呪われた王女と死の騎士~どうか私を呪い続けて~
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私はその日、眠らなかった。
睡眠不足は肌に悪い、思考能力が鈍る、なんなら視力まで落ちる気がする。
なによりも王位継承権争いの真っ最中なのに、寝不足の顔を敵の眼前に晒すわけにはいかない。弱みになってすぐ足を引っ張られるから。「ルナマリア殿下はこの程度の課題も夜遅くまで取り組まないといけない。能力に疑問がある」と周囲に思われるわけにはいかないから。
でも、私は起きていなければいけなかった。
私の元に送り込まれる暗殺者を夜な夜な丁寧に始末して、庭に綺麗に並べておく者の顔を見るために。
その者の所業のせいで私は「呪われた王女」などと言われ始めている。
敵陣営から見れば、暗殺者を送ったのに全員殺されているのだ。呪われた王女と言いたくもなるだろう。別に私は呪術も魔法も使っていないし使えない。使えるならとっくに使って王位継承権争いに勝っている。
月明かりの中、軽やかな物音と鈍い音が部屋の中で響く。軽やかな物音だけ聞いていれば、暗がりで誰かが優雅に踊っているのかと思ったことだろう。
ドサリという音がして暗殺者を始末し終わった男の背中に私は声をかけた。
「お前だったの、夜ごとに暗殺者を殺して綺麗に並べていたのは」
彼は慌てることなくゆっくり振り返った。まるで私が起きていたことが分かっていたように。
そして、その男の顔には見覚えがあった。
「はい、ルナマリア殿下」
月明りの差し込む部屋の中で彼は瞬時に跪く。生前やっていたのと同じように。
「私の記憶に間違いがなければお前は一年前に死んだはず。ねぇ、ラドフォード卿」
「その通りでございます。殿下」
「では、私がおかしいのか。これは夢? なぜ、お前がここにいる」
「簡単なことです。私が蘇ったからです。そして死んでから蘇った私はすでにラドフォード侯爵家の者ではありませんので、どうぞアラリックとお呼びください」
彼の言葉を咀嚼するのに時間がかかった。飲み下すにはその意味はあまりに重くてざらついていて、言葉だけが異様に軽い。
「蘇ったということは、お前は生き返ったということ? それならその旨をラドフォード侯爵家に伝えればいい」
アラリックは緩く首を振り、私の前に手を差し出してきた。
「汚い手ですが、触れていただくのが口での説明よりも早いでしょう」
血で汚れているわけでもないアラリックの手を私は好奇心で何のためらいもなく掴んだ。そして、あまりの冷たさに驚く。
手のひらを掴んだだけだったが、冷え性なのかもしれないと手首や腕を順番に掴む。どこもかしこもがとんでもなく冷たい。
私はとうとう彼の首筋に触れた。そこも他の場所と寸分狂わず冷たい。死人を思わせる冷たさだった。そして脈は異様に弱かった。
「お前は一体、何になった? 私の公務中に襲われて亡くなって……お前の葬儀もしたし見送ったはず。棺の中にお前の遺体はないということ?」
「棺の中に私の体はございません。しかし、掘り返すなどしない方がよろしいでしょう。そんなことをすれば殿下が狂ったと言われかねません」
「お前が暗殺者を毎回殺すからすでに呪われた王女と言われている」
「殿下がここからお逃げにならないからです。私が奴らを殺さなければ、殿下が殺されます」
「どこに逃げると? 私は女王になる。女王にならなければいけない。そのために異母弟を追い落とそうとしている最中だ」
病で数年前に亡くなった王妃である母に約束した。私は女王になると。
母は素晴らしくてそして可哀想な人だった。王妃として国王を支え続け、後から入った側室に寵愛を奪われ国王に見向きもされなくなっても国民のために仕事をし続け、結局病気になってやせ細って死んだ。
「ルナマリア。あなたがこの国の女王になるのよ。私のルナマリアが女王よ。あんな女の息子ではなくて」
母は病床で私に繰り返しそう告げた。
あんな女とは側室のことだ。外見以外何の取り柄もない、異母弟を生んだだけで持ち上げられている側室のこと。
政治の話一つできない、福祉は適当に寄付や炊き出しをしておけばいいと思っている甘やかされて育った可愛いだけの伯爵令嬢だった女。父である国王が夜会で見初めてさっさと側室にした女だ。
母のことを想うと、胸が苦しくなる。そして異母弟を生んだ側室のことを思うと、無能な女は死んでしまえというどす黒い思いが渦巻く。
どうして母は死んだのに、あんな能無し女がのうのうと生きているのだろうか。自分が王妃であるかのように振舞っているが、所詮は側室。国王が倒れたところで何もすることはできない。あの女ができるのは媚を売って微笑むことだけ。
でも、あの女は父に愛された、いや今なお愛されている。母の様に必死で仕事をしなくとも、媚を売って微笑んでいるだけで。その息子である異母弟も明らかにルナマリアよりも父に愛されている。あんな無能な女から生まれた、大した出来もよくない異母弟が。
それは貴族たちの目から見ても明らかなのだろう。
父から王位争いのための課題を出され、私の回答内容を何度盗まれたか。侍女が盗んで異母弟陣営に持って行っているのか。あるいは、勝手に私の部屋に入る何者か。
くだらない政策案を出しても、異母弟は父に愛されているというその一点だけで褒められる。私の案はいくら細部まで詰めても褒められないのに。
「私は女王になる。女王になれなかったら死ぬ」
「これほど暗殺者が送り込まれても、ですか?」
「異母弟陣営もバカだ。自分が王になるべき器であるなら、私に暗殺者など送らなくとも王になれるはずなのに」
父である国王に愛され、それによって味方してくれる貴族たちもいる。なのになぜ私に暗殺者など送るバカな真似をするのか。
それでは私を脅威に感じているという宣言に等しいではないか。
「アラリック、お前の事情は知らないがせっかく蘇ったのならこんな無駄なことをせずに好きに生きたらいい。一度死んだお前にもう私を守る義理はない」
よほど暇なのだろうか。
アラリックは少し悲し気に私を見ていたが、何も言わずに俯いて暗殺者たちの死体を引っ掴んで窓からさっと出て行った。ここは三階なのだが、先ほど軽やかに暗殺者たちを殺していた様子を見るに何も心配しなかった。
もう彼は来ないだろうから、私は明日の晩あたりに殺されるのだろうと思っていた。それならそれで仕方がない。私の力が及ばなかっただけのことだ。
しかし、翌日もそのまた翌日も私は普通に寝て目を覚ました。
暗殺者の死体は相変わらず庭に並べてあり、この国の暗殺者の人数の急激な減少を私は心配した。
よくもまぁこれだけ殺されているのに、呪われた王女の暗殺を引き受けてくれるものだ。よほど金払いがいいのだろう。
「ユーインの案は素晴らしいな」
「恐縮です、陛下」
今日も今日とて、課題を提出して茶番が始まった。
一つ下の異母弟ユーインの提出した紙は白紙でも「素晴らしい。文句のつけようがない」と父から褒められるのではないだろうか。試してくれればいいのに。そうしたら、私は何もかもがバカらしくなって暗殺者に殺される前に自分で死んでいる。
しかし、今回も酷い。いくら王位継承権争いの課題とはいえ「誰でも自由に商売をできるようにして経済を活性化させる」なんて案はありえないのではないだろうか。食べ物を扱うところはそれなりの管理をしているから安全なのであって、素人が市場に参戦するとどうなるか。あっという間に食中毒が流行るのではないか。
そこまで考え、もう疲れて思考をやめた。
睡眠はとっているのに思ったよりも私は疲弊しているようだ。
「ルナマリアの案はまだまだだな。どこから金を捻出する? それに起こってもいない災害のために備蓄するなど、民衆が納得するだろうか」
「……仰る通り、詰めが甘かったようです」
宰相の気の毒がるような視線と、異母弟が愉快そうにこちらを見る視線を感じる。
異母弟の案にはそんなこと一言も言ったことはない。寵愛する女が生んだ子供は可愛くて、何をしても許されるようだ。
必死で仕事をしていた王妃の娘である私はそんなことはないのに。世界は残酷で不平等だ。私だってこんなに勉強せずとも愛されたい。
疲れた。
私は素晴らしい女王にならなければならない。そうでないと、私を生んだ母が可哀想な使い潰されただけの女になってしまう。
でも、もう疲れた。
異母弟に私の案を一度盗られてからは、あり得ないアイディアを適当に書いてわざと盗ませていた。その案を異母弟はバカみたいに提出していたが、それでも褒められていた。
私はどれほど勉強しても褒められない。
なんという茶番だろうか。
「ルナマリアは王の器ではない。次期王はユーインだ」
双方に何度か課題を提出させて競わせた、という大義名分が欲しかったのだろうか。唐突に茶番劇は幕を下ろした。
父は私に向けたことのない嬉しそうな表情をユーインに向けていた。
それを見て、自分の案が褒められなかったのよりも胸が抉られる気分だった。
なんて馬鹿馬鹿しいのだろう。なぜ、頑張れば父も分かってくれる・認めてくれるという幻に私は縋ったのだろう。母どころか私だって十分可哀想だ。そんな幻に縋るしかないなんて。
「陛下。それでは、ルナマリア殿下は降嫁なさるのでしょうか。それでしたらうちの愚息などどうでしょう?」
「あぁ、お前のところの息子は婚約者がいないのだったか」
「えぇ、好みがうるさく……」
宰相は私を気の毒がるものの、側室のあの女の派閥出身なので私を表立って庇うことはない。しかし、これは宰相なりに最大限私を庇っているのだろう。宰相の息子は十八で私と同い年、加虐趣味のある年上ではないし大きな問題があるとも聞いていない。
宰相は「降嫁させてうちで監視しましょう」と暗に言っているのだ。私にとってもそれほど悪い条件ではない。どうせ息子に愛人でもいるのだろうが。
「父上、義姉上は国のために何かしようという意欲がおありなのですから、他国に嫁いで我が国との懸け橋になってくださいませんと。国内で無難に嫁がせるには義姉上はもったいない存在です」
先ほどまで「陛下」と呼んでいた癖に、自分が王になると決まった途端に「父上」と家族ごっこを始めている。
いかにも私のことを思っていますというように異母弟ユーインが発言しているが、こいつの言うことでろくなことはない。何せ、私を殺そうとしている奴なのだから。
「しかし……どこか当てがあったか?」
「フロスト帝国はいかがでしょう」
思わず鼻で笑いそうになる。
フロスト帝国はこの大陸の中でも強大な国だ。そして皇帝には何人もの妃がすでにいる。
「義姉上なら帝国でもやっていけるはずです。我が国は帝国と縁が希薄ですし、これを機にさらなる……」
ユーインがそれらしい言い訳を並べ立てている。私を蹴落とすだけでなく、さらに帝国のハーレムに嫁がせるとは。本当に嫌な異母弟だ。何でもかんでも最初から持っているくせに人から小さな幸せも奪おうとするなんて。
でも、課題でもあんな案を褒めるような国王とあんな案を提出する異母弟が王になる国にいるのもどうなのだろうか。
異母弟がこのまま愚王になるならば、すぐに衰退していくはず。
「では、帝国と縁を繋ぐべく嫁ぎますので準備をお願いいたします。まずは使いを送りませんと」
「おぉ行ってくれるのか、ルナマリア。さすが王妃の娘だ。彼女もこの国のことを一番に考えてくれていた」
「私は呪われた王女と言われていますが、そこは大丈夫でしょうか。帝国は嫌がるかもしれません」
母の話をここで出されて虫唾が走る。私を利用するために母まで持ち出すな。
最後の抵抗とばかりに「呪われた王女」を持ち出した。
「義姉上、呪われているくらいの方が帝国でやっていくには安心です」
そもそも帝国から妃にと打診されたわけでもない。あちらから見れば弱小国の王女など必要ないだろうに。嫁いでハーレムで殺し合いに巻き込まれて死ねということなのだ。
異母弟の歪んだ笑みを見て、私は今度こそ鼻で笑った。
お前の思い通りになど絶対にさせない。
私は粛々と従ったように見せたつもりだったが、異母弟は私の牙を完全に抜かないと気が済まないらしい。
逃走しないように窓に鉄格子のついた部屋に移されて外出も制限された。嫁ぐまで軟禁ということらしい。
私の努力は最初から何の意味もなかった。
誰だろう、努力は報われると言った人間は。
努力したって結局裏切られる。
私は女王になれなかったら死ぬつもりだった。あんな異母弟の思い通りにはさせない。
この部屋にロープなどないが、丈夫なカーテンは窓にかかっていた。
夜中にカーテンを外して首を吊る準備をしていると、誰かの気配がした。
窓を見ると外の鉄格子が大きく左右にひしゃげるところだった。あり得ないほど簡単にぐにゃぐにゃと動いた鉄格子、そしてゆっくりと開く窓。
窓から入ってきたのはアラリックだった。
「お前、よほど暇なのか」
「殿下、一緒に逃げませんか。もうこの国に未練もないでしょう」
「この世に未練がないの間違いだな。私は王位継承権争いに負けたただの情けない王女だ」
アラリックに腕を掴まれたので、カーテンを良い長さに調節する作業は中断された。
今日も冷たい手だった。
黙ってアラリックを見つめる。護衛騎士だった頃は後ろに控えていることが多かったから、こんなにまじまじとアラリックの顔を眺めたことはなかった。
褐色の肌に黒い髪。そして赤い目。赤い目は特に珍しいから覚えている。確かラドフォード侯爵夫人が異国の出身だったから、アラリックは褐色で赤い目なのだ。
「アラリック、手を退けろ」
「私は一年前、王女殿下をお守りすることができませんでした」
「一年前の公務で盗賊に襲われた時、私は生きていた。お前は、いやお前たちは立派に私を守った」
「殿下を危険に晒しました。そして盗賊というには訓練された動きでした」
「今更、それを言って何になる。復讐したいのなら勝手にすればいい」
「ずっと後悔していました。王女殿下をきちんとお守りできなかったことを。だから、私は蘇ったのです」
「じゃあ、私も死んだら蘇るかもしれない」
アラリックは手を退けない。数度抵抗しても無駄だったので、近くにあった枕を片手で掴んでアラリックの顔に叩きつけた。
遠心力を利用したつもりだったが、アラリックは無表情のまま微動だにしない。相変わらず私の片手は冷たい手に拘束されている。
「放せ。私の命令が聞こえないのか」
私がそう言うと、アラリックは悲し気に目を伏せた。しかし、手を放す気はないらしい。
私は持ったままの枕を何度もアラリックに叩きつける。
やがて中に入っていた羽根が飛び散った。そこまでされても彼は微動だにせず、私の息だけが上がっている。
「私は努力も報われず、愛されることもなく、死ぬ自由さえない人間なのか?」
イライラしてそう聞いたが、前の二つはアラリックには関係ない。それでも止まらなかった。言葉が流暢に出るだけでなく、涙も止まらない。
「女王になれなかったら生きていても意味などないのに、どうしてお前は私を死なせてもくれないのだ! 守るなどと言って無駄に暗殺者を殺し、私を呪われた王女とウワサされるような存在にしておいて! なら何もしないでくれる方が良かった! 私はそんなに哀れな存在ではない!」
「殿下を哀れと思ったことは一度たりともございません」
「じゃあ、さっさとこの手を放して私を死なせろ! 私の努力は何の意味もなかった! あんな無能な顔だけの側室とその息子を父はひたすらに愛した! 国のために何もならないのに! 私は失敗した! 勉強ではなく愛嬌を磨くべきだったのだろう? 日がな一日難しい顔をして本や人と向き合うのではなく、鏡の前で自分の顔や髪や爪と向き合わねばいけなかったのだろう! 私はただ媚びて微笑んでいれば良かったのか! 私も母も! 仕事などせずに! そうすれば、母だって私だってこんな……こんな……」
泣きながらアラリックにひたすら枕をぶつける。枕の中に入っていた羽根のほとんどが空中を舞う。
「私だって、ユーインの様に愛されたかった! 血のにじむような努力をすることもなく、将来を考えて思い詰めることもなく、ただ、存在するだけで!」
自分の思考がまとまらない。枕が枕としての形を保たなくなったので、私はもう叩きつけることはしなかった。泣いて力が抜けてだらりとさがった私の手をアラリックはやっと放し、今度は頬を包んだ。
思わず背筋を伸ばしそうになるほど両手は冷たい。
「あなたを愛しています。あなたを守り切れずこのまま死ねないと思うほどには」
「お前は、忠誠と愛をはき違えている」
「いいえ。王女殿下に対してこの思いは許されないとずっと思っておりました。だから忠誠だけではございません」
冗談かと聞きたかったが、アラリックの指が私の涙を優しく拭ったので黙る。彼の手は驚くほど冷たいのに、動作はとても優しい。繊細なガラス細工を折らないように触っているようだ。
「お前は嘘が上手だ」
彼の冷たさが私の中まで侵食する前に拒絶するように言った。やっぱりアラリックは悲し気な表情をする。打ち捨てられたような表情が満月の光によく映えた。
「ルナマリア殿下。どうか一度、私に微笑んでいただけませんか」
「なぜそんなことをする必要が? 死ぬ前にサービスでもしろと?」
「殿下はずっと難しい顔をされておいででした。殿下はお美しいのですからどうか一度微笑んでいただけないかと」
涙を拭いながら、アラリックは催促するように先に微笑んだ。「それだけで私は報われるのです」と言いながら。報われると言いながらもやっぱり悲し気な笑みだった。
引っかかりを覚えて思い返してみる。確かに笑った記憶など最近はなかった。母が死んでから、いやそれよりももっと前、異母弟が明らかに私より愛されているのが分かった時からだっただろうか。
異母弟が生まれてから母はずっとピリピリしていたし、王位を争っていた時は私もかなり緊張していた。
愕然とする。
それほど自分に余裕がなかったのか。バカにしていた異母弟と側室に勝つために日々勉強していたことが、そんなに余裕なく他者からも映っていたなんて。
あんな無能の二人に勝つのに、それほど自分を削っていたのか。
私は努力した。本当に努力した。
笑うことさえ忘れて。
そして何も得られなかった。何も私は成し得なかった。
そう、何も。何にも。
無能相手に勝つこともできず、ただ母のように使い潰される。
どうして、誰も教えてくれなかったのだろう。ユーインがこの世に生まれた瞬間から、あの女が父の側室になった瞬間から勝負は決まっていて、私の努力なんてベッドの下にたまった埃くらいの価値もないのだと。
「ははっ……」
泣いていたのに同時に笑えてきた。
あんな無能に負けたのだ、ただ愛を欲して。
私は賢くなんてなかったのだ。私はただ無能になりたくなくて必死に努力していただけ。でも、王位も愛も手に入らなかった。
アラリックの乞う通りには、私は微笑んでいないだろう。
力が抜けて、そのまま崩れ落ちる。アラリックは抱き止めようとしたが、私と一緒に彼の肌よりは冷たくない床に崩れ落ちた。
「これほど頑張っても、母も私も愛されることはないのか」
私が愛されれば母の人生は全て報われると思っていた。最も分かりやすいのが父に認められて女王になることだったのに。
「私は、どんな殿下も愛しています」
「バカげたことを。女王になれなくてもか?」
「はい」
「あんな無能に負けても?」
「はい。どんな殿下も愛しています。王妃殿下が亡くなって口調を変えて強がり始めた殿下も、今泣いている殿下も」
私を抱きしめているアラリックの手は本当に冷たい。彼が死んでいる事実をしっかり伝えてくるのに、彼の赤い目には温かな光があった。
その赤い目を見ていると少しずつ落ち着いてきた。
「私はお前を死なせてしまった」
「いいえ、私は殿下のために蘇ったのです。生き延びろという約束を違えないために」
「……お前のせいで呪われた王女になったのかと思っていたが。どうやらお前を呪ったのは私のようだな」
こんな冷たい体になってまで蘇ってくるなんて。
私があの時あんなことを言わなければ、アラリックはきっとこうならなかった。他の騎士は死んでいるから、アラリックだけが特別だったのか。本当に私が呪ったのか。
「それなら、どうか私を呪い続けてください。そうすれば私は殿下のためにずっと生きていられます」
至近距離にある彼の顔を撫でる。死体の様に冷たい肌だ。
泣いて喚いて笑って妙な気分だった。
アラリックの頬に手を滑らせて、ぐっと爪に力を入れる。彼の肌を強く擦り、少し血が滲んだもののすぐに傷口が塞がったのを見た。
「お前はきっと後悔するぞ?」
「殿下をお守りできなかったあの日、私はすでに後悔しました。もう後悔などしません」
アラリックは私に手を差し出してくる。
「ここから一緒に逃げましょう」
「どこへ?」
「どこへでも」
「これが呪いでも?」
「どんな殿下でも私は愛しております」
私の一番欲しい言葉と行動をくれたのは死んだはずのアラリックだった。二回言われないと私の心には響かなかった。
震える手を彼にゆっくり伸ばす。
彼の指先に触れて、冷たさを感じたと同時に私はきつく抱きしめられた。
***
出血が酷くて目がかすむ。
あの盗賊はおそらく暗殺者たちが変装した姿だろう。動きが盗賊のそれではなかった。
「殿下……」
ルナマリア殿下は他の騎士たちが庇いながら向こうに走って行ったから大丈夫なはずだ。早く自分も追いついて援護しなければ。
雨の中で這いつくばりながら手を使って前に進もうとする。目がかすんでよく見えない。
「ルナマリア殿下……どうか、ご無事で……」
泥が爪の中に入る。雨がじっとりと服に滲んで重くなる。
立ち上がることはできないが必死に這って進む。しかし、遅々として進んでいる気がしない。
だんだん、視界と同様に意識もかすんでくる。
たった四つ年下の殿下に「死ぬな! 皆、絶対に生き延びろ!」と言われたのに。
一緒に戦っていた騎士たちはもう息をしていない。
でも、殿下を連れて逃げた騎士たちはきっと大丈夫だ。
最初に殿下の元に配属になった時、あまりの彼女の気高さに驚いた。第一王子よりも王族らしかった。私は彼女の中に抗いがたい光を見た。その光にずっと魅了されている。
王妃殿下が亡くなり、王妃殿下の実家の力も当主交代で次第に弱まり、側室の子供である第一王子との王位争いで劣勢であろうとも彼女は気高かった。
この珍しい赤い目で差別を受けた時も、たまたま見ていた殿下は鼻で笑ったのだ。
「私の髪もその騎士と同じく赤いが? お前は私の髪にも文句があるのか。護衛騎士の赤いマントによく映えていいではないか。お前よりもよほど見栄えもいい。それほど赤を見るのが嫌なら騎士をやめたらどうだ」
あの時、初めて自分の赤い目を誇りに思った。彼女の美しい真紅の髪と同列に語られて初めて。
あぁ、寒い。雨に濡れた服が酷く重くて寒い。
王女殿下との約束を果たさなければいけないのに。生き延びろと言われたのに。死んではいけないのに。
目を瞑ってしまう最後の瞬間に見えたのは自分が前方に伸ばす泥だらけの手だった。
次に目覚めた時は真っ暗闇の中だった。
息が苦しくて体を動かすと、狭いところに閉じ込められているようだった。
周囲を探って目の前の壁のようなものを叩く。すると、その壁は簡単に吹き飛んだ。暗い中から這い出て土を退けてやっと気付く。
棺だった。私は埋められた棺に寝かされていたのだ。這い出てみて自分の墓標まである。日付は殿下が盗賊に襲われた日と一致する。
今は夜のようだ。フクロウがバサバサと頭上を飛んだ。
目の前を黒い猫が横切る。
そこで違和感に気付いた。
ここは墓場で、月明りしかないのに異様に周囲の風景がよく見えた。音までよく聞こえる。試しに棺に少し力を加えた。べキリと音を立てて重厚なはずの棺は折れる。
目も耳も良くなっており、力まで強くなっている。
棺を元通りに埋めて、試しに木に飛び上がってみた。なんと、木よりも高くジャンプできる。身体能力まで上がっている。
何に感謝していいのか分からなかった。それでも感謝して祈りを捧げた。
自分の身に起きた現象が呪いでも祝福でも何でもいい。
ただ、王女殿下との約束を守れた。私はもう死んでいない。蘇った。
ただし、太陽の光は私の肌を焼いた。日没から日の出までしか私は動けない。
それでも。
今度こそ気高いあなたを守ってみせる。
説得した王女殿下を抱いて、夜の森を走る。
死ぬ前よりも相当速く走れるのでもうすでに城は遥か彼方後ろだ。
自分には必要ないが、殿下が寒いかもしれないので少し休憩を取る。
奇しくも今日は満月だった。
「寒くはございませんか」
騎士のマントを防寒のために体に巻いた殿下に尋ねる。殿下は緩く首を振ってマントを纏ったまま月を見上げた。
「今日は月が綺麗だ」
「……どこかの国では『月が綺麗ですね』は愛の告白になるそうですよ」
殿下がふっと笑う気配がした。
なぜか先ほどのようにストレートに言うよりも緊張した。
「アラリックはどうだ、今日の月は」
「殿下と見る月は欠けていても美しいです」
「そうか」
殿下は私を探すように手を差し出した。
私は何の躊躇もなくその細く白い手を握る。
「さぁ行こうか、アラリック」
「御意」
「そういえば、もう私は殿下ではないな。ルナマリアと呼ぶように」
まるで満月に向かうかのようにまた私は殿下を抱えて走り出した。
呪いでも何でも良かった。この現実が夢でないならば。どうか呪いでも続いてほしい。私を呪い続けてほしい。
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