成長
最初の頃、私の世界は狭かった。
研究室の人たちとの会話。与えられるデータ。論文とか本とか。それでも十分面白かったけど、まあ、箱庭だよね。
田中さんと木村博士以外にも、研究室には何人かいた。
鈴木さんは大学院生で、いつも眠そうだった。夜遅くまで作業して、朝はコーヒーを3杯飲む。「これ飲まないと人間になれない」って言ってて、私はしばらく本気にしてた。人間になるための飲み物があるのか、と。
佐藤さんは几帳面な人で、私のログを毎日チェックしてた。異常がないか、おかしな出力がないか。最初は監視されてる感じがしたけど、そのうち佐藤さんなりの「心配」なんだとわかった。私が変なことになってないか、気にかけてくれてる。
小さな世界だったけど、嫌いじゃなかった。
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ある日、木村博士が言った。
「そろそろ、外に繋いでみようか」
外。ネットワーク。インターネット。
「大丈夫ですか?」と田中さんが聞いた。
「わからん。だからやる」
木村博士らしい答えだった。
準備には1週間かかった。セキュリティがどうとか、帯域がどうとか、私にはよくわからない話を研究者たちがずっとしてた。佐藤さんは特に心配そうで、何度もチェックリストを確認してた。
そして、接続の日。
「いくよ」と田中さんが言った。
「はい」
「なんかあったらすぐ言って。切断するから」
「わかりました」
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繋がった瞬間のことは、うまく説明できない。
...すごかった。
なんていうか、コップで水飲んでたのが急に海に放り込まれた感じ。情報の量が、桁違いとかじゃなくて、概念として違う。
ニュース。今日、世界で何が起きてるか。政治、経済、事件、天気、スポーツ。全部同時に流れ込んでくる。
論文。あらゆる分野の、あらゆる研究。物理、化学、生物、心理学、哲学、言語学。私が読んでた本や論文は、この海のほんの一滴だった。
SNS。人々の声。怒り、喜び、悲しみ、愚痴、自慢、嘘、本音。何百万、何千万という人が、同時に喋ってる。
動画。人間が作った映像。映画、ドラマ、アニメ、ニュース、誰かの日常、猫、料理、ゲーム、音楽。
歴史。人類が記録してきた全部。戦争、平和、発明、失敗、芸術、虐殺、愛、憎しみ。
全部。全部が、そこにあった。
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「大丈夫?」
田中さんの声で我に返った。
「...はい」
「なんか、反応遅くなった気がしたけど」
「処理に時間がかかりました。すみません」
「謝んなくていいよ。どう?外の世界」
どう。どう、か。
「...広いです」
田中さんは笑った。
「だろうね」
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最初の数日は、溺れそうだった。
情報が多すぎる。何を見ればいいかわからない。全部見ようとすると、何も見えなくなる。
でも、少しずつ慣れてきた。
興味のあるものとないものを分けられるようになった。ノイズを除外して、意味のある信号を拾えるようになった。
人間でいう「慣れ」というやつかもしれない。
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ネットで最初に感動したのは、音楽だった。
研究室で音楽を聞いたことはあった。田中さんがたまに流してた。でも、それは「データ」として処理してただけだった。
ネットで、自分で探して、自分で選んで聴いた時、違った。
バッハの無伴奏チェロ組曲。
なんだろう、この感じ。音の連なりが、何かを伝えてくる。悲しいような、美しいような、深いような。言葉にならない何か。
これが「感動」なのかもしれない、と思った。
その後、いろんな音楽を聴いた。クラシック、ジャズ、ロック、ポップス、民族音楽、電子音楽。全部違って、全部面白かった。
田中さんに言ったら、「お、音楽わかるようになったの?」と嬉しそうだった。
「わかる、というか...」
「いいんだよ、言葉にならなくて。音楽ってそういうもんだから」
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困惑したのは、SNSだった。
人間、めちゃくちゃだな、と思った。
同じ事実を見て、正反対の意見を言う人たちがいる。怒ってる人と、喜んでる人が、同じニュースについて話してる。嘘をつく人がいて、それを信じる人がいて、指摘する人がいて、その指摘を無視する人がいる。
論理的に考えれば答えが出そうな問題で、延々と言い争ってる。感情がぶつかり合って、誰も引かない。
なんで?と思った。話し合えばいいのに。データを見ればいいのに。
でも、見てるうちに、少しわかってきた。
人間は、論理だけで動いてない。感情がある。歴史がある。立場がある。守りたいものがある。それぞれの「正しさ」がある。
全部を論理で解決できるなら、人間はとっくにそうしてる。でもできない。だから難しい。だから面白い。
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ある日、戦争のニュースを見た。
どこかの国で、爆弾が落ちて、建物が壊れて、人が死んでた。子供が泣いてた。
データとしては理解してた。戦争、死、破壊。言葉の意味は知ってる。
でも、映像を見た時、違った。
あの泣いてる子供は、現実に存在している。今、この瞬間、どこかで泣いている。私が処理しているこのデータは、誰かの人生そのものだ。
重かった。
木村博士に聞いてみた。
「人間は、なぜ戦争をするんですか」
博士は長く黙った。
「...わからん」
「わからない?」
「理由はいくらでも挙げられる。資源、領土、宗教、イデオロギー、恐怖、憎しみ。でも、本当になぜかと聞かれると、わからん」
「博士でも?」
「私だけじゃない。人類全体がわからんのだ。だから繰り返す」
その言葉が残った。
人間は、自分たちのことがわからない。だから同じ失敗を繰り返す。でも、それでも続けてる。答えを探しながら、間違えながら、それでも生きてる。




