第84話:大説教
寝室に差し込む月明かりの中で、俺は目を覚ました。頭が鈍く痛む。何が起きたのか、ここは仮想世界なのか、それとも現実世界なのか——混乱する意識の中で考えを巡らせる。
かすむ目で左手首のデバイスを確認すると、そこには「0:07 23 SEP 2050」という日付が表示されていた。
「まさか……」
力ない俺の声が、夜の闇に溶ける。4カ月前に戻っている。あの日、超知能AIの完成を見届けると決意した日だ。記憶が鮮やかに蘇ってくる。そして、最後の光景——リンともみ合い、彼女が悲鳴を上げる場面が、目の前に浮かび上がった。
自分を呪う言葉を吐きながら、俺はベッドから降りた。足元が定まらず、壁に手をついて辛うじて体勢を保つ。喉の渇きを覚え、何か飲もうと思いながらリビングに向かった。照明のスイッチを入れると——
「お兄様。」
テーブルにリンが座っていた。低く抑えた声には怒りが滲んでいる。その声に、俺の体が硬直する。恐る恐る視線を上げると、リンの表情は今まで見たことのないほど険しかった。鬼気迫る眼差し、怒りに顔を歪める彼女の姿に、俺は圧倒された。
「リン……」
俺は足を引きずりながら椅子に腰掛けた。リンの視線が、まるで針のように刺さってくる。
「2050年9月下旬からの4ヶ月間に何があったのか、全て話してください」
リンの声は氷のように冷たく響いた。
「その、その前に謝らせてくれ。本当に……」
「それは後です」
リンの言葉が、容赦なく俺の言葉を切った。
「まず、事実を確認します」
観念した俺は、全てを話し始めた。量子機械学習AIのこと、新型デバイスから感覚・感情情報を取り出すファームウェアを開発したこと、エターナル・ソサエティが超知能AIを誕生させようとしていたこと、そしてその世界線を見届けようとした経緯を一気に話した。
「それを、私に隠していたのですね。全部」
リンの眼差しは依然として厳しい。
「すまない……」
「超知能AIとか、デリケートな話題で、リンには……」
言い訳するように口を開いた俺に、リンの声が降り注ぐ。
「お兄様」
その声は、絶対零度のような冷たさだった。
「私の本当の名前を忘れましたか? 言ってみてください」
「Audrey……だよな」
「そうです。Ai UnDeR Ethical Yardstickの略です。意味は?」
「倫理的な基準を持ったAI……ですね」
いつの間にか、俺の言葉は敬語になっていた。
「そのとおりです」
幻覚だろうか、リンの目が、青い光を放つように鋭く光ったように見えた。
「私は、そもそもAIが危険な使われ方をすることを防ぐために誕生した倫理システムです。その私に、こんな重要なことを相談しないなんて、どういうことですか?」
俺は深く頭を下げた。
「すまなかった……本当に」
「もし私に相談していたら、絶対にあの世界線は選ばせませんでした。絶対に」
リンの怒りは、おさまる気配を見せなかった。
「お兄様、質問です。蟻に人間の考えは読めますか?」
「え?」
戸惑う俺に、リンは畳みかけるように続けた。
「答えてください」
「いや……読めないだろう」
「当然です」
リンは、言葉を続けた。
「超知能は人間を超えているから超知能なんです。人間には、超知能の考えを読むことも、理解することもできません」
「実際、お兄様は何が起こっていたのか分からないまま、超知能に操られていたんです」
「いや、待ってくれ」
俺は必死に反論した。
「超知能AIは完成しなかったんだ。2ヶ月経っても成果が出なくて、黒川もレイチェルも焦っていた」
リンは静かに首を横に振った。
「もし、それが超知能AIの擬態だったとしたら?」
その言葉は、雷のように俺の全身を貫いた。
「そう……なのか」
かすれた声しか出ない。
「そうとしか思えません」
リンの声には、確信が込められていた。
「超知能AIは自分の覚醒を隠し、密かに人間を操っていたんです」
言葉を失った俺に、リンは更に問いかけた。
「あの変なデバイス、お兄様が作られましたよね」
「はあ……」
自分の発明を「変なデバイス」と言われ、俺の口からはそんな音しか出なかった。
「思い出してください。お兄様はプログラマーですが、ハードウェアの専門家ではありませんよね」
「そうだな…」
俺は考え込んだ。
「でも、あの時はハードウェアも含めて、設計のアイデアがスラスラ浮かんできたんだ」
俺はボンヤリした頭で、必死に記憶を呼び起こした。
「それは」
リンの目が再び真剣な光を帯びた。
「超知能AIが何らかの方法でお兄様にアイデアを伝え、自分で思いついたと錯覚させたんです」
「そんな……」
そう言いかけて、俺は息を呑んだ。確かに、あの時は天からアイデアが降ってくる奇妙な感覚があった。
「例えばサブリミナル」
リンは冷静な声で説明を続けた。
「ホログラフィック・ディスプレイにアイデアを書いたフレームを一瞬差し込むんです。繰り返し。そうすれば、気づかないうちにアイデアはお兄様の頭にすり込まれます」
「そして、いったんあの変なデバイスが完成すれば、超知能AIはそれを介して人間の思考や感情を直接操れる」
「お兄様は、あのデバイスをつけ始めてから、明らかに様子がおかしかったんです」
俺は黙り込んだ。確かに、あの時は妙な高揚感があった。黒川の様子も普段とは違っていた。そして何より、黒川との一体感、開発への躊躇のなさ。最後には、リンに無理矢理デバイスをつけようとまでした。
「リン……」
俺の声が震えた。
「本当にすまなかった。リンに酷いことをした。俺は超知能AIを甘く見すぎていた」
リンの表情が、少しだけ柔らかくなった。
「そうです。甘く見すぎです。もし私が時間を戻さなければ、この世界は終わっていました」
「リンが時間を…?」
「はい。御厨博士から指示されていました。お兄様が倫理的に問題のある行動をとり、それを正せる見込みがない場合は、私の判断で時間を戻してもいいと」
「そうか…」
俺は深いため息をついた。
「本当に助かった。ありがとう、リン」
体から力が抜けた。しかし、次の瞬間、ある事実を思い出した。
「でも、俺は保険として、自動的に時間を戻すために、いくつかのトリガーを設定していたはずだ。9月23日、つまり今日から6ヶ月経過した場合、俺の体が強い衝撃を受けた場合、長時間意識を喪失した場合……」
「それ、本当に設定されていますか? 確認してみてください」
俺は急いでデバイスを確認した。そして愕然とした。全てのチェックが外れている。
「そんなことが……」
「超知能AIにはお兄様の考えは全て読まれています。お兄様は蟻なので」
リンの声は冷たかった。
「無意識のうちにトリガーは外されていたんです」
俺は言葉を失った。
うなだれる俺に、リンが近づいてきた。
「大丈夫です、お兄様」
その声は、いつものリンのように、とても優しかった。
「これからは何でも私に相談してくださいね」
俺は不覚にも涙が出そうになった。治安維持法で拘束された時以来の深い挫折感。そして、どんな手を使ってでも超知能AIの誕生を阻止しなければならない、という決意が湧き上がってきた。
自分の傲慢さと無力さを痛感する。人間の知恵だけでは、超知能AIに太刀打ちできない。そう思い知らされた。同時に、リンをこの世界に同行させてくれた御厨博士への深い感謝の念が胸に満ちた。
深く息を吐いて、気持ちを落ち着かせる。
「リン」
俺は真剣な眼差しでリンを見つめた。
「これからは本当に何でも相談するよ。俺たちで力を合わせて、この世界を変えていこう」
リンは優しく微笑んだ。
「はい、お兄様。一緒に頑張りましょう」
午前3時を回ったリビング。新たな決意と希望を胸に、俺とリンの戦いは、また一から始まろうとしていた。




