第79話:呼び出し
その日の午後5時を過ぎたころ、俺の左手のデバイスが振動した。学校からの連絡だ。
「吉岡さんのお兄さんですか?リンさんが部活でちょっと怪我をしまして。迎えに来ていただけますか」
俺は一瞬で凍りつき、心拍数が上がる。
在宅勤務中だった俺は、何も持たずに慌てて吉岡家を飛び出した。EX-300に飛び乗り、渋谷の高校へと急いだ。
高校に到着すると、俺は通りがかりの生徒に場所を聞いて保健室に急いだ。ノックをして保健室のドアを開ける。リンがベッドに横たわっている姿が目に入った。目は開いているが、どこかうつろな様子だ。
「大丈夫か?」
俺は静かに声をかけた。
「はい...」
リンの返事は弱々しかった。
その姿を見て、俺の胸が締め付けられるような感覚に襲われた。リンの体が傷つくことに俺は予想以上に動揺していた。
「お兄さんですか? 心配でしたね」
ベテランらしい女性の保健の先生が説明を始めた。
「生徒の話では、部活中にシュートをしようとした時にブロックされて、跳ね返ったボールが頭に直撃したそうです。軽い脳震とうを起こしたようですね」
「大丈夫でしょうか」
俺は不安に駆られて尋ねた。
「手足の麻痺もないようですし、ものもしっかり見えているようすから、大丈夫です。2、3日休んで、少しずつ運動を再開しましょう」
先生は俺を安心させるように、的確に答えてくれた。
俺は少し安心したが、まだリン特有の不安は残っていた。リンの体は人間のものだ。しかし、中身はAI。通常の脳とうの診断だけで十分なのか、俺には判断がつかなかった。
帰りの車の中、俺はバックミラー越しに見える後部座席のリンに声をかけた。
「本当に大丈夫か?」
「はい、でも、びっくりしました」
まだうつろな感じのリンは、ゆっくりと答えた。
「今までに無かった感覚が、体の中に残っています」
その言葉を聞いて、俺は複雑な思いを抱いた。リンが新しい感覚を得たことは、ある意味で成長だと言える。しかし、それが痛みや不快感だと思うと、心が痛んだ。
翌朝、リンはすっかりいつも通りの元気さを取り戻していた。しかし、俺の目には、以前とはどこか違うリンの姿が映った。なぜか、より人間らしくなったように思えた。
例えば、これまでは、階段を上る時と降りる時の速度が同じで、どこか機械的な感じがしたが、今は降りるときには慎重さが感じられる。気分転換に一緒に買い物に行った時も、以前は車道ぎりぎりのところでも平気で歩いていたのに、これ以降、車道からずいぶん離れて歩くようになった。
ある夜、食事を取りながら、俺はリンと話を始めた。
「その後、体は大丈夫?」
「はい、部活にも復帰して、ほとんど普通に練習できています」
リンは答えた。しかし、その声色はどこか曇っていた。
「ただ...」
リンが言葉を続けた。
「何か、未知の感覚が体の中にずっと残っています」
「どんな感覚だ?」
俺はその未知の感覚に興味を持った。
「速いボールが来ると、何か嫌な感じがします」
リンは困惑した表情で説明した。
俺は納得した。リンが感じているのは、まさに人間らしい感情だ。それを理解させるのは、俺の役目だと感じた。
「それは、多分、恐怖心だ、リン」
「恐怖心...」
リンは言葉を反すうするように繰り返した。
「人間なら誰でも持っている気持ちだよ」
俺は優しく説明を続けた。
「人間は痛みの感覚は嫌だし、感じたくない。痛いかもしれない、と予測することで、嫌な気持ちが起こる。それが、恐怖心なんだ」
リンは真剣な表情で聞いていた。
「『怖い』ということですよね。『怖い』は知ってはいましたが、こういう感覚なのですね」
俺は頷いた。
「そうだ。恐怖心は人間にとって重要な感情なんだ。危険を避けるために必要な感覚だからね。むしろ、人間に限らず生物なら一般的に持っている、最も古くからある感情なのかもしれない」
リンは少し考え込んだ後、顔を上げた。
「この嫌な気持ちは恐怖心であることが分かりました。理解できれば、対処できます。きっと大丈夫です」
その夜、俺はまた考え込んでいた。体を持つことで生じる恐怖心。これは単なるAIによる学習ではない。リンは、まさに人間として成長しているのだ。
しかし、同時に、俺は不安も感じていた。AIであるリンが、これほどまでに人間らしくなっていくことに、どこか人間とAIの境界が揺らぐ感覚を覚えずにはいられなかった。それでも、リンの成長を見守り、サポートすることが自分の役目だと俺は思い直した。




