第65話:記憶の迷宮
ビジェイとの昼食からムジーク社に戻った俺は、午後の時間をライフコードのユーザーインターフェース関連の資料を読み込むことに費やした。俺の心はなんともすっきりしないものだった。エターナル・ソサエティの意図を探るためには必要な作業だが、同時に彼らの計画の一端を担っているという現実に、罪悪感を感じずにはいられなかった。
午後6時を過ぎ、俺は帰り支度を始めた。ムジーク社は自由出勤・自由退社と聞いていたので、これくらいの時間まで働けば十分だろう。
「お疲れ様です」
声をかけると、ビジェイは笑顔で返してくれた。
「またね、樹」
しかし、その笑顔の奥に何か探るような眼差しを感じ、俺は不安を覚えた。もしかしてビジェイは、俺の正体に気づいているのだろうか。それとも、単なる思い過ごしなのか。
駐車場から会社の前まで呼んだEX-300に乗り込み、リンの待つ渋谷の高校へと向かった。校門の前では、下校時間を迎えた生徒たちが続々と出てきている。俺は、その中にリンの姿を見つけた。背の高い女の子と楽しそうに話をしている様子に、少し安心する。友達ができたようだ。
リンは友達と手を振って別れ、俺の車に向かってきた。
「リン、後ろに乗って」
俺は手振りで後部座席を指示した。リンは少し不思議そうな顔をしたが、言われた通りに後部座席へと滑り込んだ。エターナル・ソサエティと対峙している以上、いつ、どういう状況で危険な運転をしなければならないか分からない。そういうわけでリンを危険な助手席に乗せるわけにはいかなかった。見方によってはお嬢様と運転手のようだが、それも致し方なかった。
青山通りを吉岡家に向かって走りながら、俺はバックミラー越しにリンの様子をうかがった。
「学校、今日はどうだった?」
「楽しかったです」
リンの声には、屈託のない明るさが満ちていた。
「休み時間に、友達にいろいろ聞かれました。上手く答えられたと思います」
「それは良かった」
俺は安堵の息をついた。
「ちなみに、両親の職業は?」
俺はちょっとリンを試してみた。
「父は大学教授、母は日本語の先生です」
リンは即座に答えた。
「よろしい。設定通りだな」
俺は満足げに頷いた。
「他にはどんなことを聞かれたの?」
「好きな食べ物とか、イギリスでの思い出とかですね」
「リンの好きな食べ物は何て答えたんだ?」
「ミルクティーです」
なるほど、と俺は納得した。リンがこの世界で初めて口にしたものだ。厳密には飲み物だが、思い入れがあるのだろう。
「イギリスでの思い出は...何て答えたんだ?」
俺は不安を感じながら尋ねた。ミルクティーは実際にリンが好きなもの、つまり現実だ。一方で、イギリスの思い出など存在しない。
「はい。旅行のこととか、家族の笑えるエピソードとかです」
「具体的には...?」
俺の声には緊張が滲んでいた。
リンは嬉しそうに話し始めた。
「旅行は、夏休みにキングスクロス駅の9 3/4番線から特急に乗ってスコットランドに行っている間に、ベーカーストリートにある自宅が火事になった話をしました」
「それから、家族の話は、ロンドン市内の回転寿司に行った時に、お父さんが回っているベルトにネクタイを挟まれて大変なことになった話とか。みんな、大笑いでした」
俺は一瞬で凍りついた。具体的には言えないが、明らかに何か元ネタがある話しだと俺の直感が確信していた。笑ったクラスメイトの中にも、それに気づいた生徒が何人かはいたに違いない。ジョークだと思ってくれていればいいが。
「リン、思い出せないことは、『忘れました』とか、そういう答えでいいんだよ。むしろ、そう答えた方が安全だ」
俺は慎重に言葉を選んだ。
「思い出せない...ですか?」
リンは首を傾げた。
「私、思い出せないということが、よく分からないんです。思い出そうと思えば、どんなことも思い出せます」
ああ、これはハルシネーション(幻覚)だ、と俺は理解した。AIにとっては避けられない症状なのだ。
AIは質問された時、正確な情報を持っていなくても、もっともらしい答えを自動的に生成してしまう。これは人間の想像力に似ているが、AIの場合は無意識にこれが起こってしまう点で人間と異なっている。それがハルシネーションという現象だった。
「リン、もし何かを話していて、聞いている人の様子がおかしいと感じたら、話を切り上げて『と、いうのは冗談です。びっくりした?』と付け加えるんだ」
リンは真剣な表情で聞いていたが、完全には理解できていないようだった。
「分かりました…お兄様。これからは、そうしてみます」
車は静かに走り続けた。それでも、リンの学校生活は初日としては上出来だった。そのことは、しっかり褒めてやらねばと思う。
「そういえば、車に乗る前に隣にいた子は友達かい? 初日で友達ができるなんて凄いな」
「そうなんです。友達ができたんです!」
リンは嬉しそうに答えた。
「同じ女バスの富永ひかりちゃんです。私より15.5cmも背が高くて、バスケットもとても上手なんです」
吉岡家に到着し、車を停めながら、俺は決意を新たにした。リンを守りながら、同時にこの世界の真実を明らかにしていく。その難しいバランスを保ちつつ、俺たちの戦いは続いていくのだ。




