第58話:私が学校に!?
その日、夕食後のリビングで、俺はリンに向かって思い切った提案を口にした。
「リン、高校に行ってみないか?」
リンは意外にも冷静に答えた。
「はい、お兄様。では、明日、近くの高校に生徒達の様子を見に行きましょう」
やはり勘違いしているようだった。
「いや、そういう意味じゃないんだ」
俺はもう一度言い直した。
「リンが高校に入学するんだよ」
リンの瞳が大きく見開かれた。その瞳には、驚きの光と喜びの色が溢れていた。
「私が…高校に…ですか!?」
リンの声は興奮に震えていた。その素直な反応に、俺は思わず微笑みを浮かべた。
「そうだ。今日、俺は痛感したんだ。俺たちはここに二人だけで居てはダメだって。社会に入っていかなければ、本当の人々の姿は分からない」
俺は真摯な眼差しで続けた。
「俺も、どこかで働くことにする。リンは学校に行って、その様子を俺に伝えてくれないか」
若者たちが本当のところ、ライフコード以降のこの社会をどう感じているのか、その生の声を聞きたいという思いがあった。そこには、書籍や新聞だけでは決して知り得ない思いがあるはずだ。
「分かりました…私、本当に高校に…行けるんですね」
リンの顔には、抑えきれない喜びが溢れていた。その表情を見て、俺は自分の決断が正しかったと確信した。
「どの高校がよろしいでしょうか?お兄様が以前通っていた学校とか?」
リンの問いかけに、俺は首を横に振った。
「いや、俺は中学の途中で国立の『加速クラス』に移ったし、そもそも中学もこの国では絶滅寸前の男子校だった。共学がいいな。男女どちらの考え方も知りたい」
俺は少し思案を重ねた後、決断を下した。
「渋谷に、私立の進学校があるから、そこにしよう。トップクラスの学校だが、リンの能力なら全く問題ない。問題は身元だが、うまく偽装して、帰国子女ということで入学を認めてもらおう。寄付金は多く積めるから、融通が利く私立の方が入りやすいはずだ」
そして、もう一つの理由——それは、渋谷のトップ進学校なら、地元で中学時代の結月本人を知る友人が通っている可能性が低いということだったが、その点はリンには黙っていた。結月がリンという別人になっていることが知られては、面倒なことになりかねない。
「リンは帰国子女。俺は、リンの兄ということにする。両親は海外に残っていることにして。それでやってみよう」
「分かりました。私、精一杯がんばります!」
リンの声には、期待と決意が満ちていた。リンは学校の情報を検索し、制服を眺めながら夢見心地の表情を浮かべている。その姿を、俺は微笑ましく見ていたが、同時に彼女の心の孤独を察して複雑な思いを抱いた。リンはこの仮想世界ではこれまで俺と二人きり、現実世界でも、Audreyの存在を知っているのは数人、同年代の話し相手は、今、その体を借りている結月だけだった。
「リン、あまり、若者の情報を集めるとか考えなくても良いんだ。お前には、高校生活を楽しんで、その様子を聞かせてほしい」
「分かりました、お兄様。本当にありがとうございます!」
リンの笑顔に、俺は胸が温かくなるのを感じた。しかし同時に、新たな懸念も芽生えていた。リンは高校生活に馴染めるだろうか。AIである彼女が、人間の若者たちの輪の中に溶け込めるだろうか。そして何より、ライフコードによって管理されたこの時代の学校生活は、どのような様相を見せるのだろうか。
「リン、高校生活で気をつけることがある」
俺は真剣な眼差しで言った。
「何でしょうか、お兄様?」
「まず、お前の能力を完全に隠す必要はないが、あまりに突出した能力を見せるのは避けたほうがいい。そして、ライフコードについての知識や意見は、口にしないこと」
リンは真摯な表情で頷きながら聞き入っていた。
「分かりました。それより、お兄様、私は人間の感情や行動をまだ完全には理解していません。上手く振る舞えるでしょうか?」
リンの声には不安の色が滲んでいた。俺は優しく微笑んだ。
「大丈夫だ。お前は学習能力が高い。周りの生徒たちの行動を観察し、真似することから始めればいい。そして、何か困ったことがあれば、いつでも相談してくれ」
「はい、お兄様。精一杯頑張ります」
俺は窓の外を見つめながら、これからの展開に思いを馳せた。リンを高校に送り出すことは、単なる情報収集以上の意味を持つだろう。彼女自身が成長し、変化する機会になるかもしれない。そして、その経験が俺たちの戦略に新たな視点をもたらすかもしれない。
同時に、この決断がもたらすリスクも無視できない。リンの正体が露見すれば、俺たちの計画全体が危うさを増す。しかし、それ以上に大きな可能性がそこには眠っているはずだった。
「よし、明日から準備を始めよう。リン、これはお前にとって新しい人生の始まりだ」
「はい、お兄様。この貴重な機会を大切にします」
星の見えない東京の夜空を仰ぎながら、俺たちは新たな挑戦への期待を胸に抱いていた。




