嫌いではなかったが「聖女はやめてほしいですわ」と内心困惑していた。


「お嬢様、今日も大盛況でしたね」

「ええ、正直こんなに人が来て下さるとは」


 社交界では見放されたアニエスだったが、この辺境の地では温かく迎えられている。


 アニエスには、大きな自信となった一年であった。




******



 そして一年後。


 王宮で開催された夜会は、エドワード王子が、アニエスとの婚約を正式に破棄し、隣に居座る聖女との結婚を発表するという噂で持ちきりだった。


「どうせ。今頃あの女は、酒に溺れて見る影もなくなっているだろう」

「王子様、大量の魔導酒をお贈りになりましたものね」

「ああ、あのアニエスが、魔導酒に手をつけないわけがない」


 べったりと聖女にくっつかれたエドワード王子が、グラスを片手に勝ち誇った笑みを浮かべた、その時だった。


 会場の重厚な扉が、音もなく開かれた。瞬間、会場の空気が凍りついた。現れたのは、かつての「酒のけだもの令嬢」の面影など微塵もない、凛としたオーラを放つアニエスだった。


 彼女が絨毯を一歩踏みしめるたび、その魔力回路から心地よい、どこか懐かしい「癒しの波動」が波紋のように広がっていく。


「!? なんだ、この感覚は、体が、軽い!?」

「ひどかった四十肩が……消えたわ」

「足の細菌が一瞬で浄化されたように爽やかだ!」


 彼女の通過と共に、会場中の貴族たちの肩こりや、慢性的な頭痛が一斉に消失していく。これこそ、極限まで磨き上げられたアニエスの健康魔力の影響だった。


「あれは、アニエス嬢か」

「信じられない」

「神々しい⋯⋯」


 貴族たちは、アニエスのあまりにもの変貌ぶりに驚きを隠せなかった。


「殿下、一年ぶりのご挨拶に伺いました。」

「あ、アニエス……!? その姿、どうなっている! その肌の輝き、その瞳の澄み渡り方は……!」


 動揺してグラスを落としそうになるエドワードに、アニエスは優雅に会釈し、銀のトレイに載った一杯の黄金色のスープを差し出した。


「殿下のお言葉通り魔導酒をやめたら、こんなに健康になりましたの。代わりに、この一年は、これを頂いておりましたわ。私の魔力回路を極限まで研磨し、大地の恵みを凝縮した――特製、黄金味噌汁ですわ」


「み、みそしる……だと? それは、牢獄で作っていた禍々しきものではないか!」

「あらやだ。禍々しいものだなんて、お味噌に失礼ですわ」


「アニエス様、殿下から離れて下さい」


 エドワードの隣で、置物のように存在を忘れられかけていた聖女が、焦ったように弱々しい回復魔法を放った。自分の存在を誇示するための、どこか上っ面だけがキラキラとした見栄えだけの光。アニエスは、それを見て優雅に微笑んだ。


 そして、スープを一滴、会場の隅でしおれていた花に落とした瞬間、すべてが塗り替えられた。花は一瞬で鮮やかな生命力を取り戻し、あろうことか茎を太く太らせ、大豆の良い香りを放ちながら、見たこともないほど力強く咲き誇ったのだ。


「そういえば、聖女様の魔法は、維持でしたわね。ですが、私の味噌は、修復と再生の力ですの」


 アニエスは、青ざめる王子の一歩前へ出た。エドワード王子の顔色は、昨夜の深酒のせいか土気色で、瞳は濁っている。


「殿下、二日酔いで気分がすぐれないでしょう?一口、差し上げましょうか? 今の殿下には、あおり酒をするよりも、この一杯の方が価値があるはずですわ」


「ぐっ……、おのれ……!」


 差し出された味噌汁からは、抗いがたい――魂を揺さぶるような慈悲深い香りが立ち上っている。かつてアニエスを酒臭いと罵った王子自身が、今や誰よりも強く彼女の持つ健康と味噌の香りに、本能レベルで屈服しようとしていた。だがしかし、王子は意地を張った。


「そんなもの、必要ない」

「あら、いりませんの? それでは、この国で本当に『整いたい』と願う方々のために、私はこの力を振るうことにいたしますわ」


 アニエスは完璧なカーテシーを見せると、未練など一欠片もない足取りで、光り輝きながら会場を後にした。


「おのれ、アニエスぅぅぅぅぅ」


 

 残されたのは、強烈な味噌の香りと、二度と手に入らない至高の健康を逃したことに気づき始めた、哀れな男の絶叫だけだった。




******



 結局、エドワード王子はその場で、長年の極度の不摂生がたたり倒れた。


 王に頭を下げられ、仕方なしに介抱しようとしたアニエスが、実験として口に流し込んだのは、自身の魔力回路を逆流させた『超・激辛デトックス魔導味噌汁』だった。


 ――その効果は、まさに劇薬。


 王子は三日三晩、王宮のトイレから一歩も出ることができず、文字通り身も心も、すべてを出し尽くし、スッキリしすぎて魂が抜け殻のようになってしまった。


「もう、何もいらぬ。酒も、王位も、欲望も。俺はただ、お腹に優しいものが食べたい」

 

 すっかり悟りを開き、枯れ木のようになった王子は、自ら廃嫡を申し出たという。聖女は、権威を失った王子から速攻離れたそうだ。


 一方、婚約破棄から解き放たれたアニエスは、数々の貴族からの縁談を、お味噌汁を理由に断り続けた。


「今の私には、殿方よりも大切なものがありますの。それは、この国の人々の健康ですわ」


 彼女は、『アニエスのみそしる屋』で溜め込んだ資産を元手に、『発酵の女神ディア・ミソ』を設立した。


 アニエスが監修した「魔力を込めた即席味噌汁」は、一杯飲むだけで二日酔いが消え、視界がクリアになると評判になり、冒険者から過労気味の官僚までが列をなした。


 さらに、塗るだけで物理的に肌が光る「魔導麹パック」は、王都の貴婦人たちの必須アイテムとなり、アニエスは瞬く間に大陸一の富豪へと登り詰めた。


「お嬢様」

「何かしら?」


「三百五十七日を余裕で越えることができましたね」


「みそ汁を作りはじめてからかしら?」

「――いいえ、魔導酒を召し上がらなくなってからです」


 ニーナは、少し涙ぐみながら心底ほっとしたような表情を見せた。


 アニエスは、もうそんなに月日がたっていたのかと驚いたあと、そんなニーナの様子を見て満面の笑みを浮かべた。


「ニーナが諦めずに付いてきてくれたおかげですわ」




******



 数年後の、ある朝。


 王都以上に栄えた辺境都市。その中心に建つ屋敷の最上階テラスで、アニエスは特注のマイお椀を手にしていた。具材は、前世で一番好きだった豆腐とわかめ。奇抜な具ではない。シンプルを極めた、究極の一杯だ。


「お嬢様、お忙しいところ失礼します。隣国の皇太子様から、九十九度目の求婚届が届いておりますが」

 秘書兼右腕となったニーナが、苦笑いしながら書類を差し出す。アニエスは書類に目もくれず、静かに答えた。


「お出汁から、やり直してきて、と伝えてちょうだい。ニーナ。誠実さの足りない愛の言葉なんて、私の胃が受け付けませんわ」

「かしこまりました。……皇太子様、また伝説の素材集めに旅立たれますね」


「そうですわね。前回、幻の海洋魔蛸クラーケン・コンブの捕獲に向かったと家臣の方から、クレームを頂戴いたしましたわ」


 アニエスはお椀を口に運び、上品に飲みほした。――五臓六腑に染み渡る、慈悲深い旨み。かつて酒に逃げ、泥酔の霧の中で自分を見失っていた頃には決して味わえなかった、静寂と満足感に包まれていた。


「あぁ……整いますわ」


 かつて王宮の噴水に魔導酒をぶち込み、酒のけだものと呼ばれた悪役令嬢は、世界中の人々の疲れと後悔を黄金色のスープで洗い流し続けている。


「ニーナ、明日の朝も、美味しいお味噌汁を飲みましょうね」

「はい!お嬢様」


 アニエスは、机に山積みになった味噌汁の発注依頼書と感謝の手紙を確認しながら呟いた。


「⋯⋯みなさま。魔導酒は、ほどほどにしてくださいませ。明日の朝、美味しいお味噌汁が飲みたいのであれば」


 そう言って悪戯っぽく笑うアニエスの肌は、朝日を浴びて、誰よりも何よりも、美しく輝いていた。




(おわり)


この作品は昔別名義で公開していたもの(現在は削除済み)に加筆修正を加えた作品です。もし、過去に見たことがある方に出会えたら奇跡的なご縁だなと思います。ありがとうございます。


書いている途中で『これ、味噌汁をどこまで擦れるか選手権になってるな』と自分でも思いました。でも最後まで味噌汁一本で走り切りました。


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現在、全く違うテイストの恋愛のお話も書いています。お時間ある方は、そちらも、どうぞよろしくお願い致します。

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