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第93話:別れの朝

深夜、俺は自分の部屋でベッドに座って考え込んでいた。デバイスから漏れる青白い光に照らされながら、操作する指先が少し震える。とまどいながらも、俺はビジェイに連絡を入れた。心臓の鼓動が早くなるのを感じる。


「はい、もしもし」


ビジェイの眠そうな声が響く。


「ビジェイ、悪い。起こしてしまって」


「樹?どうした、こんな時間に」


俺は深呼吸をして、言葉を選んだ。


「例のハックがサイファー社にばれた。今すぐ逃げてくれ」


一瞬の沈黙の後、ビジェイの声が返ってきた。その声には予想外の冷静さ、冷静さと言うより無頓着さがあった。


「あー、そういうこと。いいよ、逃げなくて。逃げてもどうせ捕まるし」


その投げやりな態度に、俺は焦りと苛立ちを感じた。自分の身が危険にさらされているのに、なぜこんなに落ち着いていられるのか。


「いや、危険だ。頼むから逃げてくれ」


「んーまあ、しかたないんじゃない」


ビジェイは溜め息をついた。


「だって、その場で警棒で血まみれになるまで殴りつけられて骨折したり、面白半分に銃殺されたりするわけじゃないんでしょ。ここ日本だし」


相変わらず、ビジェイは落ち着き払っている。


「あと、最後は樹が助けてくれるんでしょ?」


俺は躊躇した。その瞬間、様々な思いが頭をよぎる。俺は澪に言った。「必ず助ける」と。結月、西村さん、齋藤さんにも言った。「まだ終わっていませんよ」と。俺はまだ、何も約束を守れていない。


「ああ、助ける」


そう言うほかなかった。また一つ、確信もないまま約束をしてしまった自分の力の無さが嫌になる。


「じゃあ良かった。ずっと牢屋でカレーが食べられないの困るから。あ、日本のじゃないやつね。お休み」


通話が切れた後、俺は頭を抱えた。ビジェイのなんという軽さ。そして、それ以上に、自分の言葉の軽さ。


俺はすぐにリンの部屋に向かった。ドアをノックする音が、静寂を破る。


「なんですか? お兄様」


眠そうな目をこすりながら、リンが顔を出した。その姿に、俺は胸が痛んだ。


「例のハックがサイファーにばれた。俺も危なくなると思う」


リンの目が一瞬で覚醒した。その瞳に、不安の色が浮かぶ。


「私にできることはありますか」


「いや、明日の朝、登校するときに少し荷物を持って、誰か友だちの家に2,3日泊めてもらって」


「...わかりました」


リンは静かに頷いた。


俺は一瞬躊躇したが、続けた。


「リン、ひとつだけ、お願いがある」


「なんでもします」


リンの瞳に決意が宿る。


「ムジーク社の同僚だったビジェイがおそらく捕まる。そうしたら、彼がどこに拘束されているか、場所を探索して教えてほしい」


この世界の基本情報のすべてにアクセス出来るリンの能力が役に立つはずだ。


「分かりました。必ず、お兄様に連絡します」


「ありがとう」


俺は深くため息をついた。次の言葉が、喉につかえる。しかし、言わなければならない。


「リン。おそらく、この世界線はもうすぐ終わりにしなければならないと思う。残りの時間を悔いの無いように過ごしてほしい」


リンが決意とともに頷いた。


「分かりました。お兄様も気をつけて」


リンの部屋を出た俺は、リビングに向かった。時計の針は午前1時を指している。窓の外は漆黒の闇に包まれ、街の喧騒も静まり返っている。その静けさが、今の俺には不吉に感じられた。


俺はソファに腰掛け、今後の展開を考え始めた。今すぐ時間を戻すこともできる。しかし、今後の戦略を練るためにはこの世界線を最後まで見届けた方が良い。明日の朝、リンを学校に送り届けたら、もうここには戻らず、リンからの連絡を待とう。ビジェイの場所が分かり次第、彼を救出しよう。まず、彼との約束を守る。それすらできないのなら、世界を救うことなど到底できない気がしていた。


もちろん、拘束されたビジェイを救出することは簡単ではない。しかし、もし救出に成功したら、さらに、国家イノベーション機構に侵入して量子機械学習AIを破壊する。この世界線で、試せることは試し、行き着くところまで行ってみたかった。


俺は窓の外を見つめた。リンのこと、ビジェイのこと、そして現実世界で待っている仲間たちのこと。自分の力に対して守るべきものが多すぎて、重圧に押しつぶされそうになる。


結局、俺は一睡もできなかった。東の空が白み始め、新しい一日の始まりを告げている。これが、この世界線で最後の日になるかもしれない。その思いに、俺は身震いした。


朝日が昇り始める頃、リンが部屋から出てきた。彼女の手には少しの荷物をまとめたリュックが握られている。その姿を見て、胸が少し痛くなる。この別れが、一時的なものであることを願いながらも、不安が心の奥底でうごめいていた。


いつものようにEX-300に乗り込み、リンと渋谷の学校へと向かう。車内は静かだった。俺は運転に集中しようとするが、時折バックミラーで後部座席のリンの方を見てしまう。リンも窓の外を眺めながら、時々俺と目が合う。


「今日は天気がいいね」


俺が口を開く。


「はい、お兄様。早く春になるといいですね」


リンが答える。


他愛もない会話が続く。二人とも、切迫したこの状況に踏み込むことを避けているようだった。その代わりに、学校の様子や最近の出来事など、普段通りの話題で時間を埋めていく。


やがて、学校の門が見えてきた。俺の鼓動が徐々に速くなる。


「お兄様、では行ってきます」


いつもより少し長く俺を見て、リンが後部座席から降りようとした瞬間、俺は思わず声を上げた。


「リン」


その声に、後部座席のドアを開けようとしていたリンの手が止まる。俺は振り返り、リンをじっと見つめた。この世界線では最後かもしれない。その思いが、胸を締め付ける。


「髪、少し伸びたか?」


思わず、そんなことを口にしてしまう。リンは少し驚いた表情を見せた後、くすりと笑った。


「少しじゃありません。大分伸びましたよ」


リンの笑顔に、俺は心が熱くなるのを感じる。


「そうか、気がつかなかったよ」


「あと、背も伸びました。2cmですが」


リンが少し誇らしげに言う。俺は微笑んだ。これまでのリンの成長を思い起こした。


しかし、その温かい瞬間も長くは続かなかった。始業を告げるチャイムが鳴り響く。


「では、お兄様、また」


リンが言う。


「ああ、リン、また、新しい世界線で会おう」


俺の言葉に、リンは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに優しい笑顔に戻った。


「はい、お兄様。必ず」


リンが車から降り、学校の門へと向かっていく後ろ姿を、俺は見つめ続けた。その小さな背中に、必ず、また会おうと誓いながら、俺はゆっくりとアクセルを踏んだ。

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