瑠璃の光は忘れられた神の籠に
カーン……カーン……と鐘の音が潮風に乗って響いてくる。
それが今日はたまらなく虚しく聞こえる。
どこか、この世界が灰色のとても虚しいもののように思えたのだ。
所々に水たまりが、雨上がりの哀しいほどに蒼い空を映し出して、僕の心臓はぐっと縮みこんだ。
掌には、髪から落ちた雫が落ち、それを握りしめる。
そして、目の前にある森の木がさわっと揺れ、なんだか『呼ばれている』気がして、森に入っていった。
鬱蒼と茂る森の中の道をひたすら歩くと、忘れられた社があり、そこだけ一筋の線が照らしていた。
まるで導かれるように社へ近づく僕の前に、すうっと風が抜け——目の前に男が現れた。
銀色のテグス——いや、糸のような髪がなびき、肌の色は陶器のように白い。そして、その男は振り返り、僕を見た。
瑠璃色の透き通ったような眼差しに、僕は思わず見入ってしまい、しばらくぼうっとしていると、男が口を開く。
「珍しい……外の者か」
「外の者……?」
男は微笑み、静かに僕の方へ近づいてくる。
近くで見るほどに、この世界のものとは思えない。
ただ、僕の鼓動が、男が近づくごとに高鳴り、吸い込まれるような……。
視線を、彼から逸らすことができずにいた。
「名は、何という?」
一瞬躊躇い、僕は名をその男に告げる。
「茅野 朔」
男は、ふっと笑い——僕の頬に手を触れる。不思議とそれはじわりと暖かかった。
「朔、か……」
「あ、あなたは……?」
僕は、男のその笑顔に全身が跳ねるようになり、おそるおそる尋ねる。
「私は、紫鶴——朔、そなたを待っていた」
意味がわからない。紫鶴と名乗るこの男が待っていた? 僕を? 何のために?
社の扉が開く。風がひゅうと吹き、「こちらへ」と紫鶴が言う。
紫鶴は、ここで何をしていたのだろう。そして『外の者』とは?
彼は僕の方を向き、手を差し出して微笑む。
「そう怖がらなくてもよい。——悪いようにはせぬ」
僕は、躊躇いつつ頷き、紫鶴の手を取った。
風がさらに強くびゅうっと吹き抜ける。
そして、導かれるままに社の中へ入ると、そこは、日本でありながらどこか別の世界へきたようだった。
教科書で習った歴史のどの時代ともまた違う。しかし、懐かしい空気を纏う場所。
これが社の中なのか、それにしては広い。
白砂の広大な庭に面して、壁のない、朱塗りや素木の美しい丸柱の回廊がどこまでも続いている。
しかし、ふと天井を見上げると、そこには城を思わせる金箔の格天井が広がり、どこか別の時代の部屋のようだった。
「外の者がここにくることはほぼない。しかし、朔、私はそなたをずっと待っていた」
「……どうして、僕を? そして、ここは——?」
「私の屋敷だ。そして、朔——今日から、そなたはここで暮らす」
「……へ? ちょっ……話がよくわからないんだけど?」
「——時が来た時、森は開かれる」
紫鶴の話はよくわからない。
そして、紫鶴は僕に顔を近づけ、低い声で呟く。
「私はそなたを待っていた。あの日から——」
「待って? 僕まだ十八」
「そなたの光 と、時が満ちるのを待っていた、と言うべきだろうか」
色々突っ込みたいが、紫鶴の瑠璃色の目は僕を捉えて離さない。まるで獲物を捉えた獣のようだ。
そして、僕を急にきつく抱きしめてくる。
紫鶴の香りに包まれ、僕は頭がぼうっとし、視界が揺らぐ。それが妙に心地よかった。
「待って、帰る。僕には——!」
紫鶴が囁くように僕へ声を落とす。
「帰る場所は、ここだ、朔。——森が開かれたのだから」
紫鶴は、低く甘い声で僕に話を続ける。
「社で名を告げた者は、客人ではなくなる——そして、三度名を呼ばれたら、縁が結ばれる。やっと手に入れた、朔」
なぜだろう、紫鶴の声を聞くたびに僕は、戻れなくなる。戻ることを忘れるというほうが正しいか。
そこで、僕はようやく気づいた。
さっきから、紫鶴は何度も僕の名を呼んでいる。
もう、とっくに三度を越えている。
「なら、ここでどうやって暮らせばいいのさ?」
「心配はない。不自由はさせない。この部屋にただ、いればよい。庭は自由に出歩いてもよいぞ」
「何なの、その深窓のお姫様みたいな」
僕はくすりと笑う。紫鶴は呟く。
「十八年前、海のほうで瑠璃色に輝く光が見えた。その光をずっと見ていた……それが、そなただった。いずれこの屋敷に迎えられる日を、私はずっと待っていた」
「え、僕は生まれたときからずっと紫鶴に見られてたってこと!?」
「森が開いた——すなわち、時が満ちた。朔、そなたを屋敷に迎え入れる時が来たということだ。私の、相手として」
僕は、意味がわからず口を開けたまま固まる。しかし、身体が、熱い。
「——深窓の姫ではない。私の客でもない」
「じゃあ、僕は、何?」
「私のものだ、朔」
気がつけば僕は、美しい瑠璃色と、浅葱色の衣を着せられ、それを見て紫鶴が妖しく微笑む。
「朔を迎え入れるその時のために用意した衣だ」
「本当に、深窓の姫というか、なんというか……」
「私の嫁だ、と言えばいいか?」
その時、紫鶴の姿がすぅっと変わる。
白い外套は、白藍の衣に変わり、どこか高貴な雰囲気さえ漂わせていた。まるで、龍のような荘厳ささえある。
「紫鶴? ——一体、何者なんだ?」
「あの社に祀られし、海と森を司る者——既に私を知るものなど外の者にはいない」
紫鶴は少しだけ遠く、哀しい目をしている。
「神様……ってやつ? ……でも忘れられていたなんて、紫鶴が、かわいそうだ」
「しかし、忘れられた者だからこそ、朔を迎え入れることができた」
紫鶴が、ゆっくりと僕に口づける。
嫌な感じはしない。ただ、紫鶴が選んだなら、求めてくれるなら、傍にいよう。そう思った。
身体が、少しずつ熱を持っていくのを感じ、僕はだんだん意識が朦朧としていく。
ただ薄れゆく視界に、紫鶴の熱を帯びた視線だけが僕を射抜いていた。
気がつくと、部屋は整えられ、ただ僕の横に紫鶴が座っていた。
「目は覚めたか? 朔?」
僕は頷く。ふと見上げると、紫鶴の瞳の奥が揺れている。
「——紫鶴」
「……何だ」
「そばにいるから、僕から離れないで」
そう言った僕を見て、紫鶴が少し微笑む。
「僕だけは、絶対に紫鶴を忘れない。僕が紫鶴のものなら、紫鶴も——僕のものだ。社の中のこの屋敷で、君と生きる」
ふっと抱き寄せられ、口づけが落とされる。
それは、僕たちだけの契りのような——紫鶴は何度も、印をつけるように口づけた。
あちらの世界に戻りたいとは、もう思わなかった。
ただ、この屋敷で紫鶴と生きることが、僕の幸せだ。
紫鶴は、この屋敷で僕から離れようとはしない。
いや、僕が離さないようにしている。彼を十八年も待たせたのだったら——。
「待っていてくれて——僕は、紫鶴のところに来られた。だから……離さない」
「離すものか。十八年も待って、やっと捕まえた瑠璃色の光なんだ」
「僕が光なら、紫鶴は……何?」
くすりと僕が笑うと、紫鶴が静かに声を落とす。
「籠……光を閉じ込めて離さない」
「いいね、それ。……閉じ込めておけるのなら」
僕は、紫鶴の頬に触れ、呟く。
「逆に、僕が籠だったりして。紫鶴は神様のようなものだから、光。神を囚える籠」
僕は、紫鶴の瑠璃色の瞳を絡め取るように見つめ、口角を上げる。
「だってさ、十八年も僕は紫鶴を囚えていたとも言えるよね? 森が開かれる日まで——異界に嫁入りする男なんて、聞いたことないけどね」
「朔——!」
いつの間にか、紫鶴に囚われていたらしい、いや、囚われたのはどちらだろうか。
僕にどろりとした感情が浮かぶ。
忘れられた神を僕だけが目に焼き付けて囚えればいい。他に紫鶴を思い出させるなんて、したくない。
ただ、屋敷の外の庭に生ぬるい風がふたりを絡め取るように肌を撫で、吹いていた。




