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第52話:新生活

健康管理室の天井が、朝の淡い光とともに俺の目に映り込んでくる。この世界でも、人間らしく眠りから覚めることができるようだ。隣を見やると、Audreyはすでに目覚めていた。時計の針は、静かに午前6時を過ぎようとしていた。


「おはよう、Audrey」


「おはようございます、お兄様」


ベッドの上で体を起こしたAudreyは、まるで初めて自分の手足を見るかのように、不思議そうな表情を浮かべている。


「どうした? 大丈夫?」


「はい。大丈夫です。ただ、『体がある』という感覚にまだ慣れません」


その言葉を聞いて、俺は初めての朝を迎えるAudreyの戸惑いを和らげようと、簡単な体操を提案した。二人で腕を伸ばしたり、首を回したりしながら、彼女が新しい体の動きを理解するのを優しく見守る。次に、触覚への理解を深めるため、壁や机の表面、カーテンに触れてもらった。様々な質感に驚くAudreyの表情を見ながら、俺は人間の感覚について丁寧に説明を加えていく。この時間を通じて、AIから人間の体を持つ存在へと、彼女が少しずつ移行していくのを感じることができた。


人気のない早朝のオフィスフロアを二人で歩き、例の自販機で朝食を調達する。Audreyも徐々に自分の体に慣れ始めたようで、サンドイッチを口に運ぶ動作も、昨日よりずっと自然になっていた。


食事を終えた俺は、ふと呟いた。


「さて、まずはどこに行くか。そして、この世界でどこを拠点にするか」


すると意外にも、Audreyがある提案をした。


「私たちの活動拠点として、結月さんの家を推奨します」


それは、彼女がこの世界で借りている体の持ち主、吉岡結月の家のことだった。


「それはどうして?」


「まず、秋葉原の吉岡家は立地が良いです。面積も広く、生活設備も高いレベルで整っています。それに」


Audreyは少し間を置いて続けた。


「長い間、結月さん以外誰も住んでいないようです」


俺は驚きを隠せなかった。確かに、俺が訪ねた時も結月以外の人の気配はなかった。あの中学生は、どうやって一人で生活していたのだろう。


「分かった。じゃあ秋葉原の吉岡家に向かおう」


JDタワーから秋葉原までは徒歩で2時間弱。初夏の気温は30度を超えているはずだ。街の様子を30分ほど見て回ったら、無理せずに地下鉄に乗ることにした。


すでに日は高く昇り、汗ばむ不快さまでもが見事に再現されている。仮想世界の精度の高さに感心しつつも、少し辟易とした。Audreyも不思議そうに周りを見回しながらついてくるが、「学習」に夢中で、気を抜くと俺から大きく遅れてしまう。


「Audrey!」


何度も呼びかけるうちに、周囲の視線が気になり始めた。特にAudreyへの注目が集中している。俺はある違和感に気づいていたが、今はその議論を避けることにした。


六本木から地下鉄に揺られながら秋葉原へ。車内では、相変わらずライフコードの評価値を確認する人々の姿が目立つ。俺も思わず自分の左手首のデバイスを見たが、評価値は表示されていなかった。このシミュレーション世界では、俺たちは評価値の縛りから解放されているようだ。現実世界でマイナスの評価値に苦しめられていた身として、それは何よりの救いだった。


秋葉原駅から吉岡家へ。外観は以前結月を訪ねた時と変わらず、表札も「吉岡」のままだ。


「Audrey、顔認証を試してみよう」


彼女が結月の顔をカメラに向けると、吉岡家の玄関のロックが解除された。


「やった! 中に入れそうだ」


少し興奮気味に玄関のドアを開けると、懐かしい景色が広がっていた。しかし、2階の結月の部屋に入った瞬間、その印象は一変する。


現実世界では結月の部屋に溢れていたメカニカルキーボードも、壁際の棚に所狭しと並んでいたレトロPC、はんだごての類も、一切見当たらない。


「いやいやいや」


首を横に振りながら、小声で呟く。これは結月の部屋ではない——そう思いながらも、考えてみれば、彼女の部屋こそが「異常」だったのかもしれない、と思い直した。高級住宅街の豪邸に住む中学生女子の部屋として、AIが再現するならば、今、目の前にある部屋の方が自然なのだ。


「お兄様、結月さんのお部屋って、思ったより女の子らしくて驚きました」


目を輝かせながら部屋を探索するAudreyに、俺は苦笑しながら答えた。


「いや、本当はこんな部屋じゃないんだ。古のPCとか、もっと面白いものがたくさんあったはずなんだ。さすがにそこまでは、仮想世界では再現できていないみたいだな」


唯一、外部との通信用だったと思われるハイスペックのメインPCだけは、正確な構成で再現されていた。それだけが、結月らしさを残す名残だった。


「ここが、私たちの新しい拠点になるんですね」


Audreyの静かな呟きに、俺は決意を込めて答えた。


「ああ、そうだな。ここを拠点にして、この世界を変えていく」


この家から、20年という長い旅が始まる。エターナル・ソサエティに対抗し、定常状態に陥った社会を目覚めさせる方法を、必ず見つけ出さなければならない。


そんな大それたことを考えながらも、まずは現実的な作業として吉岡家の物色を始めることにした。空き巣のような気分で気が引けたが、間取りや設備の把握は必要不可欠だった。


「Audrey、階段の下りは特に気をつけて」


妙に素早く階段を上り下りするAudreyの姿が気になって、思わず声をかける。


俺は丁寧に家の構造を確認していった。1階には20畳はありそうな広々としたリビングとキッチン、それに加えて2つの部屋と贅沢な広さの浴室。2階には、おそらくご両親の寝室だろう10畳ほどの部屋、結月の8畳の部屋、そして6畳ほどの部屋が2つ。トイレや洗面所も完備された6LDKの豪邸だ。


Audreyは結月の部屋を、俺は客間らしき2階の6畳の部屋を、当面の生活拠点として使うことに決めた。他人の家に勝手に住むという後ろめたさは拭えないが、考えようによっては結月本人が友人を泊めているようなものだと考えれば——。そう自分に言い聞かせることで、俺は心の中の罪悪感を少しずつ追い出していった。


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