第92話:静かな対峙
夕方、サイファー社で勤務中の俺の左手首のデバイスが震えた。驚いたことに、レイチェルからのメッセージだ。
「OVER 800 CLUBで会いましょう。20時」
その意図を読み取れなかった。例のファームウェアへの仕掛けがばれた可能性がある。だが、エターナル・ソサエティの内部情報を得るチャンスでもある。俺は一瞬のとまどいの後、「行きます」と簡潔に返信した。
20時5分前、俺はOVER 800 CLUBに到着した。前の世界線で、ビジェイと来て酷い目に遭った、高層ビルの最上階にある高級ラウンジだ。入り口で左手首のデバイスをかざすと、偽装された高評価値が表示される。ドアマンは丁重に頭を下げ、俺を中へと案内した。
内部には豪華絢爛とした雰囲気が漂っていた。クリスタルのシャンデリアが天井から優雅に下がり、深紅のカーペットが足元に広がる。そんな中、レイチェルの姿を見つけて俺は思わず足を止めた。彼女は一人でバーカウンターに座り、カクテルを飲んでいた。普段の冷静沈着な彼女からは想像もつかない光景だった。
「座りなさい、真島さん」
レイチェルが俺を促す。俺は隣の椅子に腰掛けた。彼女は普段、長い黒髪を後ろでしっかりとまとめているのだが、今日は珍しく髪を解いている。華やかさを抑えた黒のブラウスに、いつもの知的な雰囲気は健在だ。しかし、彼女の表情はどこか曇っていた。
「評価値は上手く偽装できたみたいね」
レイチェルの言葉に、俺は動揺する。
「大丈夫、どうにもしないから」
レイチェルは続けた。その声には、いつもの冷たさが感じられない。
「昔のことを思い出したわ」
レイチェルはグラスを見つめながら言った。
「あなたとサーバー室で対峙したときのこと、覚えてる?」
俺は無言で頷いた。あの日の緊張感が鮮やかに蘇る。現実世界、2049年12月。俺と澪は、Audreyを救うために不法侵入したサイファー・アーキテクチャ社のサーバー室で、レイチェルと対峙していた。
「あのとき、私たちは自由について言い合いをしたわね」
レイチェルの目は遠くを見つめていた。
「すべての人間は愚か。民衆も、指導者も、結局は自由を正しく扱えない。そう思わない?」
俺は静かに答えた。
「それでも、自由には価値があると思いますよ、俺は」
レイチェルはため息をついた。
「私にも、そう思えた時期があったわ」
彼女は過去を語り始めた。その声には、普段の冷たさとは異なる、かすかな感情の色が読み取れた。
「2030年代、私の国で起きた出来事を知ってる?」
俺は首を傾げた。
「第2の文化大革命とも呼ばれる混乱のことですか?そういうことがあった、とは知っていますが、詳しくは」
レイチェルはゆっくりと頷いた。
「そう。当時の指導者が、公の場から姿を消したことから始まったの」
「失踪したんですか?」
俺は尋ねた。
「いいえ、『姿を見せなくなった』のよ。噂では、重度の認知症か、深刻な身体的疾患だったとか。真相は今も不明だけど」
レイチェルは一息つき、グラスに口をつけた。
「その後、7人の有力者による集団指導体制が敷かれたわ。彼らは国家指導者の意志を継ぐ者たちを自称し、彼の神格化を推し進めた」
「神格化?」
「ええ。街中に彼の肖像画が掲げられ、彼の思想の学習が義務付けられた」
俺は眉をひそめた。
「まるで独裁国家ですね」
「それだけじゃないわ」
レイチェルは続けた。
「対米関係だけでなく周辺国との関係が急速に悪化し、極端な集団主義が台頭したの。個人の権利や自由は二の次。国家や党のために尽くすことが最優先される社会になった」
「まさに第2の文化大革命ですね」
「そう。でも、今回は、テクノロジーを駆使した監視社会。言論の自由は完全に失われ、批判的な声はすぐに摘み取られた。そして、民衆の大半はそれを熱狂的に支持した」
レイチェルの目に、一瞬、悲しみの色が浮かんだ。
「私の父は、その時期に『行方不明』になったの。母と姉と私は、中学生の時にカナダに亡命した」
俺は静かに聞いていた。レイチェルの過去が、彼女の現在の考え方を形作っていることが分かる。
「それなら、あなたには自由の価値が分かるはずです」
俺は真剣な眼差しでレイチェルを見つめた。
レイチェルは苦い笑みを浮かべた。
「確かに、自由は素晴らしいわ。一時的にはね。でも、真島さん。その先に何があるの?」
「自由を与えられた人間がすることは、最終的には二つ。自ら権力を目指すか、自らが選んだ権力に熱狂するか。そして、どちらにせよ、人間は必ず誤る」
彼女は続けた。
「ならば、そもそも世界の統治に人間は関わるべきではない。より賢明なAIがそれを代行するなら、何の問題があるの?」
俺は語気を強めて即座に反論した。
「人間より賢明なAIがあるとして、あなたはそれを制御できますか?」
超知能AIが覚醒した世界線の記憶がまざまざと蘇る。
少し沈黙したあと、レイチェルが話し始めた。
「あなたには明かしておくわ」
「量子機械学習AIには、それをコントロールするコアになるプログラムがあるの。そう、Audreyのようにね」
俺は驚くとともに、確かにそうした仕組みがあっても不思議ではないと思った。
「XEMと呼ばれるシステムよ。ただ、Audreyとは違ってシステムの停止を自律的には判断しない。XEMは、量子機械学習AIに対して絶対的な命令権を持つプログラムよ。XEMを通じてシステム停止を命じれば、システムは止まる。たとえそれが超知能化していたとしてもね」
俺は直ぐに言葉を返すことができなかった。俺が超知能AIに操られた前回の世界線。もしXEMを通じてレイチェルが超知能をコントロールしていれば、なんとかなったのだろうか。どうしても確信が持てなかった。長い沈黙が流れた。
レイチェルが静かに沈黙を破った。
「あなたのコードを読んだわ」
俺は一瞬、息を止めた。
「良いコード。ロジカルで誠実なコード」
レイチェルはグラスを置いた。そして、少し間を置いて続けた。
「感情・感覚データにノイズを乗せる仕組み、本当に巧妙だったわ」
俺は言葉を失った。やはり見抜かれていた。
レイチェルは薄く笑みを浮かべた。
「ファームウェアとアプリの連携。誰も気づかないようにノイズを混入させる。AIの学習を妨げつつ、通常の用途では問題が生じないようにする。見事な仕掛けよ」
「どうやって……」
「私も負けず嫌いなの」
レイチェルは軽く肩をすくめた。
「あなたが何をしたのか、どうしても知りたくて。何日も徹夜で調べ上げたわ」
俺は黙り込んだ。天才的な技術者として知られる彼女だが、それを支えているのはこの努力なのだ。俺は奇妙な敬意さえ感じていた。
「ここであなたを犯罪者にするのは惜しいわ」
彼女は俺をじっと見つめた。
「ムジーク社のビジェイ・クマールによる単独のハッキング。どう?」
俺は即答した。
「それはできません」
レイチェルは小さくため息をついた。
「残念ね」
彼女は立ち上がり、俺に背を向けた。
「姿を消しなさい。明日には黒川に報告するから」
俺は黙って頷いた。
レイチェルは静かに去っていく。その背中を見送りながら、俺は今後の行動を考え始めていた。逃げるのか、それとも正面から立ち向かうのか。
選択の時が迫っている。俺は静かに立ち上がり、夜の街へと歩み出た。




