第66話: 成長の兆し
放課後のバスケットボール部の練習時間。体育館にはシューズの軋みと呼吸の音が響き、リンは黙々とシュートを打ち続けていた。ボールは一度もリングに触れることなく、完璧な放物線を描いてゴールへと吸い込まれていく。
「すごい!」
「またノータッチ!」
チームメイトたちから感嘆の声が上がる。だが、1年生キャプテンの富永ひかりは、心配そうな表情でリンを見つめていた。
「はい、実戦練習を始めます!」
ひかりの掛け声が体育館に響いた。実戦形式の練習が始まると、リンの動きは一変する。オープンな味方を見つけられず、ボールを持ち続けてしまう。最後は無理な体勢でシュートを放つものの、簡単にブロックされてしまった。
「リン、パス!」
「こっち空いてる!」
チームメイトたちの声にリンは反応するが、パスを出そうとする頃には、すでにマークされていた。
練習終了後、部員たちが次々と帰っていく中、リンは一人でシュート練習を続けていた。
「リン」
ひかりの声に、リンは振り返る。ひかりは柔らかな表情で近づいてきた。
「なんで、パスを出さないの?」
リンは率直に答えた。
「パスを出すタイミングが分からないの」
「どうして?シュートは完璧なのに」
リンは答えに窮した。シュートはボールの初速と角度を計算すれば良いだけ。しかし、味方へのパスとなると、複数の敵と味方の動きを予測する計算が複雑すぎて、処理が追いつかない。そんな説明をしても理解されるはずもなかった。
「私が特訓するよ」
ひかりが唐突に言った。
「明日から朝練で、マンツーマンで教えるからね」
翌朝から、誰もいない体育館で特訓が始まった。
「私が動くから、リンが思うタイミングでパスを出してみて」
ひかりはそう告げた。
ひかりはリンの周りで様々な動きを見せながら、パスのタイミングを作っていく。しかし、リンはひかりの動きを追って次の動きを考えてしまい、なかなかパスが出せない。
「リン、考えちゃダメ。相手の目を見れば、次の動きが分かるはずだから」
リンは戸惑いながらも、ひかりの目を見つめた。茶色の瞳には、優しさと力強さが宿っていた。
ひかりがフェイントを掛けながら動く。リンはドリブルをしながら、その目の動きを追った。すると不思議なことに、ひかりの次の動きがなんとなく分かるようになってきた。動き出す前に、その方向を視線で教えてくれているような気がした。それは物理演算による予測とは異なる、より直感的な理解だった。
特訓は続いた。やがてリンは他のチームメイトの動きも予測できるようになり、少しずつパスが通るようになっていった。
一週間後の練習試合。リンはボールを持っていた。相手のディフェンスが迫る。その時、左側に一瞬見えたひかりの目を見る。カットインする次の動きが読めた。左側にパスを出すと見せかけて、右側にワンバウンドでノールックパス。
ボールは完璧なコースでひかりの手に収まり、そのままレイアップシュートが決まった。体育館に歓声が響き渡る。
「すごい!リンのパス、完璧!」
「まるでテレパシーみたい!」
チームメイトたちが興奮した声を上げる中、ひかりはリンに向かって満面の笑みで親指を立てた。
練習後、二人は体育館の外で夕日を眺めていた。汗の引いた肌に、心地よい風が通り抜けていく。
「リン」
ひかりが静かに言った。
「リンは、最初は私たちの考えていることが分からなかったんだね」
リンは黙って頷いた。
「でも今は、私たちのこと、よく分かってる」
「うん。ひかりちゃんのおかげだよ」
リンの言葉が、夕暮れの空気に溶けていく。
それから、リンは少しずつ変わっていった。バスケットの練習では、チームメイトの些細な表情の変化から、パスを出すべきタイミングが分かるようになった。クラスでも、会話の中で友達の気持ちの変化に気づいて声をかけられるようになっていった。
ある日の帰り道、ひかりが不思議そうにリンに尋ねた。
「リン、いつのまにか、ずいぶん学校に慣れたんだね。というより、日本に慣れた?」
リンは少し考えてから答えた。
「ひかりちゃんに教えてもらったの。人の目を見ることを」
「目を見る?それだけ?」
ひかりが不思議そうに首を傾げる。
「うん。目を見て、相手の気持ちを考えて、それから自分の気持ちも考えて......」
リンは言葉を選びながら続けた。
「そうしているうちに、なんだか人の気持ちが分かるようになってきたの」
ひかりは優しく微笑んだ。二人の影が、夕陽に照らされて長く伸びていく。
「成長したね、リン!」
ひかりがリンの後ろから抱きついた。リンは少し驚いたが、その感触が今はとても心地よく感じられた。




