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第85話:新たな一歩

その日、俺は会社を休んだ。サイファー・アーキテクチャ社に連絡し、体調不良を理由に休暇を取った。心身ともに疲れ果てていた。御厨博士なら、すかさず例の琥珀色の錠剤を渡してくれるところだ。


週末を含めた3日間、俺は部屋に籠もり、考えを巡らせた。新デバイスの感情・感覚データのファームウェアを機能させつつ、量子機械学習AIが超知能に進化することを防ぐ方法はないものか。頭を抱えながら、何度も同じ問題を反芻した。


日曜日の夜、ようやくあるアイデアが浮かんだ。俺はリンを呼んだ。


「リン、ちょっと相談があるんだ」


リンは真剣な表情で俺の前に座った。


「はい、お兄様。何でしょうか?」


俺は超知能AIの誕生を防ぐための自分のアイデアを説明し始めた。


「人々のデバイスから量子機械学習AIに送られる感情・感覚データにノイズを混入させて、AIの学習を妨げる。感情や感覚と他の情報の関係性を崩して、AIが意味のある学習ができないようにするんだ」


リンは眉を寄せて考え込んだ。


「なるほど...」


「どう思う?」


俺は少し不安げに尋ねた。


リンは少し間を置いてから答えた。


「良いと思います。AIの学習を完全に阻害せず、かつ超知能化を防ぐ絶妙なバランスですね。ただ、実装には細心の注意が必要です」


俺は安堵の表情を浮かべた。


「ありがとう、リン。これからは本当に、何事もリンに相談しないとな」


リンは優しく微笑んだ。


「はい、お兄様。私も全力でサポートします。これからも、金曜日の夜に、その週にあったことを教えて下さい。一緒に乗り越えましょう」


リンは完全に俺のカウンセラーになっていた。


翌日の月曜日、俺は早速ムジーク社を訪ねた。ビジェイの協力が必要だった。


オフィスに入ると、ビジェイがいつもの明るい笑顔で迎えてくれた。


「おっ!樹じゃない。久しぶり!元気にしてた?」


「ああ、なんとか」


俺は少し照れくさそうに答えた。


「おや、真島君じゃないか」


平島さんが立ち上がって近づいてきた。


「マグロ漁師が帰ってきているよ」


平島さんが言う。


「神の間違いです、平島さん」


ビジェイが訂正する。


俺は以前自分が座っていた席に目をやった。そこには見知らぬ女性が座っていた。長い髪を後ろで結び、丸い眼鏡をかけている。


「ちょっと来てよ、近森さん。紹介するから」


平島さんが声をかける。


女性が立ち上がり、部屋から出てきた。


「こちら、真島君。ちょっと前までここで働いていて、今はサイファーに戻っているんだ」


「真島です。よろしくお願いします」


俺は挨拶した。


「よろしく、真島君」


そう言いながらも、近森さんは少し怪訝な表情を浮かべた。


「あ、真島君、もとはクオンタムの人だから」


ビジェイが謎の釈明をした。


「あ、そうなの。じゃあ、よろしくね」


近森さんの表情が和らいだ。


「お会いできて嬉しいです。今回は、どちらに行っていたんですか?」


俺は尋ねた。


「アフリカを縦にね。最後は南アフリカに少し長くいたの」


「へぇ、すごいですね」


俺は感心した。俺にとってはアフリカは未知の世界だ。それだけで尊敬の念を抱いた。


皆が席に戻ると、俺はビジェイに話を切り出した。


「ビジェイ、ちょっと協力してほしいことがあるんだ。申し訳ないんだけど」


「何? 怪しいこと?」


ビジェイが笑う。


「実は、そうなんだ」


俺は少し言いにくそうに答えた。


「いいよ、どうせ怪しいインド人だからね」


ビジェイが自虐的に言った。


「詳細は後で送るけど、ライフコードの評価値表示のアプリにあるコードを仕込んでほしい」


「ほう、怪しいね」


ビジェイが笑う。


「平島さん、いいですか?何か樹が怪しいことしろって言ってますけど」


ビジェイが大声で言った。


「いいよ、全部ビジェイのせいにするから」


平島さんが軽く答えた。


俺は安心した。ビジェイが協力してくれるのは大きな助けになる。


「そうだ、平島さんにもお願いがあって」


俺は続けた。


「何でもやるよ、ただし、面白そうならね」


平島さんの目が輝いた。


「実は、ドラマを作ってほしいんです。総選挙に間に合うように」


「総選挙…誰に聞いたのかな?」


ニヤリと平島さんが笑う。そうだ、この世界線ではまだニュースになっていなかった。


「いや、知り合いに、そういうのに詳しい人がいて」


と俺は誤魔化した。


「まあ、それはそれとして、面白そうじゃない。何を企んでいる?」


平島さんが話を前に進めてくれた。ほっとした。


俺は自分の計画を説明した。政治参加への意欲が低下する中で、それと気づかれないように、人々が評価値を気にせずに自分の考えに従うよう啓蒙したいのだと。


「なるほどね。いわゆるプロパガンダだな」


平島さんが頷いた。


「そうだね、あからさまなのは無理だから、適当な歴史上の人物をベースにすれば、当局にはばれにくいだろうね」


「ただ、それなりの制作費は必要だ。よくできたプロパガンダは純粋な娯楽と見分けがつかない、とはよく言ったものだ」


平島さんが考えを進めていく。


「詳しくは言えませんが、資金は出せます。例えば10...億円とかどうでしょう」


俺は提案した。正直、100億でも問題なかった。なにしろ左手のデバイスで所持金を操作するだけなのだから。


「おいおい、そんなにはいらないよ」


平島さんが笑った。


「選挙までだから、1か月ぐらいで急いで仕上げるんだろう?じゃあ、オールAI生成のCGでやるしかない。それなら、その十分の一で足りるよ」


「そうなんですね。全く相場が分からなくて...」


俺は少し恥ずかしそうに言った。


「昔の仲間に声を掛けて、監督は僕がやるとして、脚本、音楽、特にメインテーマはAIじゃなくて人に頼みたいね。あとは優秀なAICGのスタジオを探して。それよりまずは、内容だね」


平島さんが考えを巡らせる。


「とにかく、他人の定めた基準ではなくて、各人が自分の信念に基づいて行動してほしい、というのが伝えたいメッセージなんです」


俺は説明した。


「じゃあ、マンデラがいいんじゃない?」


背後から近森さんが提案した。


俺は驚いて近森さんの方を振り返った。


「マンデラって、確か、南アフリカの大統領だった、ネルソン・マンデラですか?教科書に出てくる」


俺が確認した。


「そう。アパルトヘイトに反対して、27年間投獄されても諦めず、信念を貫いた人よ」


近森さんが説明した。


「それはいいね、近森さん、監修してくれる?」


平島さんが提案した。


「現地で資料集めたりしていいならやりますけど」


「OK、お金は真島君が出してくれるみたいだから」


平島さんが答える。


「もちろんです」


俺は即答した。


話が進みそうで、俺は安堵した。


「そうだ、でもインパクトを大きくしたいなら宣伝をする必要があるけど、どうかな」


平島さんが言った。確かにそうだ。見てもらえなければ意味が無い。


「これも、全く相場がわからないんですが、どうでしょう」


俺は素直に平島さんに尋ねた。


「そうだね…『5』」


俺は驚いたが、平島さんの表情を見る限り、まったく冗談ではなさそうだった。


「分かりました。スポンサーに伝えます」


俺は言った。制作費よりも宣伝費が5倍というのには面食らったが、平島さんを信じることにした。


「今日は来て良かったです。いろいろ、肩の荷が下りました」


ムジークを出ようとすると、吉本さんに呼び止められた。


「樹くん、ちょっといい?」


吉本さんが小声で言った。


「平島さん、制作費のほう『1』って言ったけど、絶対やりたいことが増えて予算超えるから、とりあえず、『2』もらっとける?余ったら返すから」


「分かりました。努力します」


俺は答えた。吉本さん、あいかわらず有能な人だ。


ムジークを後にする俺の胸には、新たな希望が芽生えていた。これは大きな一歩になる。エターナル・ソサエティとの戦いは、再び始まったばかりだ。しかし、仲間たちの協力を得て、俺は少しずつ自信を取り戻していた。

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