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第57話:生きた情報

国会図書館での調査を終えたある日の午後、俺とリンは築地の喫茶店「宮瀬」へと足を向けた。この古びた喫茶店には、かつて俺たちと共に戦ったジャーナリスト、西村さんとの初めての出会いが刻まれている。懐かしさが胸に満ちると同時に、そこにいたはずの澪の不在が、深い痛みとなって心に残像を残す。


「お兄様、ここで何をするのですか?」


小声でリンが問いかける。


「人々の声を聞くんだ。というより、盗み聞きさ」


俺は静かに答えた。


奥の席に着いた俺たちは、コーヒーとミルクティーを注文する。左手のデバイスから空中に新聞を投影し、それを確認しながら、聴力パラメータを3倍に上げて、さりげなく周囲の会話に耳を澄ました。


三十代ほどの女性二人の話し声が、厚い空気の壁を通り抜けて耳に届く。


「昨日、娘の評価値が50も上がったのよ」


「へえ、すごいじゃない。どうやって?」


「塾の先生が勧めてくれた『評価値を整える10の方法』って本を読ませたの」


子供の頃から評価値に縛られる世の中か——。リンは静かに俺の表情を見つめている。


別のテーブルでは、サラリーマンらしき集団がこんな会話を交わしていた。


「今度の部長、評価値が600超えてるって話だ」


「マジか。俺たちじゃ太刀打ちできねえな」


「そりゃそうだ。評価値600なんてバケモノかよ。夢のまた夢だぜ」


今や評価値は、立場を超えて人々の共通の話題となっていた。失敗して評価値が下がった自虐から、子供や配偶者の高評価値を自慢する話まで。結婚や恋愛における評価値の不釣り合いも、日常的な話題の定番となっている。


何の責任も無い立場なら、鼻で笑って済ませる話だろう。しかし、当の開発者の俺としては、聞けば聞くほど胸が締め付けられる。人々の価値観は、ライフコードに完全に縛られていた。


「リン、この状況をどう思う?」


俺は小声で問いかけた。


「人々の会話の多くが評価値に関連しています。人間を評価する価値観がライフコードによる評価値に一元化されているように感じます」


いつもながら、リンの分析は鋭く、的確であった。


空中に投影された新聞に目を向けると、トップニュースは「国家イノベーション機構」の設立を伝えていた。記事によれば、この機関は巨額を投じて建設したAIセンターによって自動的にイノベーションを行うという。つまり、人間の領域だったイノベーションすらAI主導となり、人間の役割は更に縮小されていくということだ。


他の記事も気になった。「渋谷で傷害事件:評価値をめぐって口論」「上半期の犯罪率、過去最低を更新」——この二つの相反する記事に、俺は強い違和感を覚えた。評価値をめぐる事件は頻発している。一方で、犯罪率は下がっているという。もちろん、整合的な説明は可能だ。人々は評価値を気にして品行方正に振る舞う一方で、それを意識するあまり、例えば、他人の行動によって自分の評価値を下げられると感情を抑制できなくなることもある——そうも説明できる。しかし、記事だけでは真相は掴めない。


現実世界で、治安維持法によって拘束される前のある夜、西村さんがふと漏らした言葉が、鮮やかに蘇ってくる。


「真島くん、世の中の情報というのは決してニュートラルじゃない」


「情報は、それを伝える人間、会社、国の利害によって変形している。つまり、ある側面は誇張され、ある側面は無視される」


確かにその通りかもしれない。以前なら、俺は事実は事実、誰が見ても同じだろうと考えていたはずだ。さらに、今や社会の隅々までエターナル・ソサエティの影響力が及んでいる。ジャーナリズムだけが例外だとは、とても思えなかった。


西村さんは諭すように続けた。


「だから、現場を見るんだ。加工されていない情報がそこにある。五感の全てを使って、現実を自分の体にしみこませるんだ。現場を多く見るほどに、情報にしみこんだ『嘘』の匂いが分かるようになる」


西村さんは、紛争地も含めて世界の現場を自分の目で見てきたという。その経験が、彼の言葉に深い重みを与えていた。


その言葉の意味を、まだ実感するほど俺は経験を積めていない。しかし、その一端は理解できた気がした。


喫茶店を後にした俺たちは、夕暮れの築地の街を歩いた。人々の表情、街の佇まい、全てが生きた情報となって響いてくる。そこには、新聞やニュースには現れない、真実の断片が息づいていた。


「リン、これからもっと街に出よう。もっと多くの場所を見て、人々の声を聞くんだ」


リンは静かに頷いた。


「はい、お兄様。私も同感です。実際に体験することが、真実への近道なのですね」


夕空を仰ぎながら、俺は心に誓った。西村さん、澪、そして現実世界で戦い続ける仲間たちのために、この世界の真実を暴き、変革の糸口を見出す。それこそが、俺たちに課せられた使命なのだから。

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