第78話:評価の檻
9月に入っても、東京の暑さは容赦なかった。連日40度を超える猛暑が続き、熱放射の少ない機能性アスファルトでの舗装が義務化されてずいぶん経っているとはいえ、道路から立ち上る熱気が街全体を包み込んでいた。この暑さの中、国家イノベーション機構(NIA)は7月から9月までの在宅勤務を無制限に認めていた。
俺は、徐々にNIAからフェードアウトするように在宅勤務を選択していた。毎朝、リンを渋谷の学校に送り、そこから筑波のNIAまでは車で1時間以上かかる。自動運転で論文を読むこともできたが、NIAに行っても特にすることもなく、話しかける人もいない。正直、以前働いていたムジーク社が懐かしかった。
そんなある日の夕方、左手のデバイスが震え、ビジェイからのメッセージが入った。
「今夜暇? 面白いところ行こうよ」
「良い感じの服着て来て。無ければスーツでいいから」
約束の時間に六本木に到着すると、すでにビジェイが待っていた。俺がスーツを着ているのに対し、ビジェイは北インドの民族衣装である、鮮やかな青のクルタを身にまとっていた。
「久しぶり、樹」
ビジェイが笑顔で迎えてくれた。そして、周りを確認してから小声で尋ねた。
「例のアプリ、インストールしてある?」
例のアプリとは、考えるだけで偽装評価値を出せるアプリのことだ。俺は無言でうなずいた。
ビジェイに導かれるまま、六本木の高層ビルに入る。エレベーターで最上階を指定すると、ボタンの横に”OVER 800 CLUB”という金色の文字が刻まれているのが目に入った。
最上階、エレベーターの扉が開くと、別世界のようなゴージャスな内装が広がっていた。クリスタルのシャンデリアが天井から優雅に垂れ下がり、深紅のカーペットが足元を覆っている。入り口には背の高い店員が立っており、厳しい目つきで来訪者をチェックしていた。
「評価値をお願いします」
店員が表面上は丁寧ながら、幾分かと鋭さを隠した声で言う。
俺は緊張しながら、左手首のデバイスを示した。850という数字が浮かび上がる。ビジェイは「なんだよ、面倒臭いな」とでも言いたげな表情で、チラッと評価値を見せた。店員は一瞬眉をひそめたが、すぐに表情を和らげ、
「どうぞお入りください」
と言った。
ビジェイの堂々とした態度に助けられ、俺たちは無事に通過できた。
ドアをくぐると、広々としたラウンジが目の前に広がった。大きな窓からは東京の夜景が一望でき、街の灯りが宝石のように輝いている。カウンターでは洗練されたバーテンダーが複雑な動きで飲み物を作っていた。
「どうだい?樹。おもしろいだろう?」
ビジェイが興奮気味に言った。
「ここはOVER 800 CLUBといって、評価値が800以上の人間だけが入ることを許されているラウンジなんだ」
確かに、周りの人々は皆、身なりが良かった。高級ブランドのスーツやドレス、きらびやかなアクセサリーが目につく。しかし、俺が想像していたような、社会を支配している傲慢な人々の集まり、という雰囲気ではなかった。むしろ、ビジェイの派手な態度が場違いに見えるほどだった。
そうしているうちに、スーツがあまり板についていない老紳士と目が合った。老紳士はゆっくりと近づいてきて、丁寧に頭を下げた。
「こんばんは、広瀬と申します」
その穏やかな声に、俺は緊張がほぐれるのを感じた。
「真島です」
俺も頭を下げて答えた。偽名にすべきだったかな、とも思ったが老紳士の人の良さそうな笑顔を思えば、これでよかったと思い直した。
「広瀬さんは、お仕事は何をされているんですか?」
俺は好奇心から尋ねた。
広瀬さんは少し照れくさそうに微笑んだ。
「実は、宮内庁に和菓子を納めているんです。真島さんは?」
「IT企業で働いています」
俺は答えた。
「それは素晴らしい」
広瀬さんは優しく微笑んだ。
「若い方がIT業界で活躍されているのは、本当に頼もしいですね」
その言葉に、俺は少し恥ずかしさを覚えた。実際の仕事内容を考えると、褒められるようなものではない気がしたからだ。
一方、ビジェイは様々な人に声をかけ、時には流暢な英語で、時にはわざとらしい片言の日本語で会話を楽しんでいるようだった。
俺は再び広瀬さんに向き直り、この機会を逃すまいと勇気を出して質問した。
「広瀬さんは、ライフコードについて、どうお考えですか?」
広瀬さんの表情が一瞬曇った。
「困りましたねえ」
広瀬さんは、ため息交じりに言った。
「あれが導入されてから、宮内庁への納入条件に店主の評価値が800以上というものが加わったんです」
広瀬さんは静かに、しかし苦しそうに続けた。
「本当に大変でした。お酒も控えめにし、毎週ボランティアに通い、できる限りの寄付をし、町内会では役員を引き受け...とにかく必死でした。でも、先祖代々続く仕事がかかっているから、仕方がないんです」
「なるほど、大変そうですね」
俺は同情の念を込めてそう返した。
広瀬さんは少し恥ずかしそうに続けた。
「こういう場所も、正直慣れませんね。でも、ここならお酒を飲んでも評価値が下がりませんから。月に一度、自分へのご褒美として来ているんです。それでも、何となく居心地が悪くて...」
俺は広瀬さんの言葉に深く考え込んだ。評価値が上位1%に入るような人々でさえ、このシステムに苦しめられているのだ。
そんな会話をしながらラウンジを眺めていると、突然、ビジェイの方に目が引き寄せられた。体格の良いスーツの男が数人、彼に近づいていく。直感的に不味い状況だと感じた俺は、広瀬さんに軽く頭を下げ、ビジェイの元へ急いだ。
近づくにつれ、緊迫した空気が伝わってきた。
「あなた、お名前は?」
スーツの男の一人がビジェイに尋ねていた。
「ムトゥサミー・アイヤルと申します。チェンナイで貿易商を営んでおります」
ビジェイは奇妙なイントネーションの日本語で答えた。
「しかし、あなたは入り口で評価値を提示していましたね。外国人には評価値が付与されていないはずですが」
男が追及するように言った。
ビジェイの表情が一瞬凍りついたが、すぐに取り繕った。
「あぁ、失礼しました。実は国籍は日本なんです。本名は山本・ラージ・太一と申します。群馬県生まれの上州っ子です」
今度は完璧な日本語で答えた。
明らかに怪しまれているビジェイ。彼は俺に視線で「逃げろ」と合図していた。俺は静かに左手のデバイスを操作し、身体能力の3倍に設定する。
「国民IDかエグゼクティブ・ビザのどちらかを見せていただけますか?」
男が厳しい口調で迫った。
「あなたも」
男は俺の方を向いた。
「評価値を確認させてください」
緊張が最高潮に達したその瞬間だった。
ビジェイが持っていたシャンパングラスを床に落とした。派手な音とともにグラスは粉々に砕け、周囲の注目を一身に集めた。
その混乱に乗じて、ビジェイは俺の背中を強く押した。
「逃げろ!」
小声で叫んだ。
俺は人々の間を縫うように走り出した。出入り口に立ちはだかるガードマンに、申し訳ない気持ちを抑えつつ飛び込むと、数人がボーリングのピンのようにはじけ飛んだ。俺はそのまま、非常階段へと飛び込んだ。
階段を猛スピードで駆け下りる。心臓の鼓動が耳に響き、息が上がる。しかし、止まるわけにはいかない。
ビルを飛び出すと、そのまま走り続けた。人々の視線など気にしている場合ではない。ただひたすら、その場から遠ざかることだけを考えた。
しばらく走り続けて、ようやく安全だと感じた時、俺は立ち止まった。激しい呼吸を整えながら、左手首のデバイスで、平島さんに連絡を入れた。
「大変です!ビジェイが六本木で捕まりました」
俺は息を切らしながら報告した。
予想に反して、平島さんの声は落ち着いていた。
「またか。あの不良息子には本当に手を焼くよ」
平島さんはため息交じりに答えた。
その後、平島さんは様々な関係先に連絡を取り、深夜になってビジェイは拘留されていた麻布警察署から無事に釈放されたとの連絡が入った。六本木一丁目のカフェで事態の推移を見守っていた俺は、ようやく安堵のため息をついた。
家に戻る途中、菓子職人の広瀬さんとの会話が頭をよぎった。評価値が高い人々でさえ、決して幸福とは言えない状況に置かれている。このシステムは、いったい誰のためのものなのだろうか。
そんな思いを抱えながら、俺は静かな夜道を歩いた。東京の夜景が遠くに輝いている。その光の中に、俺たちの目指す未来はあるのだろうか。そんな疑問を胸に、俺は家路を急いだ。




