第94話:カタック・インザ・ダーク
その夜、東京タワーの赤い灯が遠くに瞬く芝公園の一角に、EX-300が音もなく停まっていた。夜風が車窓を叩き、木々のざわめきが静寂を彩る。俺は身を固くして待機していた。
突然、左手首のデバイスが小刻みに振動し、青白い光を放った。リンからのメッセージだ。画面には「35.76, 139.81」という座標が浮かび上がっている。俺は直ちにその数字を検索した。小菅の東京拘置所……ビジェイが拘束されている場所だ。
俺は気持ちを抑えて、街が寝静まる午前2時まで待った。決意を固めてEX-300を始動させ、アクセルを踏み込む。車は夜の街へと滑り出した。
東京の夜景が車窓の外をゆっくりと流れていく。街を彩るLEDの光が車体に映り込み、まるで光の河を進むかのようだ。胸の鼓動が高鳴る。
やがて、東京拘置所の巨大な輪郭が目の前に現れた。月明かりに照らされた高い鉄の柵が冷たく光を放っている。警備は予想通り厳重だ。しかし、俺の決意は揺るがなかった。左手のデバイスで筋出力を5倍にまで上げ、深く息を吸う。今日で体が壊れても構わない。どうせ明日はないのだから。
俺はEX-300を自動運転に切り替えると車から降りた。EX-300はゆっくりと東京拘置所の入り口に向かっていく。強硬突破ではない。一旦、警備員の詰め所前で停止するように見せかけ、警備員を惹きつけた後、徐々に前進させて騒ぎを起こす。その間に、俺は慎重に塀に近づいた。夜の闇に溶け込むように、余計な動きを省いて忍び寄る。そして躊躇なく、塀を飛び越えた。
着地と同時に、けたたましい警報が鳴り響いた。ライトを手にした警備員たちが一斉に駆け寄ってくる。しかし、俺の動きは彼らの予想を超えていた。通常の人間では到底不可能な速度で移動し、警備員たちを振り切ると、真っ直ぐに正門へと向かった。
速度を緩めず、正門の5mほど手前で俺は幅跳びの要領で跳躍する。正門の扉のガラスを粉々に蹴破り、その勢いのまま内部へと侵入した。中にいた警備員たちは、目の前の信じがたい光景に唖然と立ち尽くしている。
俺は息つく暇もなく、リンが送ってくれた正確な座標が示す右手前の収容棟へ走った。運良く1階で止まっていたエレベーターで6階の独房フロアまで上がると、右側の独房に声をかけながら進む。
「ビジェイ! どこだ!」
奥の16番独房から、懐かしい声が返ってきた。
「樹? マジかよ! ここだ!」
声だけでは中の様子が分からない。俺は直ちに次の行動に移る。全身の力を込めて、轟音とともにドアごと引きちぎった。
「行くぞ、ビジェイ!」
「OK、兄弟!」
ビジェイの瞳はこれから起こる事への期待に輝いている。深夜にもかかわらず、ビジェイの声には眠気のかけらもない。
だが、脱出路はすでに塞がれていた。多数の刑務官が俺たちを取り囲んでいる。中には銃を構えている警備員も数名いる。その時、ビジェイが俺の方をちらりと見て、不敵な笑みを浮かべた。
「任せろ!」
彼はどこからともなく小さな袋を取り出す。その瞬間、警備員の一人が叫んだ。
「動くな! 撃つぞ!」
ビジェイが素早く袋を床に叩きつけると、大量の粉末が空中に舞う。鮮やかな黄色い粉塵が瞬く間に廊下一面に広がった。
「撃つな! 粉塵爆発するぞ!」
別の警備員が命令を覆す。
警備員たちは一瞬躊躇し、銃を下げた。
「行くぞ!」
俺は声を上げた。黄色い粉塵に包まれた中、俺たちは息を合わせて動き出す。ビジェイは俺の後ろについて走り、踊るような見事な連携で警備員たちをすり抜けると、非常階段へと逃げ込んだ。
「つかまれ! ビジェイ」
俺は左手を差し出す。ビジェイが両手で俺の左腕を掴む。俺は右手で階段の手すりを握り、遠心力を利用して驚異的な速度で非常階段を下っていく。振り落とされまいと、ビジェイが必死に俺の左腕にしがみついている。
1階にたどり着くと、正面入り口に向かって走りながら、俺は尋ねた。
「さっきの粉はなんだ?」
ビジェイが息を切らせながら答える。
「ターメリック。かける用。日本のカレーに」
外に出た瞬間、冷たい夜風が頬を叩く。だが安堵する間もなく、パトカーと警官の群れが俺たちを取り囲んでいた。サイレンの音が鋭く夜空に響き渡る。
「ビジェイ! 乗って!」
俺は咄嗟に両手を組んで腰を落とす。
「頼んだ兄弟!」
ビジェイは俺の意図を察し、組まれた両手に足を乗せた。俺は全身の力を振り絞ってビジェイを斜め前方へと放り投げる。空中高く舞い上がるビジェイを追うように、俺は全力で走り出すと一瞬で警察の包囲網を突き抜けた。
その時だった。後ろからの銃弾が、俺の左腕を撃ち抜いた。痛みとも灼熱とも分からない強烈な感覚が左腕を貫く。俺は歯を食いしばった。ここで止まるわけにはいかない。
前方にビジェイが落ちてくる。そこに走り込んで、ビジェイを絶妙のタイミングで受け止める。激痛が左腕を走るが、落とすわけにはいかない。俺は責任感だけで痛みに耐えた。
「ナイスキャッチ、樹!」
ビジェイは恐れる様子もなく、むしろ逃走劇を楽しんでいる。
俺は、ビジェイを地面に下ろすと、すかさず力が入らない左腕の先のデバイスを操作する。強烈な痛みに冷や汗が全身から滲む。なんとかデバイスの操作メニューを見つけ出し、痛覚パラメータを0.1に下げることに成功した。
俺たちは待機していたEX-300に素早く乗り込み、アクセルを踏み込んだ。しかし、拘置所の出口は警察に固められていた。
「くそ、どうする……」
俺が焦りを覚え始めたその時、ビジェイが叫んだ。
「樹、あそこだ!」
右側に外との境界を隔てる金網が見えた。EX-300を再び自動運転で円を描くように走らせるプログラムに切り替え、俺たちは車を飛び降りて金網に向かって走り出した。EX-300は無人のまま暴走を続け、警察の注意を引きつける。俺が再び走り幅跳びの要領で金網を蹴破ると、ビジェイもそれに続いた。
俺たちは拘置所の入り口を固める警察隊の背後に回り込んだ。ビジェイが指差す先には無人となった小型の装甲車が見える。二人は隙を突いてそれを「拝借」すると、アクセルを踏み込んで拘置所前から走り出し、小菅ICから首都高に上がった。俺たちは顔を見合わせ、大きく息を吐く。まずは逃走に成功した。
「樹、インド映画みたいだったな!」
ビジェイが興奮気味に言う。
「現実だけどな」
俺が言う。ハンドルを握る左腕に血がつたう感触がする。今まで気づかなかったが、車内にかすかに血の臭いが漂う。血の臭いを嗅ぐのなんて、いつぶりなのか思い出せなかった。
「樹!腕!血!」
ビジェイが血相を変える。彼は自分の服の裾を器用に細く破ると、俺の腕の上部を強く結んだ。その後、ビジェイは装甲車の後部を探し回り、消毒と包帯を持って戻ってきた。
「傷口、どうなってる?」
前方から目が離せない俺はビジェイに尋ねる。
「樹、ラッキーだな。銃で撃たれてこれならかすり傷のうちだ」
ビジェイが俺の腕に器用に包帯を巻きながら答えた。ビジェイはどうも、こういうことに慣れているようだと思うと、感謝とともに少し胸が痛んだ。
しかし、アクション物でよくある、銃で撃たれて血まみれになりながらも、何とか敵を倒すシーン。俺は絶対無理だと思った。痛覚を10分の1に制限した今でも、かなりの痛みが伝わってくる。腕のかすり傷一つでこれなら、血まみれになりながらの激しいアクションなんか絶対に無理だ。
そんな馬鹿なことを考えているとは知らず、ビジェイが俺に尋ねる。
「次はどこに行くんだ?」
「筑波、国家イノベーション機構だ。このまま、量子機械学習AIを破壊する」
俺は答える。
「いいね!」
ビジェイが力強く頷く。
「しかし、無茶苦茶だな」
俺は思わずそう呟いた。今回救出劇、まず、俺の5倍の筋出力が前提だ。今は痛覚を制限しているために感じないが、左腕の銃創に加え、恐らく全身打撲、骨にひびぐらい入っているだろう。
それから、救出したのがビジェイで良かった。インド映画慣れしているためか、俺に捕まって猛スピードで階段を降りても、空中高く放り投げられても、恐怖を感じずにパートナーとして動いてくれた。しかし、ビジェイ以外ではこんなコンビネーションは不可能だろうと思った。
「いや、全然普通。インドではよくあることだよ」
ビジェイが笑った。




