第54話:人体の限界
暮れかけた初夏の陽射しが河川敷を優しく包む夕方、俺は「世界の探求」という大義名分を掲げながら、内心では別の期待に胸を躍らせていた。自身のパラメータを操作してチート能力を得られるか——その実験への好奇心が、静かに昂ぶっていた。広々とした荒川の河川敷なら、万が一の事態にも対応しやすいだろうと考え、俺はリンを連れてその場所に向かった。
「リン、ちょっと実験をしてみるよ」
リンは瞳を輝かせながら頷いた。
「はい、お兄様。どのような実験ですか?」
「見ていてごらん」
左手のデバイスで筋出力のパラメータを5倍に設定し、深い呼吸を一つ。俺は全力で駆け出した。
「すごい!」
リンの驚嘆の声が風を切って届く。俺の体は信じられないスピードで大地を蹴っていた。
「時速60kmは超えてるな」
息を切らせながらそう言った俺の脳裏には、同時に限界も見えていた。
「でも、これが限界だな。これ以上速度が上がると体の制御が難しくなる」
次に、同じパラメータのまま垂直跳びに挑戦する。まるで重力など存在しないかのように、体が宙へと舞い上がった。
「お兄様、4メートル近く跳んでいます!」
下から届くリンの声に応える間もなく、着地の衝撃が全身を貫く。膝が抜けそうになるのを必死で耐えた。
「危ない。落下時の衝撃も大きすぎる」
慎重に実験を続けながら、筋出力5倍という数値が持つ意味を考える。単純計算で攻撃力も5倍—しかし、それは諸刃の剣に他ならなかった。
「もし敵を殴ったら、一撃で致命傷を与えられるかもしれない。でも、俺の拳も間違いなく骨折するな」
リンの眼差しには心配の色が濃く滲んでいた。
「お兄様、あまり無理はしないでください。人体には限界があります」
様々な実験を重ねた末、俺は一つの結論に辿り着いた。
「パラメータを変えれば簡単にチートキャラになれると思っていたけど、現実はそう甘くないな」
「どういうことですか?」
首を傾げるリンに、俺は少し落胆しながら説明を始めた。
「パラメータをいじるのは、最大でも5倍、安全側に考えれば3倍程度が妥当だ。人体って本当に神秘的だな。世の中の人間の能力だって、普通の人とオリンピック選手でも1.5倍程度しか違わないんだ。例えば凡人が100mを15秒で走るところを陸上選手は10秒で走る」
リンは真摯な眼差しで俺の言葉に耳を傾けていた。
「なるほど。人間の体は運動能力に合わせて強度が最適化されているということですね。進化の過程で獲得した絶妙なバランスがあるのかもしれません」
「そうだね」
俺は深く頷いた。
「3倍、5倍と能力を上げるなら、そのベースとなる体が全く別物の強さを身につけなければならない。この仮想世界は現実世界のバランスを忠実に再現しているみたいだ」
次なる実験は感覚系のパラメータ。最初に視力を試してみることにした。現実世界でも裸眼視力1.5を誇る俺だが、果たして視力10.0ではどこまで見えるのか。パラメータ名は端的に「視力」——その直截さに好感を覚えた。
視力を10.0に設定した瞬間、世界の様相が一変する。遠くのビルの窓に映る人影まで克明に捉えられ、まるで映像の解像度が跳ね上がったかのような鮮明さ。これは使い道があるかもしれない——そう思った矢先、突然の目眩に襲われ、体のバランスを崩しかける。
「大丈夫ですか! お兄様」
駆け寄ってくるリンの姿が、揺れる視界の中で何重にも見えた。
「ああ、大丈夫だ。遠くから近くに視点を変えるのが難しい。あとは、何か、異様に疲れる」
おそらく、生来の目の性能ではピントの調整が追いつかず、脳の処理も視覚情報の洪水に溺れているのだろう。人間の脳は、2.0ぐらいまでの視力に最適化されているに違いない。
次に試したのは嗅覚だ。これも「嗅覚」という素直なパラメータ名で、まずは10倍に設定してみる。予想より控えめな変化だ。確かに、これまで気づかなかった匂いの存在を感じ取れるものの、その正体までは掴めない。
犬の嗅覚が人間の1万倍から10万倍という事実を思い出し、思い切って嗅覚パラメータを100,000に設定してみた。
「うわああ!」
思わず叫びながら息を止める。気を失いそうになる寸前、何とか嗅覚パラメータを1に戻すことができた。
「お兄様!」
「ごめん。ちょっとやり過ぎた」
嗅覚10万倍の世界は、まさに地獄だった。河川の水の不快な臭気、犬猫の糞尿、散乱するゴミ、硫黄のような異臭、鉄やコンクリートの無機質な匂い、人々の体臭と香水と柔軟剤が混ざり合う複雑な香り——全ての臭覚情報が一斉に押し寄せ、脳を破壊しかねない暴力となって襲いかかってきた。犬たちは一体、この混沌とした嗅覚世界でどう生きているのだろう。答えは、おそらく脳の処理能力の違いにある。
「人間の脳では、この大量の情報を適切に処理できないんだろうな」
リンはすかさず情報を調べてくれたようだ。
「お兄様、犬の脳は嗅覚情報を処理するための特別な構造を持っているみたいです。生物の進化は本当に不思議ですね」
チート能力による無限の可能性を夢見ていた俺は、厳しい現実に引き戻された思いだった。しかし同時に、人体に備わった精緻なバランスへの畏敬の念も芽生えていた。
「リン、この実験で分かったことがある」
「何でしょうか、お兄様?」
「俺が目指すべきは、チートキャラじゃない。この世界をきちんと理解し、その制約の中で最大限の力を発揮すること。それが、現実世界でも通用する戦略を見つける道なんだ」
リンは静かに、しかし確かな理解を示して頷いた。
「はい。お兄様の言う通りです。あくまでも、現実世界を救うことが私たちの目的ですから」
夕陽に染まる河川敷を後にしながら、俺の心は清々しかった。チートキャラへの夢は消えたが、それは決して無駄な実験ではなかった。この世界を徹底的に理解し、その中で最善の策を見出す——それこそが、俺たちに課された真の挑戦なのだと確信できたのだから。




