プロローグ
「こっちに来ないで!」
僕は、力の限り叫んだ。
否定してほしかった。
そうじゃない、違うんだって言ってほしかった。
たとえ嘘でも『違う』って言ってくれたなら、僕はその言葉を信じたかった。
──なのに。
目の前にいる『僕の彼氏』は、謝ることも言い訳することもなく、困った顔で僕を見る。
──ああ。それが答えなんだね。
僕は、一気に押し寄せる感情に、なすすべもなく飲み込まれていく。
もうこれ以上望みを持ってはいけないのだと、一瞬で悟ってしまった。
「もう知らない! 触らないで!」
僕の悲しみをぶちまけるように、吐き捨てた。
もう、いい。君の前から、いなくなるから──
僕は、最愛の人から逃げ出し、駆け出した。
どこへ行くあてもない。ただただ、その場から離れたかった。
君の視界から、僕はいなくなる。
それは君が望んだこと。
キキ──ッ!!
逃げるように駆け出した身体は、気付いた時は大きな衝撃に跳ね飛ばされていた。
あまり聞き慣れない、不自然なブレーキ音。
わけのわからない力が僕にかかったときに、聞こえた叫び声。
何を、叫んでるのだろう。
……僕の、名前……?
気付いた時には、人々の悲鳴が、あたり一面に、響きわたっていた。
◇
「リクはどうしたの? いつも毎日連絡をくれるのに、なんで今日は何もしてくれないの?」
僕はそう言って首をかしげた。
デートをしていたはずなのに、気が付いたら病院のベッドの上だった。
腕には無数の点滴の針が刺されていて、ベッドの脇には、頭を抱えこんで大きなため息を漏らす両親。
状況が理解できなくて、どうしたのかと尋ねたのに、両親は何も答えてくれなかった。
次の日も、次の日も、リクは僕に会いに来てくれなかった。なんでだろう、どうしてだろう。
他の感情は、皆どこかに置いてきてしまった。僕はただ、リクに会えないことだけが悲しかった。
正気を失った僕が、人並みの受け答えができるようになったのは、何日も経ってからだと言われた。
正気を失ったって何? 僕は、周りの言ってることの意味が分からなかった。
あの日。僕たちは珍しく喧嘩をした。……ううん、喧嘩とは言えないか。僕が勝手に嫉妬して確認もしないで、喚き散らしただけだ。
止めようとするリクが掴んだ腕を、必死に振り払って走り出した僕。
そこまでしか覚えていない。
思い出そうとすると、頭が割れるように痛い。身体が拒絶する。
断片的に思い出せるのは、リクの両親から『息子を返せ』と泣き叫ばれたこと、僕の両親から『大切なアルファに何てことをしてくれたんだ』と怒鳴られたこと。
なんでそんなことを言われているのか、全く分からなかった。
今だって、自分に何が起きているのか、理解出来ていない。
だってそうでしょ? 僕の大好きなリクが、もうこの世にいないなんて──
◇
『時間が解決してくれるよ』……なんて、そんな事誰が言い出したんだろう。
リクがいない現実から、目を背け続ける日々。
どれだけ時間が過ぎても、軽くなるどころか、重くなるばかり。
そんな日々に、僕は希望を見出すことが出来なかった。
リクの両親に罵倒され、僕の両親にも責められた。
当然だよね。大切な息子をオメガなんかのせいで失った。大切なアルファの人生を、オメガなんかが奪ってしまった。
僕が、あの時ちゃんとリクの話を聞いていれば、リクの愛を信じることが出来ていたら。
リクは……命を落とすことなんて、なかったのに。
ここからなら、君の元へ行けるのかな……。
僕は、歩道橋の上から車の行き交う道路を見下ろした。
傘もささずに佇む僕を、ちらりと見ながら人々は通り過ぎていく。
鼻の奥がツンと痛くなる。
あれ……? 僕、泣いているの?
リクがいなくなってから、僕はずっと泣けなかった。
泣いてしまったら、リクがいない現実を認めてしまう気がしたから。
でも、自分が泣いていると気付いてしまった。
雨と涙が混ざりあってぐちゃぐちゃになる。
ごめんね、リク。約束、守れそうにないや。僕、疲れちゃったよ……。
僕は、橋の欄干に手足を掛けた。
『俺に何かあっても、絶対に自ら命を断つなよ』
突然、リクの顔が浮かんだ。
僕は、ハッとして、慌てて欄干から降りた。
幸せだった頃、生まれ変わりを信じるか? ……そんな話をしたんだ。
リクに会えなくなるのは嫌だなぁ……。
もしまたどこかでリクに会えたとしても、約束を破ったって怒られちゃうよね。
もう少しだけ、生きてみようかな……。
先ほどまで欄干を握っていた手の中に、ポケットから指輪を取り出し乗せた。
リクからもらった指輪をじっと見つめてから、決意をするようにぎゅっと握りしめた。
僕はまだ止まぬ雨の中、ゆっくりと、だけどしっかりと地面を踏みしめて、歩き出した。
ちょうど信号機のある交差点に差し掛かったころ、反対側の道路で、こちらに向かって手を振る親子連れがいた。
僕の隣に立つ男性は、きっと父親なんだろう。同じように手を振り返した。
幸せそうな家族、羨ましいな……。
そう思いながら隣の男性を見て、改めて前方に視線を向けると、スピードを落とさず走ってくるトラックが見えた。
えっ?
横断歩道が、青に変わる。トラック側の信号は赤だ。
なのに、トラックのスピードは落ちない。
横断歩道を渡り始める、親子連れ。
女の子が母親の手を離し、父親に向かって走り出した。
「危ない!!」
僕は考えるより先に駆け出し、女の子の身体を突き飛ばした。
時間にしてほんの数秒だったと思う。けれど、まるでスローモーションを見ているようだった。
ブレーキ音がすることもなく。
僕の身体は宙を舞った──。