第56話:知識の宝庫
朝日に照らされた国会図書館の荘厳な佇まいが、千代田区永田町の空に浮かび上がっていた。皇居沿いの道を歩いてきた俺とリンの足取りは軽やかだ。吉岡家から約1時間の道のりではあったが、6月の東京の朝の空気は清々しく、散歩がこれほど心地よいものだとは思いもしなかった。
「お兄様、ここが国会図書館なのですね。思っていたよりずっと大きいです」
リンが感嘆の声を上げた。
「ああ。何しろ本だけで1500万冊以上あるからね。ここなら、社会について深く学べるはずだ」
俺は固い決意を胸に秘めていた。行動を起こす前に、まずはこの世界について知ることが必要だと考えていた。約3年間——現実世界での1日分を世界の観察に費やしたとしても、それは決して無駄な時間にはならないだろう。もちろん、その3年を平穏に過ごせるのならば、の話だが。
館内に足を踏み入れると、そこには想像以上の世界が広がっていた。この仮想世界の国会図書館は、現実世界のデータベースと直結されてるようだった。2050年には現実の国会図書館の蔵書電子化がほぼ完了していたため、現実世界の本がそのまま仮想世界でも閲覧可能になっていた。ということは、吉岡家からオンラインでも閲覧可能なのだが、こういうことは雰囲気作りが大事だ。
「まずは、社会変革に関する本を探そう」
革命、選挙、クーデター、教育、暗殺——社会を変える可能性を秘めたキーワードを次々と検索していく俺の手元で、画面には無数の書籍が浮かび上がっていった。
リンは取り寄せた本を驚異的な速さで読み進めていった。画面上を素早く動く彼女の瞳、次々と切り替わる電子書籍の頁。その姿は、まるで高性能な機械のように正確で効率的だった。
「リン、その読書速度は凄いね。内容はちゃんと理解できているの?」
アセモグルの『自由の命運』に目を通しながら、俺は尋ねた。
「はい、お兄様。私、こういうの得意なんです。重要なポイントは全て記憶し、関連付けも行っています」
俺は感心しつつも、人間としては、どこか焦りにも似た感情を抱かずにはいられなかった。
数時間後、俺たちは国会図書館を後にした。頭の中には新しい知識が満ち溢れていたが、同時に自身の無知も痛感していた。プログラマーとしての知識は豊富でも、社会科学の分野における理解の浅さは否めない。あの時、澪にリーディングリストを作ってもらっておけばよかったと、今更ながら後悔の念に駆られた。
街に出ると、人々の姿が目に飛び込んできた。誰もが左手首のデバイスを頻繁にチェックしている。評価値を確認する仕草は、まるで全ての人が同じ呪いに囚われているかのようだった。
皇居沿いの道を歩きながら、俺はリンに声をかけた。
「リン、ライフコードの現状について、もう一度確認しよう」
リンは頷き、静かに説明を始めた。
「はい。当初、ライフコードは人々の行動を評価し、数値化するシステムでした。マイナス999からプラス999までの評価値で、人々の人生の状態を測っていました。この評価値は、個人の職場や家庭での評価、健康状態、社会貢献度などを総合的に判断して決められていました」
リンは一瞬言葉を切り、その表情に翳りが差した。
「しかし、エターナル・ソサエティによって、システムは徐々に書き換えられていきました。まずは社会的厚生関数が書き換えられ、人々は利己的に振る舞うようになりました。やがてプロジェクト・オーバーライドという大規模な改変が行われました」
リンの声には、かすかな緊張が滲んでいた。
「このプロジェクトにより、ライフコードの評価基準が完全に変更されました。エターナル・ソサエティが望む行動をとる人ほど、高い評価値を得られるようになったのです。つまり、社会の『安定』に寄与する行動や、政府に従順な態度が高く評価されるようになりました」
俺たちは街を歩きながら、人々の様子を観察した。確かに、誰もが強い不満を抱いているようには見えない。むしろ、ライフコードに依存し、従順な態度を示している。人気店の前では、評価値の高い人々が行列を飛び越えて優先的に入店していくが、誰もそれを咎めようとはしない。
「これが『定常状態』か......」
俺は思わず呟いた。
「人々は不満を感じていないどころか、この状況を当たり前だと思っているんだな」
その時、思いがけずリンが口を開いた。
「お兄様、この状況は『ボイルドフロッグ』の状態に似ています」
「ボ......ボイルドフロッグ?」
「はい。カエルを熱湯に入れると飛び出しますが、水から徐々に温度を上げると、カエルは気づかずに茹で上がってしまうという比喩です。人々も同様に、徐々に自由を奪われていることに気づいていないのかもしれません」
「なるほど、『ゆでガエル』だね」
そう言いながら、俺は笑いを必死に堪えていた。「ゆでガエル」が「ボイルドフロッグ」とは——予想外の直訳に、思わず微笑みがこぼれそうになる。
「ちなみに、初めてボイルドフロッグの例えを言ったのは誰なの?」
「イギリスの文化人類学者のグレゴリー・ベイトソンが最初に唱えたとされています」
「そうなの!?」
今度は俺が驚きの声を上げた。にわかには信じがたく、自分でも検索してみたが、やはり正しいようだ。
「ありがとう、リン。俺はてっきり中国の寓話か何かかと思ってた。勉強になった」
その夜、吉岡家に戻った俺たちは、夕食を済ませてソファでくつろいでいた。
「3年か......」
俺は深い思いを込めて呟いた。
「現実世界では1日だけど、ここではかなりの時間だな」
「お兄様、その時間を最大限に活用しましょう」
リンの声には励ましの響きが満ちていた。
俺は静かに頷いた。この観察期間を経て、俺たちは必ず行動を起こすのだ。エターナル・ソサエティの支配を打ち破り、人々を真の自由へと導くための道を見出さねばならない。
この3年間の観察が、きっと未来を変える鍵になるはずだ。
3年後、俺は26歳になっている。マニアックな御厨博士のことだ。当然、肉体の成長や変化もシミュレートしているに違いない。26歳の俺は疲れが翌日まで残るようになっているのだろうか。御厨博士がいつもくれる「しじみ日和」を、この世界でも入手しておいた方が良いかもしれない。
そういえば、リン——いや、その外側である結月も15歳から18歳になるのかと思いを巡らせた。背が伸びたり、様々な変化が起こるのだろうかと考えながらも、どこか結月のキャラクターからは、今の姿が「完成形」のようにも感じられた。
「よし、明日からが本当の始まりだな。おやすみ」
俺はそう呟きながら、決意を新たにした。
「お兄様、おやすみなさい」
俺たちは明日への期待を胸に、それぞれの部屋へと戻った。未知の3年間が、俺たちを待っている。その間に、世界を変える鍵を見つけ出さなければならない。大きなプレッシャーを感じながらも、リンの存在が俺に確かな勇気を与えてくれていた。




