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第62話:謎の中小企業

翌朝、俺は購入したばかりの電動四輪車EX-300を走らせ、リンを渋谷の学校まで送り届けた。そのまま新宿にあるムジーク社へと向かう道すがら、車内でひとり考えを巡らせていた。レトロなSUVスタイルのEX-300には最新の自動運転システムが搭載されているが、俺は敢えて手動での運転を選んだ。


「何が起こるか分からないからな」


ハンドルを握りしめながら、俺は静かに呟いた。自動運転が当たり前となった現代では、人間が運転する機会は格段に減っていた。免許取得も簡素化され、20時間ほどシミュレータで練習すれば適性が判定される。俺自身、16歳の時に遊び半分でシミュレータをこなして免許を手に入れた記憶がある。


新宿の雑居ビルに到着し、エレベーターで3階まで上がる。「雑居ビル」とは言っても、その外観は昔ながらの雑然とした建物とは程遠く、ごく普通のマンションのようだった。表札を頼りに歩を進めると、「株式会社ムジーク」の文字が目に留まった。入り口のドアは半開きのまま、鍵はかかっていない。


「おじゃまします」


声をかけながらドアを開けると、明るい男性の声が返ってきた。


「真島君か? 入って入って」


活力に満ちた声の主を追って、玄関でスリッパに履き替え、奥へと進んだ。窓際には壮年の男性が立っていた。


「やあ、よく来てくれた。驚いただろう? サイファーとはだいぶ雰囲気が違うだろう?」


男性は温かな笑顔で話しかけてきた。


「ええ、まあ...何というか、家庭的な感じですね」


俺は答えながら部屋を見渡した。12畳ほどの空間に、PCに向かって作業する二人の男性の姿が見える。


「ああ、名乗り忘れていたね。社長の平島だ」


差し出された右手を握る。柔らかいが力強い手のひらに、社長の人柄が伝わってくるようだった。


「真島樹です。プログラマーです。サイファー・アーキテクチャ社からの出向?という形なんだと思います」


まだ自分がこの会社で何をするのか、その目的も定かではない俺は、あいまいな言葉で答えた。


「みんな、ちょっと挨拶を」


平島さんの声に促され、二人の男性が顔を上げた。右側の物静かな印象の中年男性がゆっくりと立ち上がる。


「吉本です。主に社長の尻拭いを担当しています」


思いがけない自己紹介に、どう反応すべきか迷う。意外に面白い人物かもしれない。


もう一人は若いインド系の男性で、整った目鼻立ちが印象的だった。


「ビジェイ・クマールです。ビジェイと呼んでください。私もプログラマーです、真島さん」


ビジェイは満面の笑顔で語りかけてきた。その完璧な日本語に俺は思わず目を見張った。外国人らしい訛りは微塵もない。もしかすると日本で育ったインド系の日本人なのかもしれない。


「こちらこそ、みなさん、よろしくお願いします」


19歳でクオンタム・ダイナミクス社に入社した日のことが、ふと脳裏に浮かぶ。あの頃と比べると、今の自分は少しは成長したのかもしれない。ここの空気は最初から穏やかで、心が自然と和むのを感じた。


「社員は、ここにいる皆さんだけですか?」


思わず口にした質問に、平島さんが答える。


「ああ、もう一人いるんだ。マグロ漁師がね」


意味の分からない言葉に、俺は困惑の表情を浮かべた。


「違います。近森さんは女神デーヴィですよ」


ビジェイが真面目な顔でそう言い、俺の混乱は深まるばかりだった。


吉本さんが優しく説明を加えてくれる。


「近森さんという女性がもう一人いるんだ。彼女は、言ってみれば放浪の人でね。年の半分は海外を転々としていて、行方知れずになる。残りの半年は不定期にここに来て、主にデザイン関係の仕事をしてくれている」


「なるほど。お会いできるのを楽しみにしています」


頷きながら答える。なかなかユニークな会社だが、悪くない印象だった。


「ビジェイ、真島君の社員IDカードは?」


平島さんの問いかけに、ビジェイが即座に応じた。


「はい、できています。どうぞ、真島さん。まあ、特に使い道はないんですが」


ビジェイは満面の笑顔で社員証を差し出してくれた。確かに、玄関の鍵は開けっ放しなのだから、IDカードの必要性はあまりなさそうだ。


グレーのカードには青字で「Itsuki MASHIMA」と書かれ、ホログラムで俺の写真が貼り付けられている。音符のロゴと共に社名「MUSIK」の文字を見た瞬間、俺は強い既視感に襲われた。


「澪!...すみません」


思わず声が漏れる。このカードは、かつて澪がサイファー・アーキテクチャ社への潜入時に使用した偽造IDカードと瓜二つだった。ここが西村さんの偽造IDカード依頼先、つまりサイファー・アーキテクチャ社の下請け企業なのだと確信めいた思いが浮かぶ。


「西村さんをご存知ですか?それと、橘澪、偽造IDカードのことも...」


興奮を抑えきれない声で、俺は尋ねた。


平島さん、吉本さん、ビジェイの三人が顔を見合わせる様子が印象的だった。


「申し訳ない。西村さんも橘さんも思い出せないな。何となく聞き覚えはあるような...でも、ごめん」


平島さんの言葉には偽りがない。おそらく、シミュレーション内で「不存在」扱いとなっている影響で、関連する記憶が消失しているのだろう。


「まあ、IDカードの偽造は、確かにうちらしい仕事ですけどね」


ビジェイが際どい内容を、さも当然のように笑顔で言い放つ。


平島さんは静かに説明を続けた。


「うちは何でも屋なんだ。看板は広告代理店だけど、中小企業だからね。何でもこなさないと生き残れない。最近はサイファー・アーキテクチャ社から細々とした仕事をもらっている。ライフコードのユーザーインターフェイス関連が主だね。真島君も、そのためにここに来てくれたんだろう?」


「はい、まあ...具体的な指示は受けていませんが」


出向というよりは放牧に近い。実際、黒川からは何をすべきか、具体的な指示は一切なかった。


「じゃあ、後でビジェイと打ち合わせて、仕事の内容を決めるといいよ」


平島さんがビジェイに目配せする。


「分かりました」


俺は静かに頷いた。


吉本さんが俺を案内してくれたのは、3人がいる「リビング」に隣接する6畳ほどの部屋だった。扉こそないものの、典型的なマンションの間取りを思わせる空間が広がっている。


「ここは元々アルバイト用の部屋なんだけど、最近は雇ってないから、好きに使っていいよ。私物も持ち込んでいいし、トイレは玄関脇、台所は奥にある。自由に使ってくれ。出退勤も自由だからね」


吉本さんの丁寧な説明に感謝の念が湧く。なるほど、「社長の尻拭い」という役割の意味が少し分かった気がする。実に気の利く人物だ。


机の周りを整理していると、ビジェイが声をかけてきた。


「真島君、午前中は遊んでて。お昼に一緒に食事しながら、仕事の打ち合わせをしましょう」


相変わらずの笑顔を見せながら、ビジェイは言う。


「分かりました」


親指を立てるビジェイの仕草に、温かな人柄が滲み出ていた。俺は心から安心感を覚えた。初日のわずか1時間で、この場所に不思議な心地よさを感じていた。この世界の緊張感とは一線を画す、穏やかな空気がここには確かに存在していた。



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