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瑠璃の光は忘れられた神の籠に

作者: 凪砂 いる
掲載日:2026/06/24

 カーン……カーン……と鐘の音が潮風に乗って響いてくる。

 それが今日はたまらなく虚しく聞こえる。

 どこか、この世界が灰色のとても虚しいもののように思えたのだ。

 

 所々に水たまりが、雨上がりの哀しいほどに蒼い空を映し出して、僕の心臓はぐっと縮みこんだ。

 掌には、髪から落ちた雫が落ち、それを握りしめる。

 そして、目の前にある森の木がさわっと揺れ、なんだか『呼ばれている』気がして、森に入っていった。


 鬱蒼と茂る森の中の道をひたすら歩くと、忘れられた社があり、そこだけ一筋の線が照らしていた。

 まるで導かれるように社へ近づく僕の前に、すうっと風が抜け——目の前に男が現れた。


 銀色のテグス——いや、糸のような髪がなびき、肌の色は陶器のように白い。そして、その男は振り返り、僕を見た。

 瑠璃色の透き通ったような眼差しに、僕は思わず見入ってしまい、しばらくぼうっとしていると、男が口を開く。


 「珍しい……()()()()

 「外の者……?」


 男は微笑み、静かに僕の方へ近づいてくる。

 近くで見るほどに、この世界のものとは思えない。

 ただ、僕の鼓動が、男が近づくごとに高鳴り、吸い込まれるような……。

 視線を、彼から逸らすことができずにいた。


 「名は、何という?」


 一瞬躊躇い、僕は名をその男に告げる。


 「茅野 朔(かやの さく)


 男は、ふっと笑い——僕の頬に手を触れる。不思議とそれはじわりと暖かかった。


 「朔、か……」

 「あ、あなたは……?」


 僕は、男のその笑顔に全身が跳ねるようになり、おそるおそる尋ねる。


 「私は、紫鶴(しづる)——朔、そなたを待っていた」


 意味がわからない。紫鶴と名乗るこの男が待っていた? 僕を? 何のために?

 社の扉が開く。風がひゅうと吹き、「こちらへ」と紫鶴が言う。


 紫鶴は、ここで何をしていたのだろう。そして『外の者』とは?


 彼は僕の方を向き、手を差し出して微笑む。


 「そう怖がらなくてもよい。——悪いようにはせぬ」


 僕は、躊躇(ためら)いつつ頷き、紫鶴の手を取った。

 風がさらに強くびゅうっと吹き抜ける。


 そして、導かれるままに社の中へ入ると、そこは、日本でありながらどこか別の世界へきたようだった。

 教科書で習った歴史のどの時代ともまた違う。しかし、懐かしい空気を纏う場所。

 これが社の中なのか、それにしては広い。


 白砂の広大な庭に面して、壁のない、朱塗りや素木の美しい丸柱の回廊がどこまでも続いている。

 しかし、ふと天井を見上げると、そこには城を思わせる金箔の格天井が広がり、どこか別の時代の部屋のようだった。


 「外の者がここにくることはほぼない。しかし、朔、私はそなたをずっと待っていた」

 「……どうして、僕を? そして、ここは——?」

 「私の屋敷だ。そして、朔——今日から、そなたはここで暮らす」

 「……へ? ちょっ……話がよくわからないんだけど?」

 「——時が来た時、森は開かれる」


 紫鶴の話はよくわからない。

 そして、紫鶴は僕に顔を近づけ、低い声で呟く。

 

 「私はそなたを待っていた。あの日から——」

 「待って? 僕まだ十八」

 「そなたの光 と、時が満ちるのを待っていた、と言うべきだろうか」


 色々突っ込みたいが、紫鶴の瑠璃色の目は僕を捉えて離さない。まるで獲物を捉えた獣のようだ。

 そして、僕を急にきつく抱きしめてくる。

 紫鶴の香りに包まれ、僕は頭がぼうっとし、視界が揺らぐ。それが妙に心地よかった。


 「待って、帰る。僕には——!」


 紫鶴が囁くように僕へ声を落とす。

 

 「帰る場所は、ここだ、朔。——森が開かれたのだから」


 紫鶴は、低く甘い声で僕に話を続ける。


 「(やしろ)で名を告げた者は、客人ではなくなる——そして、三度名を呼ばれたら、縁が結ばれる。やっと手に入れた、朔」


 なぜだろう、紫鶴の声を聞くたびに僕は、戻れなくなる。戻ることを忘れるというほうが正しいか。


 そこで、僕はようやく気づいた。

 さっきから、紫鶴は何度も僕の名を呼んでいる。

 もう、とっくに三度を越えている。


 「なら、ここでどうやって暮らせばいいのさ?」

 「心配はない。不自由はさせない。この部屋にただ、いればよい。庭は自由に出歩いてもよいぞ」

 「何なの、その深窓のお姫様みたいな」


 僕はくすりと笑う。紫鶴は呟く。


 「十八年前、海のほうで瑠璃色に輝く光が見えた。その光をずっと見ていた……それが、そなただった。いずれこの屋敷に迎えられる日を、私はずっと待っていた」

 「え、僕は生まれたときからずっと紫鶴に見られてたってこと!?」

 「森が開いた——すなわち、時が満ちた。朔、そなたを屋敷に迎え入れる時が来たということだ。私の、相手として」


 僕は、意味がわからず口を開けたまま固まる。しかし、身体が、熱い。


 「——深窓の姫ではない。私の客でもない」

 「じゃあ、僕は、何?」

 「私のものだ、朔」


 気がつけば僕は、美しい瑠璃色と、浅葱色の衣を着せられ、それを見て紫鶴が妖しく微笑む。


 「朔を迎え入れるその時のために用意した衣だ」

 「本当に、深窓の姫というか、なんというか……」

 「私の嫁だ、と言えばいいか?」


 その時、紫鶴の姿がすぅっと変わる。

 白い外套は、白藍の衣に変わり、どこか高貴な雰囲気さえ漂わせていた。まるで、龍のような荘厳ささえある。


 「紫鶴? ——一体、何者なんだ?」

 「あの社に祀られし、海と森を司る者——既に私を知るものなど外の者にはいない」


 紫鶴は少しだけ遠く、哀しい目をしている。


 「神様……ってやつ? ……でも忘れられていたなんて、紫鶴が、かわいそうだ」

 「しかし、忘れられた者だからこそ、朔を迎え入れることができた」

 

 紫鶴が、ゆっくりと僕に口づける。

 嫌な感じはしない。ただ、紫鶴が選んだなら、求めてくれるなら、傍にいよう。そう思った。

 身体が、少しずつ熱を持っていくのを感じ、僕はだんだん意識が朦朧としていく。

 ただ薄れゆく視界に、紫鶴の熱を帯びた視線だけが僕を射抜いていた。


 気がつくと、部屋は整えられ、ただ僕の横に紫鶴が座っていた。

 

 「目は覚めたか? 朔?」

 

 僕は頷く。ふと見上げると、紫鶴の瞳の奥が揺れている。


 「——紫鶴」

 「……何だ」

 「そばにいるから、僕から離れないで」


 そう言った僕を見て、紫鶴が少し微笑む。


 「僕だけは、絶対に紫鶴を忘れない。僕が紫鶴のものなら、紫鶴も——僕のものだ。(やしろ)の中のこの屋敷で、君と生きる」


 ふっと抱き寄せられ、口づけが落とされる。

 それは、僕たちだけの契りのような——紫鶴は何度も、印をつけるように口づけた。


 あちらの世界に戻りたいとは、もう思わなかった。

 ただ、この屋敷で紫鶴と生きることが、僕の幸せだ。


 紫鶴は、この屋敷で僕から離れようとはしない。

 いや、僕が離さないようにしている。彼を十八年も待たせたのだったら——。


 「待っていてくれて——僕は、紫鶴のところに来られた。だから……離さない」

 「離すものか。十八年も待って、やっと捕まえた瑠璃色の光なんだ」

 「僕が光なら、紫鶴は……何?」


 くすりと僕が笑うと、紫鶴が静かに声を落とす。


 「籠……光を閉じ込めて離さない」

 「いいね、それ。……閉じ込めておけるのなら」


 僕は、紫鶴の頬に触れ、呟く。


 「逆に、僕が籠だったりして。紫鶴は神様のようなものだから、光。神を囚える籠」


 僕は、紫鶴の瑠璃色の瞳を絡め取るように見つめ、口角を上げる。


 「だってさ、十八年も僕は紫鶴を囚えていたとも言えるよね? 森が開かれる日まで——異界に嫁入りする男なんて、聞いたことないけどね」

 「朔——!」


 いつの間にか、紫鶴に囚われていたらしい、いや、囚われたのはどちらだろうか。

 僕にどろりとした感情が浮かぶ。


 忘れられた神を僕だけが目に焼き付けて囚えればいい。他に紫鶴を思い出させるなんて、したくない。


 ただ、屋敷の外の庭に生ぬるい風がふたりを絡め取るように肌を撫で、吹いていた。

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