第61話:リンの学校
俺はリンのもとに駆け寄った。ベッドの上で制服のままうつ伏せに横たわるリンの姿に、心拍数が上がる。
「リン! 大丈夫か!」
慌ててリンの肩を揺すると、その瞬間、リンは静かに目を開いた。
「お兄…きゃっ!」
リンは驚いて反射的に体を起こした。ただ、その反応は、以前の尻尾を踏まれた猫のようなものではなかった。
「すまない、リン。心配で...無事で良かった」
安堵のため息と共に言葉を絞り出す。
「申し訳ありません…ご心配をおかけして」
リンは眠そうに目を擦りながら謝罪した。その仕草はとても自然で、思わず目を見張ってしまう。
しばらくして、着替えを済ませたリンがリビングに降りてきた。AIロボットの用意した夕食を前にして、俺は今日の様子を尋ねることにした。
「午前中はどうだった?」
「はい、まず、編入テストを受けました。前回と同じ問題でしたので、全問正解できましたが、怪しまれないよう、いくつか間違えておきました」
リンは真面目な表情で答えた。完璧すぎることの危うさを理解しているのに感心する。
「編入は認められたのか?」
「はい、問題なく。その後、学食で何人かの生徒と一緒に昼食を取りました」
リンの表情が嬉しそうに輝く。
「それから、前回の採寸の数字を覚えていたので、メッセージで伝えると、制服店がすぐに学校まで制服一式を届けてくれたんです」
「そうか、良かったな」
リンが学校生活に馴染めているようで、俺は心から安堵した。
「午後はどうだった?」
「学校施設の案内があり、六限目は数学の授業を見学しました」
リンは少し考え込むように言った。
「そして放課後は部活動の案内がありました。いくつかの部活を見学し、体験もしました」
「へえ、どんな部活があったんだ?」
「吹奏楽部、美術部、科学部、そして運動部もいくつか...」
リンの言葉が途切れる。何か言いたげな表情だった。
「どうかしたのか?」
「その中で、私の才能が発見されたんです」
「才能?」
「はい。バスケットボールです」
俺は意外な答えに驚いた。リン——つまり結月の身長は高くない。むしろ年齢の割には小柄な方だ。バスケットボールという選択は予想外だった。
「バスケットボール? どういうことだ?」
「私、シュートが得意みたいなんです」
リンは少し誇らしげに言った。
「力が足りないので遠投はできませんが、届く範囲なら、どこからでもリングに入れられます。計算通りの角度と初速で投げるだけなので」
さすがAIだ。瞬時に物理演算を行い、最適な軌道でシュートを決めているのだろう。
「ぜひバスケットボール部に、と勧誘されたところで、午後5時を過ぎていました。お兄様が心配されると思い、急いで電車で帰ってきたんです」
リンは申し訳なさそうに続けた。
「しかし、部屋に入るとたちまち眠気に襲われて、気がつけば眠っていました」
「そうか、疲れたんだな。慣れない環境で色々な経験をして、しかたないよ」
俺は優しく声をかけた。リンの表情が柔らかくなる。
「でも、リン。心配したんだぞ。もし何かあったら...」
リンの表情が曇るのを見て、俺は言葉を切った。
「申し訳ありません、お兄様。お兄様のデバイスで私の位置がいつでも分かるよう、設定しておきます」
リンは真剣な表情でそう告げた。
「ありがとう。それと、バスケ部、入るのか?」
「はい、入りたいと思います。でも...」
リンが言葉を止める。
「でも?」
「私がバスケットボールをするのは、ずるいような気がします。AIとしての能力を使って...」
俺は静かに考えを巡らせた。確かに、リンの言う通りかもしれない。しかし同時に、これはリンが人間社会に溶け込むための貴重なチャンスでもある。
「リン、聞いてくれ。確かにお前の能力は特別かもしれない。でも、このケースではそれを隠す必要はない。むしろ、その能力を使って、チームメイトと協力し、勝利を目指すことがリンにとって大切なんだ」
リンは少し驚いたように俺を見つめた。
「本当ですか?」
「ああ。バスケはシュートだけのスポーツじゃない。パス、ドリブル、ディフェンス...色々な要素がある。お前にとっても、新しい経験になるはずだ」
リンの表情が明るく輝いた。
「分かりました、お兄様。バスケットボール部に入ります」
俺は微笑んだ。リンの成長を見守れること——それは、この世界での新しい生活の中で、予想もしなかった喜びだった。
「よし、じゃあ明日からは新しい生活の始まりだな。俺も新しい会社に行くし、お前も学校だ」
「はい、お兄様。頑張ります」
リンの瞳に決意の色が宿った。この世界での生活は、思いがけない展開を見せ始めていた。エターナル・ソサエティとの戦いという大きな目標は変わらないが、同時に、リンの成長を見守ることも大切な使命になりつつあった。
窓の外では東京の夜空が深い闇に包まれていた。俺たちの新しい生活が、今まさに始まろうとしている。この先どんな展開が待っているのか、期待と不安が心を揺さぶる。だが、リンと二人なら乗り越えていけると信じられた。




