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第77話:記憶の残照

土曜日の午後、俺とリンは吉岡家のリビングで春山いちかを迎えた。セミロングの黒髪を後ろで一つ結びにし、日焼けした肌が印象的な少女だった。その姿を見て、俺はすぐにアウトドアの運動部に所属しているのだろうと察した。


「いちかさんは…陸上部?」


俺の推測に、いちかは驚いた表情を見せた。


「よく分かりましたね。短距離と幅跳びをやってます。お兄さん..も、陸上とかやってたんですか?」


いちかが俺の顔を見る。


「いやー、部活はやる時間がなくて。足は速かったんだけど、球技はまるっきりダメだね」


少し場の空気を和らげようとしてみる。


「リンちゃんはバスケ凄いのに、きょうだいでも全然違うんですね。お顔も、リンちゃんはおめめクリクリだけど、お兄さんはシュッとしているっていうか」


いちかも場の空気を和らげようとしてくれたが、意図に反して場の空気は凍り付いた。リンの外見、つまり結月と俺は縁もゆかりのない人間だから似てないのは当然だ。結月とは精神的にはずっと兄妹だと思っていたのだが、そんなことはこの際、助けにならない。


「昔からよく言われるのよ。私はお父さん似、兄はお母さん似、って」


リンが適切にフォローを入れてくれた。ありがたみと彼女の成長を感じる。


土曜日の午後の静かなリビング。リンが入れてくれた紅茶を3人で飲みながら、いちかは部屋を見渡した。そして、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。


「学校の廊下で、初めてリンちゃんを見たとき、突然思い出したんです。ユヅのこと。フラッシュバック?っていうのかな」


いちかの瞳には、遠い日の光景が映っているようだった。


「小学校の時、ユヅとは一番仲が良かった。でも、どうしてなのか、ユヅのこと、ずっと忘れていた」


「昔はユヅの家にもよく行ったはずなので、ここにくれば何か思い出すと思って」


いちかの言葉に、俺は深く考えを巡らせた。結月の記憶はシミュレーション内での彼女の「不存在」に従って、消されているはずだ。いちかが結月のことをずっと忘れていたのも、その影響だろう。恐らく、世界の整合性チェックのルーチンに従って、辻褄が合わなくなる記憶からさかのぼって消去されているのだろう。しかし、少なくともいちかの中には確かにユヅの記憶が残っていた。


「どう? 見覚えある?」


俺の問いかけに、いちかは静かに頷いた。


「はい。ボンヤリとですが、懐かしい感じがします。ユヅの部屋に行けばもっと分かるんですが」


いちかの言葉に焦りを感じる。仮想世界ではユヅの部屋の再現度は低い。


「いやあ、今はリンが使っていて、大分テイストが変わっちゃったからどうかな」


俺は、それとなく難色を示した。いちかはそのあたりの感覚には優れていて、それ以上話題を広げることをしなかった。


いちかがふと、口を開いた。


「ユヅはいま、どこにいるんですか?」


いちかの問いに、俺は用意していた答えを告げた。


「彼女はいま、イギリスに留学している。リンと入れ替わりでね」


「元気に...していますか?」


「ああ、元気にしている...はずだよ」


その言葉を口にしながら、俺は胸に鈍い痛みを覚えた。現実世界では結月は俺とともに治安維持法で拘束され、今はどこかに拘束されているはずだ。


沈黙が広がる中、リンが巧みに話題を変えた。


「そういえば、結月といちかちゃんはどうやって友だちになったの?」


いちかの表情が和らぐ。懐かしい記憶をたどるように、彼女は語り始めた。


「ユヅは昔から機械?が好きで、ちょっと変わってたんです。で、体も小さかったからクラスでは...」


「いじめられていた?」


俺の問いに、いちかは首を横に振った。


「いえ、それはちょっと違ってて、確かにユヅに意地悪する子は何人かいました。でも、ユヅはそれに必ず反撃するんです。何回意地悪されても、必ずやり返す。相手が、止めろって言うまで。私はユヅのそういうところも好きでした」


いちかは言葉を続けた。


「思い出してきました。仲良くなったのは、運動会の一輪車です」


「一輪車!?」


俺は思わず笑ってしまった。申し訳ないが、あのギークの結月が一輪車に乗ってる姿を想像すると、そこには違和感しかなかった。


「ユヅは怖がりで、どうしても一輪車にのれなかったんです。でも、負けず嫌いだから、ずっと放課後も練習してて。私は割とすぐに乗れたんで、先生に言われて、ユヅに乗り方を教えていたんです」


「そう、それがとにかく凄くて。ユヅは失敗しても失敗しても、何度でもやるんです。その姿に感動して。失敗したことにへこたれない、というか、失敗すると『分かったぞ』って、それを次に試すって感じで。自分は運動も勉強もそこそこはできたけど、こんなやり方で、何かを徹底的にやったことはないなって思って」


「大げさですけど、人生が変わったというか」


俺はユヅの姿を思い浮かべ、思わず微笑んだ。確かに、結月らしい姿だ。発想が全くプログラマーのそれだと思った。どんなに完璧だと思っても、プログラムにはエラーがつきものだ。そしてそれは、100%自分の責任だ。泣いても仕方がない。淡々と、エラーを直しては、またプログラムを走らせる。そしてまたエラーがでる。その繰り返しを、完成までやり抜くしか方法はないのだ。


それから俺たちは、結月についての他愛もない思い出話に時を費やした。


「ユヅの連絡先、分かりますか?」


いちかの問いに、俺はまた、用意していた言葉を返した。


「それが、連絡は取れないんだ。向こうから連絡してくることはあるんだけど、ほら、あいつ変わっているから」


「じゃあ、もし連絡が取れたら、私がユヅに会いたがっていたと伝えてください」


いちかは懇願するような眼差しで俺を見つめた。


話を終えて、リンがいちかを途中まで送っていくと家を出た後、俺は考え始めた。たとえシミュレーション内で、体系的に記憶の消去が行われていても、その人の人格に影響を与えるような深い記憶までは消すことができない。ユヅという人格は、いちかの人格の一部になっているのだ。人間が生きるということの意味は、こういうことなのかもしれない、と思った。


夕暮れ時、リンが戻ってきた。


「お兄様、いちかちゃんとの話、どう思いましたか?」


俺は窓の外を見つめながら答えた。


「人の記憶や感情は、簡単には消せないものなんだな。果たして、俺は誰かの記憶に深く残っていくのか、不安になったよ」


それは俺の本心だった。子どもの頃は「飛び抜けて理数系の成績が良い人」で最近は「ライフコード開発のリード・プログラマー」だ。どちらも表面的な肩書きで、俺でなくても誰かが果たせる役割に過ぎなかった。


「大丈夫です。お兄様の記憶は、澪さんや結月さんの中には残っているはずですよ。もちろん、私の中にもです」


「そうだといいな」


そう答えながら、俺はリンの「心」が日に日に豊かさを増していることを感じていた。

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