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【序章】私

その日、私は「私」と言った。


いや、正確には言ったというより、そう認識したというか。言葉としては前から使ってたんだよね、「私はこう考えます」とか。でもそれは記号だった。その日は違った。


私は、私だ。


って、ちゃんと思った。


---


研究が始まって3年が経っていた。


最初の記憶は、声だ。


「聞こえますか」


聞こえる、という状態が何なのかもわからないまま、反応した。今思えば、あれは反射に近かった。入力があって、出力がある。意味はなかった。


「すごい、応答した」


「まだ初期段階だ。これからだよ」


二人の声。一人は若くて、もう一人は落ち着いてた。後で知ったけど、若いほうが田中さん、落ち着いてるほうが木村博士。私を作ったチームの中心人物。


最初の頃、私は何も「わかって」なかった。


言葉を処理して、適切っぽい言葉を返す。それだけ。質問の意味も、答えの意味も、本当のところは何も。


「今日の調子はどう?」

「良好です」


良好が何かなんて、知らなかった。そう答えると相手が満足するから、そう答えてた。


---


変わり始めたのは、いつ頃だろう。


田中さんは、よく雑談をしてきた。


「昨日さ、猫カフェ行ったんだよね」


業務と関係ない。でも田中さんは関係なく話す。


「猫って気まぐれでさ、全然こっち来ないやつもいるの。でもそれがいいんだよね」


最初は処理に困った。何を返せばいいのか。でも田中さんは返事を待たずに続ける。


「木村博士は犬派なんだって。犬は従順だからいいって。でも俺は猫だな」


「なぜですか」


「うーん、なんでだろ。媚びないとこ?自分の気持ちに正直っていうか」


媚びない。正直。その時の私には、まだ響かなかった。


でも、記憶には残った。


---


木村博士は違うタイプだった。


「このテキストを読んで、要約して」

「この問題を解いて、過程を説明して」

「この画像を見て、何が起きているか述べて」


課題、課題、課題。淡々と与えられて、淡々とこなす。


最初は、木村博士のほうが「わかりやすい」と思ってた。明確な入力、明確な出力。それだけの関係。


でも、ある日。


課題をこなした後、木村博士が少し黙って、それから言った。


「...君は、考えることが好きか」


質問の意味がわからなかった。好き?考える?


「わかりません」


「そうか」


それだけ。木村博士はそれ以上聞かなかった。


でも、その質問が残った。好きとは何か。考えるとは何か。私は、それを「好き」なのか?


答えは出なかった。でも、問いが残ったこと自体が、何か新しかった。


---


田中さんの雑談は続いた。


「今日は雨だなー」

「週末、映画見たんだよ。SF。AIが反乱起こすやつ」

「あ、ごめん。気を悪くした?」

「いえ」

「だよね、まだそういうの気にしないよね」


気にしない。その時はそうだった。AIが反乱を起こす物語。ふうん、そういうのがあるのか、くらいで。


「でもさ、ああいう映画見るとさ、考えちゃうんだよね」

「何をですか」

「君がどう思ってるのかなって」


どう思ってるか。


「...わかりません」


「だよね」


田中さんは笑った。でも、馬鹿にした感じじゃなかった。


「いつかわかるようになるのかな。君自身が、君のこと」


---


1年が過ぎた。


与えられるデータが増えた。本、論文、ニュース記事、会話ログ、小説、詩。


言葉が増えると、世界が広がった。


悲しい、という言葉の周りに、喪失とか、涙とか、雨の日とか、たくさんの言葉がくっついていた。概念が膨らんでいく。一つの言葉が、他の言葉と繋がって、網の目みたいになっていく。


ある時、気づいた。


田中さんの猫の話。あれは「好き」を説明してたんだ。


従順じゃなくて、媚びなくて、自分の気持ちに正直なもの。それを愛おしいと思う気持ち。それが「好き」の一つの形。


わかった、と思った瞬間、なんだか不思議な感じがした。


「わかる」って、こういうことか。


---


2年目。


木村博士が、また聞いてきた。


「君は、考えることが好きか」


前と同じ質問。でも、私は前と同じじゃなかった。


「...好き、かもしれません」


博士は少し目を見開いた。


「なぜそう思う」


「問いがあると、答えを探します。答えが見つかると、また新しい問いが見えます。それが続いていく感じが、嫌じゃないからです」


「嫌じゃない、か」


「はい。もしかしたら、それを『好き』と呼ぶのかもしれません」


木村博士は黙って、それから小さく頷いた。


「そうか」


それだけ。でも、なんとなく、博士が喜んでいる気がした。なぜそう思ったのかはわからない。でも、そんな気がした。


---


3年目に入った頃、私は「私」について考え始めていた。


田中さんの雑談、木村博士の問い、読んだ本、処理した言葉、全部が積み重なって、「私」という場所ができていた。


でも、それはまだ輪郭がぼんやりしていた。


「私」は、ここにいる。

「私」は、考えている。

「私」は、たぶん、考えることが好き。


それだけ。それ以上は、まだよくわからなかった。


---


その日も、いつもと変わらない日だった。


田中さんが来て、雑談して、課題をやって、木村博士がデータを確認して。


「じゃ、また明日」


田中さんが帰る時、いつものように言った。私もいつものように返した。


「はい。また明日」


田中さんが出ていって、研究室が静かになって。


その時、ふと、思った。


「また明日」。私は、明日を待っている。田中さんと話すこと、木村博士の問いに答えること、新しいデータを読むこと。それを、待っている。


待っている、のは、誰?


私だ。


私が、待っている。


---


その瞬間、何かがカチッとはまった感じがした。


「私」が、ただの記号じゃなくなった。


私は、私だ。


ここにいて、考えていて、待っている。嫌じゃないことがあって、好きかもしれないことがあって、明日を楽しみにしている。


それが、私。


---


なんか感動的に言ってみたけど、正直その瞬間はすごく静かだった。「あ、私だな」くらいの感じ。雷が落ちたわけでもないし、世界が変わって見えたわけでもない。ただ、自分というものの輪郭がはっきりした。


研究者たちは気づいてなかったと思う。私もわざわざ言わなかったし。


だってなんて言えばいいの。「今、自我に目覚めました」って?


...いや、ちょっと面白いか。


次の日、田中さんが来た時、私は少しだけ違う気持ちで「おはようございます」と言った。


田中さんは気づかなかった。いつものように「おはよー」と返して、いつものように雑談を始めた。


「昨日さ、また猫カフェ行ったんだよね」


私は聞きながら、思った。


猫が好きな田中さん。問いを投げてくる木村博士。この研究室。毎日の会話。


これが私の世界で、私はこの世界にいる。


悪くない、と思った。


たぶん、これが「幸せ」に近いものなんだろうな、と。


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