第68話:リンと結月
薄暮の東京が窓の外に広がっていた。7月末の盛夏とはいえ、日が落ちれば少し空気は和らぐ。俺は過ぎゆく2週間の変化に思いを巡らせていた。リンが学校に通い始め、俺も働き始めてからというもの、時は早く流れていくばかりだった。天井に埋め込まれたリビングの照明が静かに部屋を照らしている。
「学校はどう?慣れてきた?何が一番面白い?」
俺はリンに尋ねた。リンは少し考え込んでから、笑顔を浮かべた。
「慣れてきました。全て面白いですが、やっぱり部活動が一番楽しいです」
「どんなところが?」
俺は身を乗り出した。
「お兄様の言ったとおり、バスケットボールはシュートだけのスポーツではありませんでした」
リンの瞳が輝きを帯びる。
「私は背が低いので、相手選手が前に立っているとシュートが成功する確率は5%以下になります。つまり、その前に、相手のマークを外すことが重要になります」
「確かに」
俺は頷きながら耳を傾けた。
「そのためには、ボールをまわして相手を崩すことが必要になりますが、相手の動き、仲間の動きを予測しなければなりません」
リンは熱心に説明を続けた。
「特に、仲間の動きを予測するためには、みんなが何を考えているのかを理解する必要があります。そのためには、目線の動きも重要な役割を果たします」
「そうやって、仲間の心を推測することは、シュートを入れることよりもずっと複雑で、でも面白いことです」
俺はリンの成長の早さに目を見張った。人間の心を推し量ること、それが人間同士の関係において重要であることを、リンはバスケットボールを通じて学びつつあった。AIであるリンがこれほど早く人間の機微を理解し始めるとは、予想もしていなかった。
「そういえば、今日、ちょっと気になることがありました」
リンが思い出したようにそう言うと、突然、表情を変えた。
「なに?」
俺は身構えて尋ねた。
「廊下ですれ違った女の子から呼び止められて、『あなた、ユヅだよね』と言われました」
俺の体が一瞬、硬直した。不測の事態が始まろうとしているのかもしれない。ユヅ、つまり吉岡結月だ。しかも、VRFPSのプレイヤーネームの「よしお」ではなく「ユヅ」と呼ぶということは、その子は結月に相当近い人物である可能性が高い。
「で、どうしたんだ?」
「違います、といって走って逃げました」
俺は黙り込み、状況を整理しようとした。この事態をどう収めるべきか、思考を巡らせる。
リンが唐突に作り笑いを浮かべた。
「と、言うのは冗談です。びっくりした?」
俺は一瞬戸惑ったが、以前のリンへのアドバイスを思い出して問いただした。
「リン、正確に答えてほしい。今の話は、今日本当にあったことなのか、何となく思い出したことなのか」
「本当にあったことです。ごめんなさい。でも、お兄様の表情が硬くなっているので、また私が変なことを言ってしまったかと思って、以前のお兄様のアドバイスに従ってみました」
俺は長く息を吐いた。
「わかった。本当にあったことなら、対策を考えなければいけない。結月の体にリンが入っていることがばれるのは不味い」
「さすがに別人では無理がある。——従姉妹という事にしよう。結月は海外に留学している、その代わりに、従姉妹のリンが日本に留学して、結月の家に住んでいる、と」
「分かりました。今度きかれたら、そのように答えます」
リンは真剣な表情で頷いた。
「あとは、やはり結月と見た目が全く同じなのは困るな。これから、髪を伸ばそう、あとは化粧をしてみるか」
「お化粧ですか?」
リンの表情が急に明るくなった。
「俺は化粧をしないから、残念ながらお前に何も教えられない。でも、リンなら自分で調べてうまく出来るんじゃないかな。必要なものは、全部買って良いから」
まるで娘と親父のような会話だな、と思った。
「分かりました。明日はお休みなので、早速練習してみます」
翌朝、朝食を終えるとリンは自室に籠もって化粧を始めた。夜のうちに早速化粧道具を購入してドローンに配達させていたようだ。1時間ほどして、リンが姿を見せた。
「お兄様......どうでしょう!」
俺は目を疑った。まるで別人と言っていいほどの変貌ぶりだった。完璧な美少女になっていた。結月も整った顔立ちをしているが、全く異なる印象だ。まるでプロのメイクアップアーティストが手がけたような完成度の高さだった。
「凄いな、リン、ただ......」
俺は困惑を隠せなかった。突然、芸能人並みのメイクをするのはどうだろうか。気合いが入りすぎているように思えた。メディアに出演するならともかく、これで学校に行くのは場違いな気がした。
「よく分からないけど、もう少し、簡単なもので良いんじゃないかな。あまりに別人に見えても友だちが驚くし、結月と似ているけど、よく見ると違うみたい、という程度で」
「薄めにするとか、女子高生らしい感じにするとか、そういう方向で調べてみたらどうかな」
俺はそう言いながら、女子高生らしい、などと口にする自分の意外なオッサンくささに辟易していた。
「分かりました......残念ですけど、お兄様の言うとおりにしてみます」
30分後、部屋から出てきたリンは、また新たな姿に生まれ変わっていた。今度は結月らしさもかなり残している。まさに女子高生らしい、さりげない化粧だった。
「どうですか?」
「凄く良いと思う」
心配そうだったリンの表情が明るさを取り戻した。
「では、これからはこういう感じでやってみます」
俺は安堵の息をつきながらも、結月を知る人間が同じ学校にいるという事実に、新たな緊張を覚えた。気を緩めすぎずに生活する必要があるだろう。だが、不思議なことがあった。黒川や平島さんのことで分かったように、仮想世界に存在しない人間に関係している記憶は消えているはずだ。それなのに、リンの話が本当だとすれば、この世界でも結月のことを覚えている人間がいる。その理由は何なのか。
その時だった。リンの表情が一変した。
「お兄様、大変です。御厨博士からのメッセージを受信しました」
すっかり「妹」としてリンに接していた俺は、彼女がAIで様々な機能を持っていることを思い出した。その一つが、現実世界の御厨博士との通信だ。現実世界とシミュレーション世界では時間の進み方が1000倍違うため、リアルタイムでのやりとりは不可能だ。しかし、時差はあれどもリンを介して簡単なメッセージをやりとりすることはできる。
「リン、読んでくれるか?」
「はい。『樹君、ちょっとした問題が起きている。簡潔に言うと、そちらでセーブポイントまで時間を戻したとき、こちらではシステムの再起動に予想外に時間がかかってしまっている。現時点ではデータのリストアと正確性チェックを含めて約4時間半。つまり、そっちの時間では半年に相当する。当面、時間を戻すのは最小限にしてほしい』だそうです」
俺は頭を抱えた。これまでに俺はこの世界で2回、時間を戻している。1回目は実験と称して、2回目は警察に自宅を急襲された時だ。つまり、20年あると思っていた時間は既に1年が失われ、残りは19年ということになる。
俺はこれまで、何か問題が起きればセーブポイントまで戻れば良いと、安易に考えていた部分があった。しかし、時間のペナルティがこれほど大きいとなれば、それを頻繁に使うわけにはいかない。一つの世界線でできる限りの試行を重ね、本当に行き詰まった時だけ時間を戻す——そう認識を新たにする必要があった。




