第60話:不安の序曲
サイファー・アーキテクチャ社の68階、黒川彰の役員室のドアの前で、俺は深呼吸をした。時間を3日ほど戻したため、実質10日ぶりのこの場所である。胸の鼓動が少し速まるのを感じた。
ノックをすると、中から低い声が響いた。
「どうぞ」
ドアを開けると、黒川彰が大きな机の向こうに座っていた。55歳とは思えない若々しい容貌だが、その目には鋭い光が宿っている。その視線に、一瞬たじろぎそうになった。
「真島君」
黒川は立ち上がり、俺に向かって歩み寄ると、右手を差し出した。
「よく来てくれた」
俺は一瞬戸惑ったが、すぐに握手に応じた。しかし、黒川の態度は思ったほど「歓迎」というわけでもなく、むしろ、当然のように俺が来ると思っているような雰囲気だった。その余裕が、どこか不気味に思えた。
「座りたまえ」
黒川に促され、俺は応接セットのソファに腰を下ろした。柔らかい革の感触が、緊張した背中に伝わってくる。
「せっかく天才プログラマーに来てもらって悪いんだが、しばらくは、ゆっくりしていてくれ」
黒川は少し申し訳なさそうに言った。
「ハードウェアの方の開発が遅れていてね。君の出番はもう少し先になりそうだ」
俺は少し驚いた。すぐに何か重大な仕事に取りかかるよう命じられると思っていたからだ。
「分かりました。では、俺は何をすれば」
「そうだな」
黒川は少し考え込んだ後、言った。
「君には申し訳ないが、ユーザーインターフェース周りのプログラムでもしててくれ。君の言う『自由』とも関係がありそうだ」
「わかりました」
俺は頷いた。しかし、心には複雑な思いが去来していた。現実世界で取り交わした約束では、俺がエターナル・ソサエティに力を貸す代わりに、ライフコードにより大きな自由を認めることと、拘束されている仲間を解放することになっていた。その約束は果たされるのだろうか。
「もう一つの約束はお忘れですか」
俺は慎重に言葉を選んで訊いてみた。
「もう一つ…何だったかな」
黒川の表情に変化はない。とぼけている様子でもない。その時、俺は御厨博士の言葉を思い出した。この仮想世界で澪や結月、西村さんや齋藤さんのステータスは「不存在」となっており、シミュレートされていない。つまり、この世界には彼らは存在していない。恐らくそのせいで、彼らに関連する記憶も存在していないのだ。
「明日からしばらく、新宿にあるムジークという会社に出向してくれるか、小さな会社ですまないが」
黒川の声が、俺の思考を途切れさせた。
「その前に、君を我が社の特任研究員として迎える。今後、ここへの出入りは自由だ」
俺は黙って頷いた。
その後、俺はサイファー社の総務課で社員証などを受け取り、いくつかのフロアを見て回った。黒川は俺を信用している、または、俺を完全に手なずける自信があるのだろう。ライフコードを停止させようとしていた「輩」に対して、無防備と言えば無防備だった。
俺が務めていたクオンタム社と比較すると、サイファー社は、何というか、体育会系という印象を受けた。スーツ率も高めで、妙なオブジェクトを机に置いている社員もほとんどいない。同じIT企業でもまったく違う空気が流れていることに感心した。
夕暮れ時、俺は吉岡家に戻った。家に入ると、静寂が俺を包み込んだ。
「ただいま」
俺の声が空っぽの家に響く。返事はない。リンはまだ帰っていないのだろう。
俺は深いため息をついた。これから始まる新しい生活。まずはエターナル・ソサエティの懐に入り込むことができた。しかし、本当にこれで世界を変えられるのだろうか。そして、現実世界で澪たちを救い出すことはできるのだろうか。
心の中で疑問と不安が大きくなっていく。しかし、今はただ、目の前のことに集中するしかない。明日から始まる新しい仕事。そこから、何か突破口が見つかるかもしれない。
時計は既に午後7時を回っていた。日は沈み、街は徐々に暗闇に包まれ始めていた。午後に高校への転入手続きを済ませたとして、あまりにも帰りが遅すぎる。
その時、突然、ある不安が俺の心を襲った。黒川が俺を手なずける自信。それはリンを人質に取ったからではないか。その考えが頭をよぎった瞬間、顔面が蒼白になり、心拍数が急上昇した。
俺は慌てて吉岡家の前の道に飛び出し、辺りを見回したが、リンの姿はどこにも見当たらなかった。デバイスにリンの居場所を登録していないことを今更ながら後悔した。リンはこの世界の全ての情報にアクセスできるのだから、俺の居場所は分かるはずだ。しかし、その逆は成り立たない。俺には、リンの場所を知る力が与えられていないのだ。
リンを探しに行こうにも行き先が分からない。かといって、じっとしていても何も解決しない。とりあえず駅まで行ってみようか。そう思った矢先、最後にもう一度家の中を探してみようと思い直した。
急いで各部屋を回り、リンを探す。1階には姿がなかった。申し訳ない気持ちを抑えつつ、ノックしても返事が無かったリンの部屋に足を踏み入れることにした。心臓が激しく鼓動する中、震える手でドアを開けた。暗い部屋の中にリンの気配はない。恐る恐るライトのスイッチに手をかける。
明かりがついた瞬間、ベッドの上に制服のままうつ伏せになっているリンの姿が目に飛び込んできた。一瞬の安堵と、それに続く大きな不安の中で、俺はリンに駆け寄った。




